『美山考』第9章〔大野A〕樫原・向山・小渕・音海・肱谷【260811】
南丹市美山町の地域史についての考察
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エリア地図06〔大野A〕樫原・向山・小渕・音海・肱谷

2010S1 大原神社

所在地:樫原
創建:大化元<645>か
祭神:伊弉冉尊
氏子:樫原
例祭:4月23日
由緒等:境内に掲示されている大原神社の由緒書きには次の縁起を載せる。
文中の天田郡川合(現福知山市三和町)大原神社は、由緒書きで仁寿2<852>創建とされるが、「丹波志」では、仁寿2<852>3月23日樫原に鎮座、弘安2<1279>9月28日三和町に遷座とする。
園部藩主小出氏累代の祈願所とされる。
大原神社は、もとの名を「大原神宮」「大原大明神」と呼び、我が国の本宗である伊勢神宮より御神霊を勧請し祀られた社である。
古伝によると孝徳天皇の御代<645>に創立され、霊験顕著にして、その崇敬の範囲は村波全地域は勿ろん広く近畿圏に渉り大原詣と称して、参詣者は常に跡を断つことなかりしと伝えられている。
その崇敬の深甚なる結果、天田郡川合の大原神社(文徳天皇、仁寿3<853>分霊)を始め地方分霊数多くあり、これら分霊地より当地を元大原と称し当社をして元大原大明神と称え奉られ「大原講」なるものが各地に存在した。元和5<1619>より園部藩主小出公の十代(250年間)御祈願社となり、丹波の国の古社六社に列せられた。明治40<1907>3月神饌幣帛料供進の社に指定され、大正12<1923>7月に郷社に列せられた。伊勢神宮の遙拝所は明治6<1873>公許である。猿田彦命を祭神とする摂社川上神社の「からす田楽」は京都府第一号の民俗無形文化財に指定されている。現在の本殿は文政6<1823>2月火災にかかり弘化3<1846>に再建されたものである。
末社:五社明神・金刀比羅神社
御神徳:全てに神徳ありと伝えられているが、その中でも特筆すると「農業・林業・商業の振興」「縁結び・安産」「子供の成長・学力向上進学」「病気平癒・交通安全」
例大祭:4月23日
からす田楽奉納神事:10月10日(※現在はスポーツの日)
神木欅の大木二本は京都府特別指定
2010S1-1 川上神社

所在地:(大原神社境内)
創建:仁寿2<852>
祭神:猿田彦命
氏子:樫原
例祭:10月10日「からす田楽」 ※「第10章 行事と食文化 - 表10-2 行事の記録 - 2025年10月13日 からす田楽」参照
由緒等:文化3<1806>の火災で文書焼失のため由緒不明、ササラに天正7<1836>作、安政6<1859>作の墨書きあり。
2010S1-2 金毘羅宮

創建:文化2<1805>
2010S1-3 五社神社

宗像宮・八幡宮・豊受宮・月読宮・天満宮
創建:貞治5<1366>
2010S1-4 伊勢神宮遥拝所

2010S1-5 大山祇神社

山の神を祭り、からす田楽はこの場所でも行われる
2010T1 永照寺

所在地:樫原
山号:日谷山(北桑田三十三所霊場第十番)
宗派:曹洞宗(園部竜穏寺末)
本尊:釈迦如来
創建:寛文5<1665>
開基:竜穏寺僧麟朔の勧請開基か
由緒等:未詳
2020S1 瀧神社

所在地:向山
祭神:多伎都比古命
創建:貞治5<1366>
氏子:向山
例祭:10月
由緒等:鳥居付近に立てられた由緒書きは次の通り。(一部省略)
祭神 多伎都比古命(正一瀧明神)大国主命の孫
社殿 一間社流造 杉皮葺き 覆屋付
貞治5年<1366>(南北朝時代)建立
天和2年<1682>(江戸時代前期)再建
瀧神社の名称は社殿の側に滝が存在していたといわれています
昭和34~35年大野ダム建設に伴い移転
社殿は村人が解体し、部材を運び宮大工の手で移築する
改修工事
瀧神社本殿銅板葺き工事(昭和62年)
瀧神社本殿御須屋土台修理工事(平成25年)
愛宕神社修復工事(平成30年)
祭礼 毎年10月
2030T1 宝泉寺 【260811】

所在地:小渕
山号:岳応山(北桑田三十三所霊場第八番)
宗派:真言宗
本尊:薬師如来
創建:宝徳元~寛政年間<1449~1460>
開基:未詳(行基開山とする由緒あり、但し「仏教誌」は疑問視)
由緒等:
・文禄4<1595>現在の本堂創立
・正徳3<1713>薬師堂、大師堂、表門創立
神亀年間<724~728>に音海のあった聖武天皇の御宇(行基開山、本尊薬師如来は法道仙人持仏)を、後花園天皇の勅許を得て現在の地に移し、宝徳元~寛政年間<1449~1460>に伽藍を建立したとする。
薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の三体の秘仏を安置し、五十年に一度開帳する。厨子には薬師三尊像が安置されている。弘法大師像には、貞享七年<1684>八月十四日大仏師清水作の銘があり、大師堂は、宝永四年<1707>に宮津・山家・和知の宮大工により建立されたもので、文化財を保存する会の有志が中心になって南丹市の文化財指定に向けてご尽力されている。
「大正郡誌」で紹介されている当寺の由緒と伝承を以下に引用する。
行基は、聖武天皇代<724~749>に出家することなく市井の人々を集め道路や橋の修復、施院の開設など、貧者や病人を救済する「智識」活動を行った人物であり、のちに大僧正の位が授けられ、東大寺の大仏建立に携わった。「美山仏教誌」では、行基が当地に来たとは考えられないとしているが、行基本人だけではなく、多くの弟子が各地で「智識」活動をしたことには留意しておきたい。
實泉寺
字小淵にあり。寺傳に神龜年間法道仙人の開基せる所といふ。本尊藥師如來は行基の作と傳へられ、靈驗甚だ著しく、足利幕府時代に本寺の火災に罹りし際にも、本尊のみは忽ち三町餘を距る文珠堂に飛び去りその難を免れたまひしといふ。就きて尊容を拜するに高さ一尺餘の木造立像にして、相好極めて圓滿に傳彩清麗に何れも傑作たるに疑なきも刀法の繊巧に過ぎたる反って江戶初期の作にはあらずやなざ思はしめたり。今五十年毎に開扉し、その他はたやすく拜するを得す。本奪を安置せる薬師堂及びその西北に隣れる大師堂(真言宗なれば弘法大師を安置す)はその建築何れも巧緻端麗を極め、江戶時代初期の建造に刷すべしと見たり。殊に大師堂は一層複雑なる構造を有し輪奐の美を備へたり。
《訳》字小淵にある。寺伝では、神亀年間<七二四~七二九>に法道仙人が開基した所という。本尊の薬師如来は行基の作と伝えられ、霊験が甚だ著しく、足利幕府時代に本寺が火災に遭った際にも、本尊のみは忽ち三町余りを隔てた文殊堂へ飛び去り、その難を免れたという。ついてそのお姿を拝見すると、高さ一尺余りの木造立像であり、お顔立ち極めて円満で、彩色の美しさは清らかで美しく、いずれも傑作であることに疑いはないものの、彫刻の技法が繊細で巧みすぎるあまり、かえって江戸初期の作ではないかと思わせるほどである。現在では五十年ごとに扉を開け、それ以外は容易に拝観することができない。本尊を安置している薬師堂およびその西北に隣接する大師堂(真言宗であるため弘法大師を安置する)は、その建築がいずれも巧みで端正な美しさを極めており、江戸時代初期の建造と推測してよいと思われる。特に大師堂は一層複雑な構造を有し、堂宇の美しさを備えている。
法道仙人と小淵の藥師
人皇第四十五代聖武天皇の神龜年中、行基菩薩諸國を巡歴して本村長老ヶ獄の麓を通過するに方り、山頂の空に五色の瑞雲たなびき、金色の更にその中央に輝くを見て、行基之を法光なりとし頂上に登りしに、法道仙人白雲に乘じ來りて岩窟内に坐禪し、飛鉢の行を勤修するに會す。
仙人行基を見ていふ、子今より南方に赴き衆生濟度に努むべし、吾が念ずる所の藥師如來の尊像は之を子に託せん。將來必ず一伽藍を建て、之を安置するの機を得らるべしと、言畢るや忽ちにして仙人の影を失ふ。
行基山麓に下りて柴の庵を結び坐禪勤行を怠らず専ら仙人の所託を果さんとす。かくて機根相應の時來り、地方素封家皆その檀那となり互に力を協せて有志者の喜捨浄財を勸説し、刻苦五ヶ年の後つひに音海に一寺坊を創建し、附近にありし岳泉瀧に因みて實泉守と號せり。
第百一代後花園天皇の寛正年中、之を小淵に移轉す、今の藥師堂之なり。五十年毎に開帳参拜せしむる例を破るときは、拜者は立どころに盲目となり、地方には悪疫流行すべしと傳ふ。
《訳》人皇第四十五代聖武天皇の神亀年中<724~729>、行基菩薩が諸国を巡歴して本村長老ヶ獄の麓を通過した際、山頂の空に五色の瑞雲がたなびき、金色の光がその中央に輝くのを見て、行基はこれを仏法による光であるとし、頂上に登ったところ、法道仙人が白雲に乗ってやって来て岩窟内で座禅し、鉢を飛ばす修行を行っている場に会う。
仙人は行基を見て言うには、お前は今から南方に赴き、衆生を救済することに努めよ。我が念ずる所の薬師如来の尊像はこれをそなたに託そう。将来必ず一つの伽藍を建て、これを安置する機会を得るだろうと。言い終わるや否や、たちまちにして仙人の影は見えなくなる。
行基は山麓に下りて柴の庵を結び、座禅と勤行を怠らず、もっぱら仙人の託した願いを果たそうとする。こうして機根が相応する時が来り、地方の素封家は皆その檀那となり、互いに力を合わせて有志者の喜捨浄財を勧説し、苦労を重ねること五年の後、ついに音海に一寺坊を創建し、附近にあった岳泉滝に因んで宝泉守と号した。
第百一代後花園天皇の寛正年中<1460~1466>、これを小淵に移転した。今の薬師堂がこれである。五十年毎にご開帳を行い参拝させるという例を破るならば、参拝者はたちどころに盲目となり、地方には悪疫が流行すると伝えられている。
2050S1 八幡神社(大明神)

所在地:肱谷
祭神:応神天皇
創建:寛文12<1672>
氏子:肱谷
例祭:10月15日
由緒等:文化12<1815>、文字四郎兵衛によって開削された用水路の完成を祝し、その日(10月15日)を例祭の日としていたが、明治年間に宮改めがあり7月15日に変更され、さらに現在は10月15日が祭礼日になっている。
上記は「第11章 伝承と人物 - 表11-1 「美山伝承の旅」と関連事項」に載せた肱谷の伝承「四郎兵衛新田」と関係するもののように思われる。
