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『美山考』第2章 丹波国【260601】

南丹市美山町の地域史についての考察
改訂履歴


「丹波」の古来の呼称は「タニハ」と言われ、古事記の一部には「旦波」、日本書紀で「丹波」の漢字が当てられている。
その他には「谷端」や「田庭」(諸国名義考)など文字の意味に由来するものや、「太邇波」(和名抄)のような発音文字が当てられている史料もあるが、概ね「丹波」の文字が使われているようである。
また、「大正郡誌」では、「上古この国は湖水にしてその色赤かりしとなん大山咋神鍬にて川を掘り給ひしより、人住む邦となりしを国の名として丹波国(あかなみのくに)とは号けし」を紹介し、別の口碑では、古代亀岡盆地にあった大きな池の水の色は、退治された大蛇の血で赤色だったとするものがあり、「丹」=赤色 に由来する説話もあるらしい。
要は「丹波」の由来はよく分からない、というのが実際のところかもしれない。
「丹波」や「桑田」が使われている史料例としては、「日本書紀」垂仁天皇 八七年二月条に、

昔 丹波國桑田村 有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮也。
《訳》丹波国 の 桑田村 に甕襲(みかそ)という人がいた。甕襲の家に犬がいて、名は足往(あゆき)という。犬は山の獸(しし、名は牟士那(むじな))を殺して食べた。獸の腹に八尺瓊(やさかに)の勾玉があった。玉は石上神宮にある。

【日本書紀 垂仁天皇 八十七年二月条】

との記載がある。(余談だが、飼っている犬に名前を付けていたとする初見か?)
また、「古事記」垂仁天皇のホムチワケ伝承には次の記載がある。

故是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、卽到 旦波國、多遲麻國、追廻東方、到近淡海國、乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取其鳥而持上獻。
《訳》この人その鵠(くぐい)を追い尋ね、木國より針間國に到り、また追って稻羽國を越え、即ち 旦波國、多遲麻國に到り、東の方に追い廻り、近つ淡海國に到り、すなわち三野國を越え、尾張國より伝って科野國に追い、遂に高志國に追い到り、和那美の水門に網を張って、その鳥を取り持ち上り献じた。


【古事記 垂仁天皇】

垂仁天皇の実在性や在位年代はさておき、少なくとも日本書紀や古事記が編纂された七〇〇年代初頭には、「丹波」「桑田」の名称もしくは地名が存在したものと思われる。
更に、継体天皇即位前紀には「足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波國桑田郡(仲哀天皇の五世の孫、倭彦王が丹波国桑田郡に在す)」の記述があり、「桑田郡」としての表記が初見できる。
古代〈六八三以前〉の丹波国は、現在の丹後地方や但馬地方を含む広範囲に渡るものであり、下記①②③全ての地域(郡)を含むものであったが、「増訂丹波誌年表」によると、天武十二年〈六八三〉に但馬国(③郡)が分離、和銅六年〈七一三〉には丹後国(②郡)が分離したとする。
①(丹波国)桑田郡、船井郡、多紀郡、氷上郡、天田郡、何鹿郡
②(丹後国)加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹郡郡、熊野郡
③(但馬国)朝来郡、養父郡、出石郡、気多郡、城崎郡、美含郡、二方郡、七美郡

但し、「日本書紀」の垂仁天皇三年三月・二十三年九月・八十八年七月条、允恭天皇二年二月条、雄略天皇十七年三月条に「但馬国」もしくは「但馬」を含む人名が見られること、「古事記」の開化天皇条、垂仁天皇条、応神天皇条に「多遅摩国」もしくは「多遅摩」を含む人名が見られること、「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、成務天皇代に「但遲麻国造」を定めたとしていることなどから、天武十二年正月(全国の国司・国造・郡司に詔)、もしくは、天武四年〈六七五〉二月(「丹波・但馬」に詔)より以前に「但馬国」は「丹波国」から既に分離(両国が並存)した状態だったのかもしれない。

丹波國造。志賀高穴穗朝御世(成務天皇)、尾張同祖-建稻種命四世孫-大倉岐命、定賜國造。
丹後國造。諾良朝御世(元明天皇)、和銅六年、割丹波國、置丹後國。
但遲麻國造。志賀高穴穗朝御世(成務天皇)、竹野君同祖-彦坐王五世孫-船穗足尼、定賜國造。今但馬國。古事記云、大多牟坂王、多遲摩國造之祖也。按大多牟坂王、息長宿禰王子-彦坐王孫也。

【先代旧事本紀 国造本紀】

但馬国の成り立ちに関連して、「日本書紀」の天日槍伝説と「古事記」の天日矛伝説に留意しておきたい。日本の神名(天日)や神具(矛・槍)を思わせる名称であるが、両書とも新羅国の皇子(渡来人)とし、「古事記」応神天皇条では、天日矛の系譜の後裔に、息長帯比売命(神功皇后)の母方の祖である葛城高額比売命の名も見える。
「日本書紀」の垂仁天皇条では、初め播磨国に渡来した天日槍は、天皇から播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を給せられたがそれを断り、菟道河を遡って近江国の吾名邑に至りしばらく住んだ後、近江から若狭国を経て、最終的には但馬国(出石)に住んだとする。その他にも但馬国に直接渡来したとする異伝も載せている。前述「国造本紀」で、垂仁天皇から二代後の成務天皇代に「但遅麻国造」を定めたとしていることから、天日槍が渡来した時点の但馬地域は、まだ「丹波国」の一部だったのかもしれない。(ひょっとしたら、天日槍集団は、若狭国から但馬国に向かう経路で、知井坂を越えて美山町知見辺りに下り、由良川沿いに和知方面へ抜けて行ったかもしれない、その時一部の人は知井辺りに住み着いたかもしれない..と空想するだけでも楽しい^^)
「古事記」では応神天皇条に天日矛に関連した逸話を詳しく載せている。阿加留比売神を追って難波に入ろうとしたができず「多遅摩国」に至り留まったとしているが、時期的なことは書かれていない。
その他にも、「播磨国風土記」の天日槍が播磨国揖保郡から但馬伊都志に至ったとする説話や、天日槍と類似した渡来人伝説である都怒我阿羅斯等伝説(「日本書紀」垂仁天皇二年二月条)があり、天日槍(天日矛)の正体や渡来経路については諸説みられるようである。
いずれにしても、和同六年以降の丹波国は前述①の六郡として近世まで続くことになり、明治四年〈一八七一〉の廃藩置県、大正・昭和・平成の市町村合併を経て、現在は次の行政区画に統廃合されている。

桑田郡→京都府亀岡市、京都府南丹市(美山町)
船井郡→京都府南丹市、京都府京丹波町
多紀郡→兵庫県丹波篠山市
氷上郡→兵庫県丹波市
天田郡→京都府福知山市
何鹿郡→京都府綾部市、京都府福知山市

第三章以降では、美山町域がかつて属していた丹波国桑田郡から、北桑田郡美山町、そして現在の南丹市美山町に至るまでの沿革を含めた、美山町の地域史について考察していくこととする。


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