あなたの旅の行き先は?|おうちで「東海道五十三次」旅 #6 戸塚
日本橋を出発して2日目。
丹沢山地の大山へと続く大山道との分岐から、緩い上り坂を越えたら、まもなく保土ヶ谷から2里9町、9㎞弱の戸塚宿です。

広重の「戸塚」といえば、まさにひらりといった躍動感のある、画面左手の、馬から降りている最中の男性が印象的で、この「戸塚」は「東海道五十三次」の中でも、私が特に好きな1枚です。
では、「元町別道」という副題がついている、この広重の「戸塚」は、一体どこを描いたものなのでしょうか。
保土ヶ谷から、現在の国道1号とは別ルートだった東海道は、戸塚の手前で再び国道1号と合流します。
「戸塚」の馬から降りている最中の男性の背後には、川が流れ、画面右手に橋が架かっています。
戸塚宿を江戸側の入り口から少し進むと、柏尾川を東西に架かる「大橋」があります。
現在は、この橋のすぐ近くに「吉田大橋」という信号標識が付いていますが、江戸時代も現在も「吉田大橋」という橋はなく、橋の名前は「大橋」です。
また、広重の「戸塚」で描かれた橋のたもと左手には、「左 かまくら道」と書かれた道しるべと灯籠がありますが、鎌倉時代から、戸塚周辺には鎌倉への街道が通っており、江戸時代になると鎌倉道として整備されました。
東海道を江戸から来た場合、大橋の手前にこの鎌倉道への分岐があり、当時の地図から、橋のたもとにその道しるべと灯籠がありました。
これらから広重の「戸塚」は、画面手前が江戸側で、現在も元町という地名の残る、柏尾川に架かる大橋の東のたもと周辺を描いています。
ちなみにこの道しるべは、現在のJR戸塚駅の北東に、江戸時代にはすでにあった妙秀寺というお寺に残されています。
お昼に保土ヶ谷宿を出発してから早4時間以上。
坂を上ったり、下ったりして、ようやく戸塚宿です。
宿場に入って間もなく、目の前に柏尾川とそれに架かる大橋が見えてきました。
橋の向こう側には、宿場の家々が見えます。
橋の上に目をやると、まもなくこちら側へと橋を渡り終えそうな、坊主頭で少し年配の男性がいます。
この旅人は、右手に笠を持ち、左肩には旅の荷物を紐の両端に縛り付けた、「振り分け荷物」と呼ばれるものを掛け、その紐を左手でしっかりと握りしめています。
坊主頭というと、お坊さん(僧)を思い浮かべますが、江戸時代には他にも、俳句や茶道の先生、医者や按摩(マッサージ師)も坊主頭でした。
旅をしているところから、この旅人は俳句の先生かもしれません。
さて、橋の手前左手の「こめや」という店では、左手で手綱を握った、笠に隠れて顔の見えない男性客が、身体を反転させ、馬から店の前にある木製の長椅子、縁台の上に、今まさに降り立つ所です。

この縁台の上には、たばこに火をつけるための炭火を入れる「火入れ」、灰を捨てる「灰落し」といった、キセルで一服するための「たばこ盆」とよばれるセットが置かれています。
店先に縁台とたばこ盆が用意されていることから、この「こめや」は茶屋です。
江戸時代は、「お客がいればお茶より先にたばこ盆を出す」、と言われるほどの喫煙文化だったのだとか。
そういえば、川崎手前の六郷の渡しでも、キセルを持った女性客や、気持ちよさそうに一服している男性客を見かけました。
江戸時代の一般女性はタバコを吸わないのではないか、と勝手に思い込んでいたのですが、この旅を始めてから、女性でもキセルを吸っている人をたくさん見かけて驚きました。
「こめや」には、馬から降りている最中の旅人だけではなく、右手に杖を持った女性の一人客もやってきて、笠を取ろうとしています。
それに気づいて左手から、店の女性が出てきて、腰をかがめて挨拶をしています。
旅人たちの足元は草履ですが、店の女性は下駄を履いています。
また馬のもう一方の手綱は、馬の右手に、こちらに背を向けて立つ、手ぬぐいか何かを頭に巻いた男性が持っているようです。ふんどしひとつですから馬子でしょう。
何か気になったのか、頭を右の方へ向けています。
さらにこの馬の足元に目をやると、馬もわら製の履物を履いています。
これは「馬沓(うまぐつ)」というものです。
馬と言えば足へのダメージを防ぎ、運動性能を高める為に、蹄鉄という金具を付けますが、日本で蹄鉄が普及したのは明治以降で、それ以前はこの「馬沓」が使われていたのだそうです。
ところで「こめや」の軒先には、たくさんの札が吊るされています。
これは旅籠(宿屋)の軒に吊るされた、「講中札」あるいは「まねき看板」と呼ばれたものです。

有名な寺社への参拝を目的とした「旅」が盛んになった江戸時代、仲間内で旅費を積み立て、仲間を代表する数名を、特定の寺社へ順番に祈願に送り出す、「講」という集団が数多く作られるようになりました。
この講の仲間が参拝に赴くにあたって作られたのが「講中札」で、途中で宿泊した旅籠などに掲げられていました。ちなみに「講中札」の裏面には、参拝した年代や、仲間内に連絡をしたり、お金を集めたりする「講」の世話人の名前が書かれていたそうです。
つまり、軒先にこの「講中札」が吊るされていることから、「こめや」が旅籠でもあったということが分かります。
実際に、戸塚宿には「こめや」という旅籠兼茶屋がありました。
ではこめやには、一体どこへの参拝に向かう人々が泊まっていたのでしょうか。
この「こめや」の「講中札」を見てみると、右から大山講中、月参講中、百味講、神田講中、京師講中、太々講と読めます。
右端の大山講の行き先は、戸塚の手前に東海道から分岐する大山道があった、丹沢山地の大山です。
江戸時代には、大山への「大山詣り」は大変な人気で、江戸や関東一円で数多くの大山講が作られました。
次の月参講は、毎月一定の日に参拝をする「月参」というものをする講です。月参は多くの寺社で行われていたそうですが、この講中札には、どこへの月参だったのかは書かれていません。
しかしこの場所からは、左手の奥に大山が見えており、戸塚が大山道との分岐に近く、江戸時代には大山への月参講も数多く存在していたことを考えると、大山への月参講だったのではないでしょうか。
次の百味講は、信仰する寺社に百味の供え物をするという講で、江の島の弁財天、成田の不動尊、浅草の観音などで行なわれていたそうです。
次の宿場である藤沢には、江の島への分岐があることから、この百味講の行き先は江の島でしょう。
次の神田講ですが、江戸には地名を冠した講も多く、寺社の年中行事を取り仕切ったり、講中での信仰活動や、ゆかりのある他の寺社への参拝を行っていたのだとか。
神田講は、神田明神を信仰する神田の人々の講です。
ではこの神田講の人々は、どこへ参拝しようとしていたのでしょうか。
この神田講の講中札の上には、丸に一山と書かれています。
江戸時代の人々に特に人気の旅先と言えば、一生に一度は行きたいと言われていた「お伊勢さん」こと伊勢神宮、江戸や関東一円から比較的手ごろな距離にあった大山、そして私も江戸以来たびたびその姿を拝んできた富士山でした。
富士講も数多く作られましたが、富士講の一つに「一山講」と言うものがあることから、この神田講の行き先は富士山のようです。
次の札は京師講中、あるいは京橋講中と読めます。京師は京都のことで、京橋は江戸・日本橋近くの地名です。
どちらにせよ地名を冠した講ですが、他にこの名の講についての情報は見つからず、どちらの、どのような人々の講であったのかははっきりしません。
しかし札の上部に山の絵が描かれていることから、やはりその行き先は富士山であったと思われます。
最後の太々講(だいだいこう)というのは、伊勢講です。
江戸時代の寺社参拝は、江戸や関東一円から大変人気があった大山のように、ある程度、参拝者が来る区域が限られていることが多かったそうですが、全国的に人気のある遠隔地への参拝といえば、お伊勢参りでした。
このように、「こめや」は大山、江の島、富士山、お伊勢さんといった、さまざまな行き先の講が利用する旅籠でした。
これは戸塚が、大山や江の島、鎌倉などに向かう道との分岐に近い、交通の要所であったことと、早朝日本橋を出発した旅人は、戸塚で最初の泊まりとなることが多かった為で、戸塚には非常にたくさんの旅人が宿泊しました。
その為、東海道において戸塚宿の旅籠の数は、箱根越えの起点となる小田原に次ぐ規模だったそうです。
ですから旅籠にとっても、多くの講中札が吊るされているということは、安心できる旅籠だという、旅人たちへのアピールになりました。
品川や神奈川など、これまでの宿場もかなり賑わっていましたが、それにしても、ここ戸塚の賑わい、活気はすごいですね。
色々な場所を目指す、たくさんの旅人たちで溢れています。
大橋の手前の「こめや」はなかなか繁盛しているようです。
一方で広重の「戸塚」では、柏尾川の対岸、大山の手前には田んぼが広がっています。
そしてそこに、「保土ヶ谷」でも見かけた、刈り取った稲の茎を乾かすために集めた「立ちわら」が、いくつか見られます。
私の想像旅の設定は初夏ですが、この立ちわらから、広重の「保土ヶ谷」と「戸塚」は共に秋の設定で、連続性のある2枚となっているようです。
さて、今日は昼前になってから神奈川宿を出発したので、宿場2つしか進んでいませんが、空の上の方は橙色で、もう夕方です。
残念ながら、こめやには今日は空きがないようなので、私は戸塚宿の中心である、現在のJR戸塚駅周辺の旅籠に泊まるとしましょう。
それでは、お休みなさい。
つづく
