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行くは江の島?それとも大山?|おうちで「東海道五十三次」旅 #7 藤沢

日本橋を出発して3日目。
早朝に戸塚を出たものの、坂の上り下りに苦戦して、長い遊行寺坂を下る頃には、もうすっかり日が昇っていました。

歌川広重筆『東海道五拾三次』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-47577)

何といっても、前面に描かれた鳥居が目を引く広重の「藤沢」ですが、この絵は、藤沢宿周辺のどこを描いているのでしょうか。
 
鳥居の背後には川が流れ、橋が架かっており、たくさんの人がこの橋を渡っています。
 
江戸からの東海道は、長い遊行寺坂を下り終えると藤沢宿に入ります。
そのまま少し進むと、境川に架かる遊行寺橋(大鋸橋)があり、藤沢宿は、この境川を挟んだ東西からなる、全長1.3㎞の宿場でした。
 
そして江戸からだと、遊行寺橋を渡ったところが、東海道と江の島へと続く江の島道との分岐で、橋のたもとから少し南下したところに、江の島道の入り口を示す、江の島弁財天の一の鳥居がありました。
 
従って、広重の「藤沢」で描かれているのは、画面奥が江戸側で、江戸側から遊行寺橋を渡り切り、江の島道に入って一の鳥居をくぐった辺りから、後ろを振り返った場面です。

遊行寺橋の奥に描かれた家並みは、江戸側の入り口へと続く藤沢宿で、この絵の副題が「遊行寺」となっているように、その向こうの山の上に見えるのが遊行寺です。
 
ちなみに、別の橋に架け代わってはいるものの、遊行寺橋は現在も江戸時代と同じ場所にありますが、江の島の一の鳥居は、明治時代に撤去されてしまいました。


さて、私もようやく長い長い遊行寺坂を下りおえ、藤沢宿に入りました。
東海道はここで左に曲がり、ここから遊行寺の参道となります。

さすがは遊行寺の門前町として栄え、人口の多い宿場だった藤沢です。
とてもにぎわっていますね。

少し進むと、右手に遊行寺の入り口、惣門が現れました。東海道はここから左に進み、遊行寺橋を渡ります。
一方、惣門の奥にはかなり急ないろは坂が見えます。

う~ん、ここまで既に坂でかなり足腰に来ているので、この急坂を上るのかと思うと正直萎えますが、せっかくここまで来たんですから、ちょっと寄り道をして、遊行寺にお参りしていくことにしましょう。

遊行寺

現在よりもかなり急だった、いろは坂を上ります。

広重の「藤沢」でもわかるように、本堂までの参道はかなり急で、相当に上っていかなければなりません。

とにかく一歩、一歩何とか進み、そして今度は階段を、一段一段上っていきます。

やっと到着しました。
本堂でこの旅の安全と、私と私の家族の健康を祈ったら、元来た道を引き返します。

かなり高くまで上ってきたからこそ、宿場を見下ろす景色はいいですが、転げ落ちそうで怖いです。

ところで、現在ももちろんあるこの遊行寺なのですが、正直、私はここに来るまで、このお寺の存在を全然知りませんでした・・・。


さて、往復1時間ほどをかけて遊行寺の参拝を終えたら、遊行寺橋を渡ります。
ここが江の島道との分岐で、左手が江の島道です。

今回は江の島へは行きませんが、ほんの少しだけ江の島道を進み、大きな一の鳥居をくぐってみることにしました。

と、後ろを振り返ってみると、一の鳥居をまさにこれからくぐろうとしている4人の坊主頭の男性がいます。

皆、荷物を風呂敷に包んで背中に背負い、杖を持っています。そして、目をつむっているのか、顔が前ではなく横の境川の方を向いていたりしています。

遊行寺橋付近

この4人は座頭(ざとう)と呼ばれた、男性の視覚障害者の人たちと思われます。
彼らは大体丸坊主でしたが、一番後ろの一人は、背も小さく、いがぐり頭なのでまだ小僧でしょうか。
 
江戸時代は、現代よりも病気などにより中途で失明する人が多かったそうで、男性の視覚障害者は、鍼師になるか、箏、三味線、胡弓などの楽器を奏でて各地を巡ることで、生計を立てていました。

なお、女性の視覚障害者の人たちも、三味線を携えて各地を巡り、民謡や流行り歌などを披露して生計を立てており、彼女たちを瞽女(ごぜ)と言いました。
 
また、男性の視覚障害者は幕府により手厚く保護されており、「当道座」という彼らの自治組織的な集団には、特権や自治の様なものが認められていました。
この当道座には4つの階級があり、ごく一般的な、一番下の階級が座頭でした。
 
江の島道の行き先である江の島弁財天は、江戸時代初期の盲人の鍼師である杉山和一が、江の島に詣でた際に鍼を会得して大成した、という逸話から、江戸時代から現在に至るまで、鍼灸師や視覚障害者から厚い信仰を受けています。
 
ですから、今、一の鳥居をくぐろうとしている座頭たちも、まさに江の島弁財天を目指しているのでしょう。

しかし、もともと弁財天と言えば女性で、琵琶を持っていることから音楽芸能の神様とされており、江の島弁財天への「江の島詣り」は、視覚障害のある人はもちろん、女性たち、特に三味線などの芸事に従事する人たちに、大変人気がありました。
 
江戸から江の島までの距離はおよそ13里(約51㎞)で、女性でも往復3泊4日の行程で無理なく旅ができた上に、海に浮かぶ島という風光明媚な景色であったこと、サザエ、アワビ、イセエビ、タイ、タコなど新鮮な海産物を味わえたことなども、江の島詣りが女性たちに人気だった要因と言われています。
 
ちなみに、この地域で現在名産として知られるシラスの漁は、江戸時代後期から行われており、当時は長方形の枡にシラスを掬って天日干しをした「畳いわし」が一般的で、江の島土産として広く知られていたそうです。


ところで、現在は江の島まで海の上を渡る道が整備されていますが、1891年に初めて木製の橋が建設されるまで、江の島には橋はなく、船に乗るか、肩車で担いでもらって渡るしか、江の島に渡る方法はありませんでした。
 
ただし1年に数日だけ、江の島までが陸続きになり、歩いて渡ることができる日がありました。
 
これは海の波が、沖から島のような障害物にぶつかることで、海底の砂を運び、砂が島と海岸の間に堆積する「トンボロ」という現象で、江の島の場合、常時海面上に出るほどの砂の堆積量がないため、大きく潮が引いた時だけ、堆積した砂が現れ、江の島までが陸続きになるのです。
 
江の島では、今でも4月から9月までの新月または満月の干潮時に、このトンボロが起きます。
 
江戸時代の江の島は、特にこのトンボロの日に賑わいました。
確かに、普段は海に浮かぶ島に歩いて渡るというのは、特別な経験だったことでしょうが、この日なら歩いて渡れると事前にわかっていて、参拝する日を決めたりしていたのでしょうか。

歌川広重筆『相州江之島弁才天開帳参詣群集之図』(Art Institute of Chicago (AIC)所蔵)「ARC浮世絵ポータルデータベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/arc_nishikie-AIC_1925_2270_)

こちらは、広重が描いた「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」という浮世絵です。
 
現在では、江の島の弁財天はいつでも見ることができますが、江戸時代までは6年に1回、巳と亥の年の、大体春から秋にかけての100日間だけしか、弁財天を見ることが出来ませんでした。
 
この為、この期間にはただでさえ参拝者が多かったのですが、この絵は、加えてトンボロにより江の島まで歩いて渡ることが出来た日に、群集が大挙して江の島を目指す様子が描かれています。
現代のテーマパークにも劣らない、込みっぷりですね。
 
この絵で描かれているのは、そのほとんどが、同じ装いをしたいくつかのグループの女性たちです。
これらのグループが、「戸塚」でも話の出た、有名な寺社への参拝を目的とした集団「講」で、この絵で描かれているのは、いずれも三味線や唄などの芸事をしている女性の「講」なのだそうです。
 
江の島は、江戸時代も大人気だったのですね。


さて、鳥居をくぐってみたところで引き返し、東海道に戻ります。

橋のたもとにはおしゃべりをする二人の女性の姿があります。
二人の足元を見ると、草履ではなく下駄をはいていますので、旅人ではなく宿場の中で働いているのでしょう。

それから橋の上には、まもなくこの女性たちの横を通り抜け、橋をこちらへと渡りきろうとしている、同じはっぴを着た集団がいます。

遊行寺橋付近

先頭のねじり鉢巻きの男性は、何やら細長い棒のような物を持っており、その後ろの後ろの男性は、肩に担いだ棒の両側に大きな荷物を付けています。
 
この同じはっぴ姿の集団は、大山へと向かう途中の大山講のメンバーです。
 
先ほどの広重の絵で、江の島講の女性たちが、それぞれの講で同じ装いをしていましたが、大山講では揃いのはっぴに、直径が丸い菅笠と呼ばれた笠をかぶっているのが特徴でした。
 
先頭のねじり鉢巻きの男性を除き、同じはっぴの人たちは、確かに菅笠をかぶっています。

途中まで東海道を使って大山に行く場合、戸塚の手前で分岐する道以外にも、この藤沢から半里余り京都寄りの四ツ谷で分岐する道がありました。
この為、藤沢にも大山詣りの旅人が数多く訪れたのです。

歌川広重筆『東海道五十三次細見図会 程ケ谷』 国立国会図書館デジタルコレクション 
( https://dl.ndl.go.jp/pid/1309951)

こちらは広重が描いた『東海道五十三次細見図会』というシリーズの「保土ヶ谷」で、「藤沢」と同じく細長い棒を持った人と、中央には、肩に担いだ棒の両側に大きな荷物を付けた人が描かれています。
 
大山詣りでは、源頼朝が武運長久を祈願して自分の刀を奉納した、とされることに由来し、参拝に際して巨大な木の太刀を奉納するのが習わしでした。
「藤沢」の先頭のねじり鉢巻きの男性が持っているのは、この木太刀です。
 
納める木太刀は、講同士が競い合ううちに、徐々に大きくなったんだとか。
 
それから「藤沢」で木太刀の後ろの男性が肩に担いでいた、両側に大きな荷物が付いた棒は「御神酒枠」と思われます。
『東海道五十三次細見図会』を見ると分かるように、これは棒の左右それぞれが、小さな社殿のような形をしていて、中に神前に納めるお酒が入っている、大山詣りに独特なものでした。


江戸からおよそ18里(約72㎞)で、江の島詣りと同じく、往復3泊4日ほどだった大山詣りは、江戸はもちろん関東一円で、当時かなりの人気だったようで、広重の「戸塚」でも描かれていた「講中札」の現存しているもののうち、かなりの割合が大山講の札なのだそうです。
 
ただし、女性に人気だった江の島詣りとは異なり、大山は女人禁制の区域もあったことから、参拝者はほぼ男性でした。
 
さらに大山と阿夫利神社が雨乞いの神だったことから、特に水に関係の深い職業、火消しの人や、高所作業だけでなく火事の際には火消しも行った鳶、それからご神体が巨石であることから、石に関わる刀鍛冶や大工といった職人たちでつくる講が多かったのだとか。
 
また大山山頂のご神体は、7月中旬~8月上旬ごろの約3週間しか拝めず、それ以外の時期は、山の中腹までしか行けなかったことから、大山は夏が最もにぎわいました。
ですから広重の「藤沢」も、おそらく夏の設定でしょう。
 
さらに大山が男神であることから、女神である江の島弁財天にもお参りするという口実で、大山詣りの帰路に、藤沢宿を経て江の島にも参拝するのが定番のコースだったそうです。
 
他にも、大山の帰りに金沢八景に寄る、八景経由で鎌倉や江の島の観光をする、というように、観光地が多かったこの辺りの何か所かを回り、一大旅行をすることも多かったようです。
 
男性だけのグループ旅。
せっかく身を清めて大山に参拝しても、この後に江の島や鎌倉に行って、結構羽目を外して楽しんでそうですね。

ともかく、古くから遊行寺の門前町であると共に、大山や江の島などへの交通の要所でもあった藤沢は、多くの旅人でにぎわう、活気のある宿場でした。

さて、私はすっかりくたびれ、お腹も空いてしまいましたので、ここでお昼としましょう。

どこかに二八の看板出てないかな。

つづく

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