『美山考』第9章〔大野B〕三埜(川谷・小笹尾・岩江戸)・大野【260401】
南丹市美山町の地域史についての考察
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エリア地図06〔大野B〕三埜(川谷・小笹尾・岩江戸)・大野

2061S1 菅原神社

所在地:三埜(川谷)
祭神:菅原道真
創建:未詳
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:菅原道真の弟、慶能法師が当地に小庵を作り居住していたとする。
2063S2 本宮神社

所在地:三埜(岩江戸)
祭神:速玉男命
創建:正徳2<1712>
氏子:未詳
例祭:未詳
由緒等:2025年10月24日、背丈ほどの草が生い茂る細い道の先に親水公園があり、その傍らの少し高台になった所が境内になっていた。
「明治群誌」「大正郡誌」で由緒は未詳としており、現地訪問時の印象から相当古くからある神社のように思われた。
2070S1 天満宮

所在地:大野
祭神:菅原道真、慶能法師(野々村頼房)
創建:天正13<1585>
氏子:大野
例祭:10月スポーツの日
由緒等:「大野区誌」に天満宮の由緒について詳しい記載あり。
・享和年間<1801~1804>「丹波志」で広畑に毘沙門天堂と併設されてあったとされる ※「仏教誌」では、明治初年まで蓮乗寺にあり、廃仏毀釈政策の神仏分離に寄り天満宮に移されたとしている。
・文化11<1814>堂本に再建
・明治6<1873>廃社
・明治15<1882>復旧請願、大石に再建
・明治29<1896>風水害により破壊
・明治30<1897>広畑に移転再建
・昭和10<1935>札ノ辻に移転、現在に至る
・平成10<1995>毘沙門天立像盗難にあい未解決
2070T1 林昌寺

所在地:大野
山号:周陽山(北桑田三十三所霊場第七番)
宗派:曹洞宗
本尊:釈迦牟尼仏
創建:弘治元<1555>
開基:未詳、正保元<1644>孤峰禅師中興
由緒等:
・寛保元<1741>火災により諸堂焼失
・寛延元<1748>本堂再建
・文政4<1821>落雷により諸堂焼失
・天保元<1830>再建
「仏教誌」「大正郡誌」に同寺所蔵の次の文書と寺伝を載せている。
「第11章 伝承と人物 9. 川勝光照」に載せた 史料11-14「鹿王院文書 下田将氏田地売券」(応永5<1398>2月25日)と 史料11-15「鹿王院文書 大秦忠継庵所并山寄進状」(康永三<1344>6月20日)の文中には、弓削庄棚野村にあったと思われる「孤峰寺」の名が見える。下記寺伝と300年近い年代差はあるが、本寺中興の「孤峰大禅師」と何らかのつながりがあるのだろうか。
初自弘治逮元和之末禅教律三宗僧侶交居此(中略) 後寛永之初里人大半帰心当山成禅宗
《訳》弘治<1555〜1558>の初めから元和<1615〜1624>の末に至るまでは、禅・教・律の三宗の僧侶が混ざって居住していた。その後、寛永<1624〜1644>の初めになると、里人の大半が当山に帰依し、禅宗となったのである。
寛永十七庚辰年十一月上旬、当国船井郡下胡摩村へ越前大本山永平寺孤峰大祥師来與ありて、新地開発遊ばされ、山号を秀林山寺号を龍沢寺と申候て、永平寺の禅風殊の外繁昌の沙汰有之値に付則堂寺も知識地の望有之候に付、総且那中申合、役人三人己十一月に下胡麻村龍沢寺へ登山致し、林昌寺も当時住僧無之破壊同様の寺に御座候得共、何卒孤峰大禅師様御楽興遊ばし被下候て、御取立の処総且那中奉願上趣申上候処、
時の監寺伝龍和尚様被出候儀は、当寺も新開発にて近年の辛労大方ならず、其上先達て中臺村西岸寺並に志和村真福寺右の両寺より、孤峰大禅師講待に役人参り、右両寺近年に取立可致旨返答に及置値〇諸方急々に取立も行届き申間敷候、大禅師前へ奉達の上委細返答致すべく候條、今晩は門前に宿を取り一宿可致旨被仰出、
則一宿致し翌朝登山致候処、大抑師様直面被仰出候義は、西岸寺、真福寺両寺は先約なれば明春より取立の積なり。林昌寺も近年の内に取立可申候条、先当分傳察僧を監住として差遣はし可申候由被仰出。
直様下山任則午春右伝察僧御被成候て、檀中等是時より禅曹洞の家風に相定り候事
《訳》寛永十七年<1640>庚辰十一月上旬、当国船井郡下胡摩村へ、越前の大本山永平寺から孤峰大祥禅師がお越しになった。そこで新しく土地を開発され、山号を秀林山、寺号を龍沢寺と称して開創された。永平寺の禅風が格別に盛んであるという評判であったため、当寺も直末寺となることを希望した。
そこで檀家一同で相談し、役人三人が十一月に下胡摩村の龍沢寺へ参上した。林昌寺も当時は住職がおらず、破壊されたも同然の状態であったが、何とかして孤峰大禅師様に再興願いたいという、檀家一同の願いを申し上げた。
すると、時の監寺(寺の事務責任者)である伝龍和尚が出てこられ、次のように仰った。
「当寺も新しく開かれたばかりで、近年の苦労はひとかたならぬものである。その上、先日すでに中臺村の西岸寺と志和村の真福寺の両寺から、孤峰大禅師を待ち受けて役人が参られ、これら両寺を近年中にお取り立てする旨、返答を済ませている。諸方を急いでお取り立てすることも行き届かないであろう。大禅師様へお伝えした上で詳細を返答するので、今晩は門前に宿を取り、一晩泊まるように」
そこで一晩宿泊し、翌朝に再び参上したところ、大禅師様が直接お出ましになり、次のように仰った。
「西岸寺と真福寺の両寺は先約があるため、来春よりお取り立てする予定である。林昌寺も数年以内にお取り立てするので、まずは当分の間、伝察僧を住職として派遣しよう」
直ちに下山し、翌午の年の春に、この伝察僧が赴任された。これにより、檀家一同はこの時より禅宗曹洞宗の宗風に定まったのである。
2070T2 蓮乗寺

所在地:大野
山号:秀伝山
宗派:日蓮宗(京都妙顕寺末)
本尊:未詳
創建:天正元<1573>
開基:日孟「大正郡誌」 ※「仏教誌」では日堯開山とする。
由緒等:慶能法師後裔が真言宗光明寺を建立(現在地より上の山麓)、永禄年代<1558>と文禄年代<1592>に焼失した。
菅原実相が妙顕寺日堯に帰依し天正元<1573>に日蓮宗に改宗、寺号を秀伝山蓮乗寺と改め、日堯が現在地に移し開山。
毘沙門天立像は、「仏教誌」では、明治初年まで当寺にあり、廃仏毀釈政策の神仏分離により天満宮に移されたとしているが、「大野区誌」では、広畑にあった毘沙門堂が、昭和10<1935>以降に天満宮境内に移されたとする。
毘沙門天立像は、平成10<1998>盗難にあい未解決。
野々村三十三村領主の菩提法要を毎年9月1日に、歓楽寺、岩栖寺、加法寺(上司の本妙寺創立前にあった真言宗の寺)、蓮乗寺で交互に行っていたが、その後当寺だけで行うようになったとする。
大永年間<1521~1582>に、豊郷(洞)に創立された妙光寺は、明智光秀の丹波進攻により荒廃し、のち日堯が中興したが、昭和になって檀家八戸とともに蓮乗寺に合併した。
