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良寛さんの本を読んだら、仏教がもっと好きになった

江戸後期から明治初期の間で活躍された新潟県の禅僧「良寛(1758-1831)」さん。今も世界中に多くのファンを抱えている大人気のお坊様です。

74年の生涯を終えるときに残した辞世の句、「うらを見せ おもてを見せて、ちるもみじ」はあまりにも有名ですね。

無論、私も大好きなお方です。

そんな良寛さんに関して、私はこれまでそれなりの数の書籍を読んできました。

しかしどれもがやや複雑で、凡人の私にはいまいち理解しづらかったものが多かったんです。

先日思ったこと

これは先日私が思ったことです。

常に坐禅してるでしょ?真実してるでしょ?それはつまり生きてるということ。サイレンがこうして聞こえる。どこに行っても足をくめば痛い。腹が減る。鳥の鳴き声が聞こえてくる。どこに行っても。全てと繋がっている。生きている間は常に真実いっぱい。生きている間は常に「坐禅中」だということ。生きているということが「坐禅」だということ。そもそも今こうしてる間は、真実いっぱいだということ。坐禅は真実なのだから、つまり今こうしてる間は常に坐禅中だということ。常に坐禅中だということ。常に真実いっぱいだということ。いつもどこでも鳥の鳴き声が聞こえ、肌をつねると痛い。そういう命を常に生きているということ。常に真実に生きているということ。それはつまり紛れもなく常に仏として生きているということ。常に救われているということ。何故ならこの世界は真実だけだから、そこからは漏れるものがないから。常に全てだから。常に我々の生きる目的、夢、成仏、救い、武器だから。坐禅とは真実なんだ。だから坐禅とは全てなんだ。全てとは坐禅なんだ。常に坐禅中なんだ。

これがどうという話ではありません。身も蓋もない単なる私の戯言です。

こうしたある種の人生解と出会えて、私だけが嬉しく思っているというだけの話です。

そしてこのように私に思わせたのは、今は亡き板橋興宗禅師が執筆された良寛さんと道元禅師という書籍を先日読んだからなんです。

これまで良寛さんの書籍を拝読し、このような感動を覚えたことはありませんでした。

そしてその中でとりわけ、私にこの良寛さんの生き方に関して、あるいは真実の世界を見せてくれた一文をご紹介します。

良寛さんはことさら立派そうなことを話したり、善いことをすすめたりしなかった。それでいて心ある人々を自然に感化してしまう人徳や、仏徳が具っていたのでしょう。本当に「無仏法の人」となっていたから、自然に仏法の何たるかを、言わず語らずのうちに感得させる。知らぬうちにお勝手におりてコンロに火を起こしたり、お風呂の火を焼いたり、ごく自然にその場に当てはまってしまうのです。ちょっと見ないと思うと、奥の部屋に行って坐禅している。それをしかめっつらでやったのではまだ修行が残っている。良寛さんはすでに無仏法の人なのです。立っても座っても何をしていても坐禅なのです。もはや仏法とか坐禅とかいったことが問題で無くなってしまった。ただあるがままの自然であり、天真なのです。お勝手から上がって縁側に坐って庭を眺めている。それがそのまま坐禅なのです。夏にミーンミーンとうるさいほど蝉時雨が聞こえてくる。これをただ聞いている。聞くともなしに聞いている。体ぜんたいで聞いている。これが坐禅。(自分が大自然、大自然が自分。自分と大自然が坐禅。全てが繋がっている。)

良寛さんと道元禅師P183

「無仏法の人」というのが印象的でした。

真の仏は仏を超えるという教えは以前どこかで聞いたことがありましたが、まさにそのようなことでしょうか。

そしてこの世界の全てが「坐禅」であるということ。お勝手から上がって縁側に坐って庭を眺めている。それがそのまま坐禅だということ。

道元禅師の「只管打坐」も、もしかしたらこのことなのではないかと。

世界は「仏」のみ。「坐禅」のみ。この1つだけ。そこでは仏になることは必要ない。仏のみなのだから。

この本を執筆された板橋禅師も良寛さんにも負けないくらい非常に立派なお方でした。

そんな比較、私が凡人である証拠ですね。

良寛さんをはじめ、道元禅師、板橋禅師、お猿さんや犬、猫たちに怒られてしまいます。

今回の経験を通し、私はもっと板橋禅師の書籍を読みたいなと思いました。

やっぱり仏教の本は本当に楽しいですね。仏教の学びには底がありません。

人間の価値観からしても人生の全てを捧げられる。人生で最も価値のあるコンテンツ、それが仏教だと思っています。

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