美山 歴史勉強会と田歌の祇園祭【260802】
260802:「日像・蓮如の布教活動と寺院宗派の分布と動向」に、曹洞宗の分布について考察、並びに、もと真言宗であったと思われる寺院の考察を追記
2026年7月13~14日、一泊二日で南丹市美山町を訪問した。
主なミッションは、13日は美山町小渕の宝泉寺で開催される歴史勉強会に参加すること、14日は田歌の祇園祭を見学すること。
勉強会では、美山の文化財を守る会でご活躍されている先生から「美山 あれこれ」と題して、美山町の古代から近代に至るまでの、地理・歴史・行事・人物・説話等、様々な視点から、資料を読むだけでは知り得ないたいへん貴重なお話しを伺うことができた。
勉強会で知ったたくさんの事柄の中から、次の四つのテーマについて関連資料を調べ、若干の考察を行うことにした。
・宝泉寺の由緒と文化財
・日像・蓮如の布教活動と寺院宗派の分布と動向
・風土を語る子守唄
・野添に古墳がある!(かもしれない?)
上記以外にも興味惹かれるテーマはたくさんあるが、一旦宿題にして、今後の考察で順次参考にさせていただければ..と^^
両日の行動記録については Instagram Touring Album へのリンクで参照できるようにしたが、ぬいぐるみ神社、釜が原については同地の様子をここにも記録し、田歌の祇園祭については、主に祭りの構成について記録した。
今回歴史勉強会に参加させていただいたこと、美山の魅力をさらに知る機会を与えたくださったことに感謝するとともに、この場で知り得たことをもとにして、後日『美山考』への反映と改訂を行うことで結実させていきたい。
7月13~14日の行動記録
Instagram Touring Album を参照。
宝泉寺の由緒と文化財

岳応山 宝泉寺は、美山町小渕に所在する真言宗の寺院。神亀年間<724~729>に音海で創建された堂宇を、寛正年間<1460~1466>に小渕に移したとされる。
薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の三体の秘仏を安置し、五十年に一度開帳する。厨子には薬師三尊像が安置されている。弘法大師像には、貞享七年<1684>八月十四日大仏師清水作の銘があり、大師堂は、宝永四年<1707>に宮津・山家・和知の宮大工により建立されたもので、先生が中心になって南丹市の文化財指定に向けてご尽力されている。
「京都府北桑田郡誌」で紹介されている当寺の由緒・伝承は以下の通り。
行基は、聖武天皇代<724~749>に出家することなく市井の人々を集め道路や橋の修復、施院の開設など、貧者や病人を救済する「智識」活動を行った人物であり、のちに大僧正の位が授けられ、東大寺の大仏建立に携わった。「美山仏教誌」では、行基が当地に来たとは考えられないとしているが、行基本人だけではなく、多くの弟子が各地で「智識」活動をしたことには留意しておきたい。
實泉寺
字小淵にあり。寺傳に神龜年間法道仙人の開基せる所といふ。本尊藥師如來は行基の作と傳へられ、靈驗甚だ著しく、足利幕府時代に本寺の火災に罹りし際にも、本尊のみは忽ち三町餘を距る文珠堂に飛び去りその難を免れたまひしといふ。就きて尊容を拜するに高さ一尺餘の木造立像にして、相好極めて圓滿に傳彩清麗に何れも傑作たるに疑なきも刀法の繊巧に過ぎたる反って江戶初期の作にはあらずやなざ思はしめたり。今五十年毎に開扉し、その他はたやすく拜するを得す。本奪を安置せる薬師堂及びその西北に隣れる大師堂(真言宗なれば弘法大師を安置す)はその建築何れも巧緻端麗を極め、江戶時代初期の建造に刷すべしと見たり。殊に大師堂は一層複雑なる構造を有し輪奐の美を備へたり。
《訳》字小淵にある。寺伝では、神亀年間<724~729>に法道仙人が開基した所という。本尊の薬師如来は行基の作と伝えられ、霊験が甚だ著しく、足利幕府時代に本寺が火災に遭った際にも、本尊のみは忽ち三町余りを隔てた文殊堂へ飛び去り、その難を免れたという。ついてそのお姿を拝見すると、高さ一尺余りの木造立像であり、お顔立ち極めて円満で、彩色の美しさは清らかで美しく、いずれも傑作であることに疑いはないものの、彫刻の技法が繊細で巧みすぎるあまり、かえって江戸初期の作ではないかと思わせるほどである。現在では五十年ごとに扉を開け、それ以外は容易に拝観することができない。本尊を安置している薬師堂およびその西北に隣接する大師堂(真言宗であるため弘法大師を安置する)は、その建築がいずれも巧みで端正な美しさを極めており、江戸時代初期の建造と推測してよいと思われる。特に大師堂は一層複雑な構造を有し、堂宇の美しさを備えている。
法道仙人と小淵の藥師
人皇第四十五代聖武天皇の神龜年中、行基菩薩諸國を巡歴して本村長老ヶ獄の麓を通過するに方り、山頂の空に五色の瑞雲たなびき、金色の更にその中央に輝くを見て、行基之を法光なりとし頂上に登りしに、法道仙人白雲に乘じ來りて岩窟内に坐禪し、飛鉢の行を勤修するに會す。
仙人行基を見ていふ、子今より南方に赴き衆生濟度に努むべし、吾が念ずる所の藥師如來の尊像は之を子に託せん。將來必ず一伽藍を建て、之を安置するの機を得らるべしと、言畢るや忽ちにして仙人の影を失ふ。
行基山麓に下りて柴の庵を結び坐禪勤行を怠らず専ら仙人の所託を果さんとす。かくて機根相應の時來り、地方素封家皆その檀那となり互に力を協せて有志者の喜捨浄財を勸説し、刻苦五ヶ年の後つひに音海に一寺坊を創建し、附近にありし岳泉瀧に因みて實泉守と號せり。
第百一代後花園天皇の寛正年中、之を小淵に移轉す、今の藥師堂之なり。五十年毎に開帳参拜せしむる例を破るときは、拜者は立どころに盲目となり、地方には悪疫流行すべしと傳ふ。
《訳》人皇第四十五代聖武天皇の神亀年中<724~729>、行基菩薩が諸国を巡歴して本村長老ヶ獄の麓を通過した際、山頂の空に五色の瑞雲がたなびき、金色の光がその中央に輝くのを見て、行基はこれを仏法による光であるとし、頂上に登ったところ、法道仙人が白雲に乗ってやって来て岩窟内で座禅し、鉢を飛ばす修行を行っている場に会う。
仙人は行基を見て言うには、お前は今から南方に赴き、衆生を救済することに努めよ。我が念ずる所の薬師如来の尊像はこれをそなたに託そう。将来必ず一つの伽藍を建て、これを安置する機会を得るだろうと。言い終わるや否や、たちまちにして仙人の影は見えなくなる。
行基は山麓に下りて柴の庵を結び、座禅と勤行を怠らず、もっぱら仙人の託した願いを果たそうとする。こうして機根が相応する時が来り、地方の素封家は皆その檀那となり、互いに力を合わせて有志者の喜捨浄財を勧説し、苦労を重ねること五年の後、ついに音海に一寺坊を創建し、附近にあった岳泉滝に因んで宝泉守と号した。
第百一代後花園天皇の寛正年中<1460~1466>、これを小淵に移転した。今の薬師堂がこれである。五十年毎にご開帳を行い参拝させるという例を破るならば、参拝者はたちどころに盲目となり、地方には悪疫が流行すると伝えられている。
日像・蓮如の布教活動と寺院宗派の分布と動向
美山町に所在する寺院宗派の数は、
浄土真宗:15(東14・西1)緑、曹洞宗:13 黒、日蓮宗:7 紫、臨済宗:7 青、真言宗:5 赤、浄土宗:1 オレンジ
であり、その分布を図示すると次のようになる。

近世期以前の寺院の分布と宗派は現在の様相とはかなり異なるものと思われ、かつ現在に続く各寺院についても成立時期や来歴はさまざまであり、由緒を詳しく把握することは難しいが、以下に主な寺院宗派の分布と動向について概観する。
曹洞宗の寺院は、鶴ケ岡の北端、大野の西端、宮島の南端に点在する一方、知井内に多くの分布が見られる。丹波地方は禅宗系寺院が多く、口丹波地域の曹洞宗は戦国から江戸初期に成立したらしい。
だだ、十四世紀後半の古文書(棚野の土地売券)に曹洞宗の寺院と思われる「孤峰寺」の名が見える。当地において曹洞宗の寺院は、中世の早い時期から分布していたのかもしれない。
また、「わかさ名田庄村誌2」によると、永禄十一年<1568>小浜 妙徳寺の怡山文悦が知井坂峠を越え、田歌、江和、北村などに曹洞宗を布教し、この地の多くの寺院を曹洞宗に改宗させた、とのこと。知井地区に曹洞宗の寺院の分布が多く見られるのはこのことが関係するのかもしれない。【260802】
天正年間<1573~1592>、織田信長の丹波平定の際、門坊寺(聞法寺)をはじめとする真言宗寺院が廃寺された。近世にかけて真言宗から他の宗派に改宗された寺院が多くあり、中世以前の美山町域には、少なくとも今より多くの真言宗寺院があったものと思われる。
廃寺も含め、もと真言宗であったと思われる寺院を分かる範囲で列記すると次の十ヶ寺がある。
極楽寺(砂木)、知見寺(知見)、光明寺(大野)、加法寺(上司)、西乗寺(下平屋)、正覚寺(安掛)、昌徳寺(河内谷)、門坊寺(聞法寺、河内谷)、福正寺(南)、最勝寺(佐々里)【260802】
法華宗(日蓮宗)については、日蓮(1282年没)の直弟子である日像 <1269~1342> が、日蓮の足跡を辿って佐渡で法華経を布教した後、京都での布教を行うため、永仁元年<1293> 佐渡から能登を経て小浜に上陸、知井坂を越えて知見に入り、知美寺(真言宗)を本像寺(法華宗)に改宗、知見下に心蓮寺(日蓮宗)を創建したとされる。
「京都府北桑田郡誌」に記される本像寺の解説は次の通り。
本像寺
知井村大字知見に在る法華宗の寺なり。寺傳にいふ。本寺はもと真言宗に屬し、貞觀十六年智證大師の弟圓乘の開基にして長榮山知美寺といへり。十九代の僧多寶阿閣梨大觀、永仁元年十一月五日日蓮の高足日像の此の地に巡錫せる際、之と法論を闘はして打ち敗れ、忽ち日像の弟子となりて、日蓮宗に改め、寺號をも本像と更めたりと。而して當時所藏せし經文は之を三町餘距たれる山腹に埋め了せり。爾來京都本山妙顯寺貫首歴代の隱棲地に充てられ。一時巨刹なりしも、後花園天皇の康正二年四月火災に罹りて鳥有に歸し、ついで天禄(元禄か)三年尾崎山の地を相して堂字を再建せしが、近く明治四年十二月また炎上して堂字什寶悉く焼失す。翌五年五月假に一草庵を結び以て今日に至る。本寺藏する所の大黒天木像は黝黒にして頗る古色を帶び、其の背後に左の如き銘文の刻せられたりといへば、今より五百八十餘年前の彫刻なるべき理なるも、未だ面り拜するの機會なきを遺憾とす。
蓮師自作新願
為後代記之
曆應三年
辰十月十三日 日像(華押)
《訳》本像寺は知井村の大字知見にある法華宗の寺である。寺伝によると、当寺はもと真言宗に属し、貞観十六年<874>に智証大師の弟子である円乗が開基し、長栄山知美寺と号したという。十九代の僧である多宝阿闍梨大観が、永仁元年<1293>十一月五日に日蓮の高弟である日像がこの地に巡錫した際、日像と法論を戦わせて敗れ、たちまち日像の弟子となって日蓮宗に改め、寺号も本像寺と改めたとされる。そして、当時所蔵していた経文は、ここから三町余り離れた山腹に埋納した。それ以来、京都の本山である妙顕寺の歴代貫首の隠棲地に充てられ、一時は大寺院であったが、後花園天皇の時代の康正二年<1456>四月に火災に遭って全焼し、続いて天禄(元禄の誤りか)三年<1690>尾崎山の地を選んで堂宇を再建した。しかし、近年の明治四年十二月にまたしても火災で堂宇や寺宝のすべてが焼失し、翌年五月に仮の草庵を結んで今日に至っている。当寺が所蔵する大黒天の木像は黒みを帯びて非常に古色を帯びており、その背後には次のような銘文が刻まれているという。これによれば今から五百八十余年前の彫刻であるはずだが、まだ直接拝観する機会がないのは遺憾である。
蓮師自作新願
為後代記之
暦応三年<1340>
辰十月十三日 日像(華押)
時代は下り天文四年<1535> 法華宗は延暦寺との対立(天文の法難)に敗れ、法華宗徒が多くいた上司・和泉・長谷・大野はその影響を受けたとされる。上司では、真言宗から法華宗になっていた加法寺の宗徒は一戸を残して京都に追放され、後に寛永十一年<1634> 加法寺は本妙寺(日蓮宗)となって再興した。和泉の信者は臨済宗に転じ、宗虎(1596年寂)が栄久院(臨済宗)を建立した。大野は難を逃れ、天正元年<1573> 菅原実相が、慶能法師後裔が建立したとされる光明寺(真言宗)を蓮乗寺(日蓮宗)に改宗した。長谷では、文禄三年<1594> 日堯が蓮華寺(日蓮宗)を建立した。
浄土真宗寺院は、蓮如<1415~1499>以降に多くが成立した。帖外御文六十(蓮如上人御文)の記述から、文明七年<1475>に越前吉崎から小浜に上陸し、丹波経て摂津に至ったことが分かる。名田庄側から知井坂を越えて知見に下り、河内谷を経由して弓削方面に抜ける街道があり、奇しくも日像と同じ足跡を辿ったのかもしれない。
去文明七年乙未八月下旬の比、予生年六十一にして越前國坂北郡細呂宜郷の内吉久名の内吉崎の弊坊を、俄に便船の次を悅びて海路はるかに順風をまねき、一日がけにと志して岩狹(若狭?)の小濱に舟をよせ、丹波づたひに攝津の國をとをり、この當國當所出口の草坊にこえ(略)
※當國當所出口の草坊:枚方市出口の 淵埋山 出口御坊 光善寺
このときのものと思われる蓮如伝承が、光瑞寺(元真言宗、内久保)、福正寺(元真言宗、南)、最勝寺(元真言宗、佐々里)、最尊寺(棚)に残る。『美山考 第11章 伝承と人物』参照。
浄土真宗寺院の分布は美山町域の中心部に多くを占める一方、東端で弓削と接する佐々里 最勝寺が、真言宗から真宗寺院として再興されたのは興味深い。
美山町域以南の蓮如上人の足跡は分からず、真宗寺院を広めた形跡はないらしい。小浜に上陸し美山町域に真宗寺院を広めたのは、単なる偶然ではなく、京都の真宗勢力に対する後方支援の拠点地域として布石したのだろう、と先生の御説。なるほど十六世紀における一向一揆等、真宗勢力の動向を見ると納得できる。これまで、蓮如上人がなぜ美山町域での布教活動を精力的に進めたのだろう..と疑問に思っていたことが腑に落ちた次第。
十六世紀に当地を治めた川勝光照の菩提寺の光照寺は臨済宗であり、現在の臨済宗七寺院の分布は、川勝氏が支配していた地域の範囲を示唆するものかもしれない。当時、大野より西側地域は松平石見守兵部(経歴未詳)、知井の東側地域は天竜寺など、川勝氏とは別の土地支配者がそれぞれの地域を治めていたと思われる。
風土を語る子守唄
「美山伝承の旅」の「おようの子守歌」に「美山の子守歌」にまつわる説話がある。歌詞の冒頭「二十五日」は天神さんの日で、その翌日に生まれた子は天神さんの生まれ変わり、の意味を持つとのこと。「今日は二十五日、明日はこの子の誕生日」のフレーズは、北桑田に限らず他の地域(例えば、京都市北区賀茂・雲ケ畑の「ねんねおしやす」等)でも見られるようである。なにか元になる子守唄があるのだろうか..
子守りや子の母親の思いが一見脈絡なく語られるように見える歌詞の各行からは、この歌がつくられた当時の生活の様子が垣間見れるようでたいへん興味深い。末尾数行の歌詞は、子守りに限らず極限の心理状態になった人間の本性を言い当てているようでもある。
佐々里と広河原の子守唄で、合いの手が「ヨヨイヨイ ココラコイ」「ヨヨラホイ ココラコイ」と酷似しているところが面白い。「美山の子守唄」が歌われた地域とは異なる生活様式の人たちが、佐々里峠を挟んだ佐々里と広河原に分かれて暮らしていた。「京都広河原民俗誌」によれば、広河原には佐々里から移り住んだ最勝寺の檀徒がいたとする。佐々里・広河原の盆踊りでは、丹波踊りではなく、ヤッサコサイ踊りを踊っていた(いる)らしい。『美山考 第十章 行事と食文化』参照。
「美山の子守り唄」では「丹波」「江戸」の地名が見える。美山は丹波国に位置するにもかかわらず「ねたら丹波へ」とわざわざ「丹波」を言うのは、もともとは隣接地域の子守唄(例えば、摂津国や山城国など?)から持ってきた歌詞なのだろうか..さらに「目がさめたら江戸へ」はどういう意味だろう..江戸はあまりにも遠過ぎるし..
「佐々里の子守唄」からは、佐々里が摂津・山城の近接地のみならず、遠く北陸・東北方面と交流のあったことが分かる。どのようなつながりがあったのだろう..
「広河原の子守唄」の冒頭にある「河内の尼寺」とはどこだろう..大阪南部の河内?それとも美山町河内谷?
等々、地理にまつわる疑問はいくつもあり、今後留意していこうかと^^
各地の子守唄は、その土地の風土を語るものであることや、地理的に離れた地域とのつながり(文化・経済・血縁のつながり?)が表現されていることに気づくよい機会になった。
美山の子守歌
ねんねしなされ 今日は二十五日
明日はこの子の 誕生日 ヨホホ
誕生日には 小豆の飯炊いて
一生この子が まめなよに ヨホホ
赤いべべ着て 赤いじょじょはいて
連れてまいろか ののさまへ ヨホホ
ねんねころいち ころたけのいち
竹にもたれて ねねなされ ヨホホ
ねたら丹波へ おきたら山へ
お目がさめたら お江戸まで ヨホホ
ねんねしなされ おやすみなされ
朝のごぜんの あがるまで ヨホホ
朝のごぜんは なんどきあがる
あけは九つ 夜は七つ ヨホホ
守りよ子守りよ なんで子を泣かす
乳が飲みとて 泣きなさる ヨホホ
乳が飲みたけりゃ 連れてこい飲まそ
連れてゆく間に 日が暮れた ヨホホ
日が暮れたなら お提灯ともせ
お提灯ともす間に 夜が明けた ヨホホ
ねんねねんねん まだ夜は夜中
あけの烏が 鳴くまでも ヨホホ
ねんねしょと言うて ねるよな子なら
守りもしてやろ うとうてやろ ヨホホ
守りもしてやろ うとうてもやろし
間にゃままごと してもやろ ヨホホ
よいやよいよい よい子でござる
この子育てた 親みたい ヨホホ
親を見たけりゃ この子を見やれ
親によく似た きりょうよし ヨホホ
うちのこの子は いまねるところ
だれもやかまし 言うてくれな ヨホホ
だれもやかまし 言わせぬけれど
守りがやかまし 言うて泣かす ヨホホ
親のない子に 親はと問えば
親は極楽 ねてござる ヨホホ
北を枕に 木の葉を夜着よ
雲を天井に ねてござる ヨホホ
この子よい子や ぼた餅顔や
きな粉つけたら なおよかろ ヨホホ
うちのこの子は 泣きみそきみそ
だれが きみそと 名をつけた ヨホホ
今夜ここにねて 明日の夜はどこや
明日は田の中 畔まくら ヨホホ
畔をまくらに 枯草よせて
落つるその葉が 夜着となる ヨホホ
守りはつらいもんや これから先は
雪はチラチラ 子は泣くし ヨホホ
ねんねしなされ おやすみなされ
おきて泣く子は つら憎い ヨホホ
つらの憎い子を まな板にのせて
青菜切るよに ザクザクと ヨホホ
切ってきざんで 油で揚げて
道の四辻に ともしおくよ ヨホホ
人が通れば なむあみだぶつ
親が通れば 血の涙 ヨホホ
佐々里の子守歌
ねんねしてくれ よい子でねたなら
赤い枕を 買うて さすによ
ヨヨイヨイ ココラコイ
赤い枕は まだ買うてないがな
そ言うて たらして ねさすのやよ
ヨヨイヨイ ココラコイ
わしの兄弟 七人あるによ
京と大坂と 伏見と淀とな
佐渡と越後と わしゃここによ
ヨヨイヨイ ココラコイ
広河原の子守歌〈ねさせ歌〉
はたちこえたら 嫁入りはおそいな
行くか河内の 尼寺へな
ヨヨラホイ ココラコイ
親と親との ご相談なろがな
行かにゃなろまえ もどろとも
ヨヨラホイ ココラコイ
いやというのに あなたはくどいな
一度いやなら 二度もいや
ヨヨラホイ ココラコイ
しんぼうしてくれ いやじゃろけれどよ
親と末代 そわしゃせぬ
ヨヨラホイ ココラコイ
なにがいやじゃろ 夫の親やよ
かわいあなたの 親じゃもの
ヨヨラホイ ココラコイ
ねんねされませ 今日は二十五日よ
あすはこの子の 誕生日でよ
ヨーイヨーイ ココラコイ
誕生日には 豆のまま炊いてな
一生この子が まめなよによ
ヨーイヨーイ ココラコイ
守りのつらいのは 霜月師走よ
雪はちらつく 子は泣くしよ
ヨーラホイ ココラコイ
野添に古墳がある!(かもしれない?)
勉強会の歓談時に参加者のお一人が「野添に古墳がある」とビックリする話をされた。私が美山の地域史に興味を持つきっかけにもなった美山の古墳探索は半ば諦めていたため、これは是非見に行かねば、と勉強会終了後に急遽現地見学することになった。
現地は、4060S1 妙見神社と 4060T1 深見寺が所在する野添の小山だった。以前同社寺を訪れたときは「古墳」という視点では見ておらず気づかなかったが、なるほど言われてみれば、地形を利用して削り出した前方後円墳もしくは前方後方墳のように見えなくもない。妙見神社がある小高い場所と対を成すようにあるもうひとつの小高い部分は墓所になっている。
国土地理院の赤色立体地図でも山頂部が二つあり平らになっているのが分かる。埴輪破片のひとつでも見つかれば、ひょっとしたら、美山の大発見!?になるかも^^
折しも勉強会の先生が某大学の先生と美山の古墳をテーマにした交流をされるとのこと。そこでも当地が話題になり、新たな事実が分かれば..と期待中^^

ぬいぐるみ神社
御祭神:
天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)
菊理媛尊(くくりひめのみこと)
速玉男命(はやたまのおのみこと)
事解男命(ことさかのおのみこと)
創建:
2026年6月20日
京都東山 霊明神社の御祭神四柱の御分霊を奉遷・遷座

田歌から五波峠への林道に入って車で数分走ったところに駐車場があった。車を停め右手の山に延びる地道が参道だと思い歩いていたが、どうもそういう感じでもない。引き返して五波峠への道を左手に緩くカーブしたところで社殿の屋根が見えた。
六月に創建、祭事が斎行されたばかりの神社であり、『美山考』で社寺の現地訪問を続けていることから、早いうちに是非参拝したいと思っていた。
小川の橋を渡り境内に入ったところにクマくんがいる。鳥居をくぐり拝殿で参拝したあと、その奥の本殿へ。創建されたばかりの社殿を見るのは初めてで、なにかしら清々しい気持ちになる。美山各地の古くからある神社も創建当初はこんな感じで、氏子の喜びもひとしおだったのかもしれない。その心が代々引き継がれ、各集落の人たちの手で大切に守り続けられているような気がする。

社務所におられた柔和な方が社殿の屋根が見える場所を教えてくださった。坂道を少し上ったところから、カワイくキレイに整えられた屋根が見え、そのてっぺんには、帽子の先っぽをつまむようにして若苗が植えられていた。
ぬいぐるみそのものには余り縁のないジーさんだが、なんだか気持ちがほんわかする空間だった。いつまでも多くの人たちから愛され続ける神社になることを願い境内をあとにした。
『美山考 第九章 神社と寺院』の次回改訂時には、田歌所在の神社「5080S2 ぬいぐるみ神社」として記録できればと思っている。
美山各地の神社を参拝していると、川から少し離れたところや高台に鎮座されているものが多いことを思い出し、大雨で川が増水したときに境内が浸水しませんように..と老婆心ながら少しばかり気掛かりに..
釜が原
「美山町誌」によると、釜が原は、中世に知井の荘園を管理していた「知井公文六郎座衛門」の屋敷があったところではないかとされ、地理院地図の赤丸部分が、同様の地形をしているように見える。

明治16年の釜ヶ原地図 を抜粋

是非現地を見ておきたくて、昨夜泊まった佐々里の宿から自転車で佐々里川沿いの林道を上流に向かって走った。「八頭の大鹿退治」伝承地、転び岩の案内板がある少し手前に扇状の地形があった。中央部分は小高くなっていて「美山町誌」の地図で宅地と書かれた部分なのかもしれない。杉林になっているため奥の方の様子は分からないが、背後の山側は壁のように切り立っているように見える。おそらくここが釜が原。

佐々里の「八つ頭の大鹿退治伝説」(『美山考 第十一章 伝承と人物 香賀三郎(甲賀三郎)』参照)では、釜が原は、甲賀三郎が退治した大鹿を釜茹でして皆で食べ、部下の労を労ったところとされ、周辺にはこの他にもたくさんの伝承地がある。できればゆっくり見て回りたいが、クマの出没が怖いので早々に来た道を引き返した^^
田歌の祇園さん
田歌の祇園さんは、牛の神さまとして農家の信仰を集め、疫病除去、暑気払いといった夏祭り本来の目的に加え、農作祈願の祭りとして行われているとのこと。知井地区にお住まいの先生の解説でも、昔各家では牛を飼っていたこと、飼うことができない家には牛をレンタルしていたこと、牛を丁重に葬る牛塚があったことについて触れられていた。
神楽のほとんどは獅子神楽であるが、田歌の神楽は獅子をもたないのが特色で、大神楽の滑稽芸と太鼓打ちが結びついた形態として資料的価値が高く貴重なものとされている。
昨年現地で祭りを見学した際に、各役者の持ち物や神楽堂の中の様子がよく見えなかったため、「ふるさと美山の生活誌(1983 阜一秀)」と「令和3年度秋季特別展 森と共に生きる 知井地区を中心に(南丹市立文化博物館)」を参考にして、役者と行列順、神楽堂、神楽の構成について以下に概観しておくことにした。各役者が所持する面や小道具は、後誌にカラー写真で紹介されている。そのなかから面の部分を抜粋させていただいた。各役者の表情がよく分かり面白い。

~ 知井地区を中心に ~
南丹市立文化博物館
p.40 の一部を抜粋
役者と行列順
① 神主
② 鬼:二人 般若面、ささらを持つ
③ 天狗:一人 赤色の鼻高面、黒の僧衣高下駄
④ 奴:三人 一番目「草」、二番目「蕾」、三番目「花」、顔をくまどり、かつらをつける、奴装束、ぞうり
⑤ ヒョットコ:一人 ヒョットコ面、タスキ掛、わらじ、ささらを持つ
⑥ オタフク:一人 女装、オカメ面、タスキ掛、ぞうり、シャモジを持つ
⑦ 樽負い爺:一人 ジジイの面、タツツケ、樽入りの竹かごを背負う、男根模型をぶら下げる
⑧ 神楽堂
⑨ 笛人
神楽堂
太鼓台、正面中央に大太鼓、右脇に祠、左脇に小太鼓(ある?)、台下四隅に車がついている。一種の神輿で、祭礼に先んじて七月七日宿に迎えられ、七月十四日祭礼当日宿から神社に還幸する。

2026年7月14日撮影
神楽
ならし:一般氏子が腕ならしのため太鼓を打つ
かぐら:鬼と奴が一人ずつ「かぐら」の曲を打つ
さんぎり:二人の奴の太鼓打ちに爺が絡む、元気な奴とよぼよぼした爺の所作が対照的
にぎまくら:オタフクが芸打ちを行い、そこへヒョットコが出てきて打ち継ぎ、さらにオタフクが入れ替わり打ち、太鼓打ちを終える
三人舞:ヒョットコが踊るとオタフクがついていく、それを見た爺がやきもちを焼いてオタフクにちょっかいをだす..など滑稽戯を行う
