好きのディストピア〜「好き」に支配されたこの社会について〜

※冒頭約6000文字は無料公開してます。そこである程度の論旨は掴めると思います。
 補論約3000文字のみ有料にしています。


好きのディストピア

 まず「好きのディストピア」について定義しておこう。
 「好きのディストピア」は、「好き」が集団化し、個人の「好き」が消失し、無意識のうちに個人の「好き」が書き換えられ、そして世界が全て「好き」によって駆動され、人々が搾取される現象だ。
 不快な「嫌い」の言説のアンチテーゼとして、「好き」があらゆる場所で肯定されていく。
 現代では、「好き」が過剰に祭り上げられているように感じる。「好き」を持つことは良いことだ、という当たり前の言説が過剰に流れている。
 私達は今一度、「好き」について考え直す必要がある。
 「好き」という感情は、そんな簡単に扱えるものなのか。「好き」という感情が、本当に自分のものになっているのか。
 私たちの「好き」は無意識のうちに監視、統制されているのかもしれない。

あなたの好きは操られている

 現代において「好き」の形は変化している。
 推し活、界隈、〇〇垢、様々な現代的な「好き」のあり方が提案されている。
 けれども、そこにはある傾向がある。
 自分だけの「好き」を他者に繋げなければならないという強迫観念に支配されている。
 「好き」は本来、自分のものだったはずだ。自分の意思で何かを「好き」になって、自分の形で「好き」を表現しているように思っている。
 けれども、本当にそうだろうか。あなたは、どこかで自分の「好き」を誰かに繋げなくてはいけないと思ってないだろうか。他の人の「好き」の形に、自分の「好き」を合わせようとしてはいないだろうか。
 自分の「好き」だったものが、他人の「好き」に変わっていく。
 例えば聖地巡礼やコラボカフェでの写真撮影、グッズを買ってSNSに載せたり、ハッシュタグに従って自分の好きをツイートしたり、誰かの「好き」、モデルケース、テンプレに合わせていないだろうか。
 自分の意志でやっているはずなのに、誰かの「好き」に合わせていないだろうか。
 SNS、Youtube、テレビ、それらは自分たちの「好き」を規定する。自分で掴み取ったと思っても、誰かが規定した「好き」の形に自分を合わせてしまっている。
 あなたの「好き」は、自分じゃない他の誰かに決められてしまう。
 おそらく現代人のほとんどが、自分の「好き」を持てていない。もちろん私も。

コミュニティー化する「好き」

 現代の「好き」はコミュニティーが前提とされる。推し活、界隈、〇〇垢や大学サークルも、全てコミュニティーだ。
 これについては以前、『界隈、〇〇垢、推し活という違和感 それらに疎外される人々』という記事でそれぞれを分析したので読んでほしい。

 ここで指摘したのは、「好き」が個人のアイデンティティとして利用されている側面があるということだ。「好き」が、「私はこういう人間です」と伝えるための道具となってしまっている。
 そして、時としてそれはパフォーマンス的になる。「私はこういう人間に見られたい」という思いが先行して、自分の「好き」を選んでいくことになるかもしれない。
 もちろん、それによって少し背伸びした趣味などが手に入るかもしれない。一概に悪と断罪することはできない。
 だが、他人に見せることを前提とした「好き」はだんだんと歪んでいく。
 そこには、自分がない。他者の承認を前提とした「好き」に変貌していく。
 楽しいと思っていた「好き」が、やがて辛いものになっていく。
 このコミュニティー化する「好き」が現代的な現象なのかと言われるとそういうわけではないだろう。
 平安時代には本がものすごく高価で、みんなで回し読んで朗読していたらしいし、20世紀後半のオタク文化もカセットプレイヤーが高価であったために、持っている人の家に集まって鑑賞していたらしい。
 「好き」は確かにコミュニティーを前提として生まれ、受容されてきた。
 けれども現代はどうだろうか。そういった技術的制約はほとんどなくなった。映画もアニメもNetflixで見放題で、本の価格も活版印刷がなかった頃よりは下がり、大部分の「好き」を個人だけで享受できる環境が生まれた。
 一人で「好き」を楽しむことが簡単な世界になった。
 けれども人と繋がりたくなってしまう。「好き」を楽しむときにコミュニティーは必要ではなくなったけれども、不必要にも関わらずコミュニティーを作りたくなるという欲求が確かに存在している。
 人は常に社会を作りたくなる。その欲求はたしかにある。
 個人化が進んだと言われる現代で、コミュニティーが乱立しているのは、やや矛盾が起きているように感じる。

「好き」を言語化するのって、大切ですか?

 『好きを言語化する技術』は三宅香帆氏の著作で、どうやったら自分の「好き」を言語化することができるのか、ノウハウをまとめている本だ。
 正直このツイートをしたときはその著作を読んでいなかったので、やや軽率な発言であったと反省しているのだが、彼女の著作を読んでみると「好き」を取り巻く現代の環境についてより、思索が深まった。
 このツイートで指摘したのは、「好き」を発信しなくてはならない社会についてだ。「好き」があるなら、自分の「好き」を発信しなくてはいけない。多くの人はそんな圧力を、無意識に感じている。
 この著作は、その無意識を上手く言語化したからこそ売れたのだと私は思う。
 では『好きを言語化する技術』は、「好き」の言語化のノウハウをまとめた本なのだけれど、ノウハウ以外の主張もある。
 それは、世間や他人の言葉に流されずに自分の言葉を作っていこう、そして自分の感情や思考を取り戻そうというものだ。
 これは、自分の今までの意見と近いものがあるように見える。彼女も、自分の「好き」に他者を介在させるべきではないと主張している。
 彼女は他人の意見に流されないように、孤独に自分だけで言葉を作ることの重要性を説いている。
 だが、彼女は「語る」という行為の他者性をあまり意識していないように思える。
 もちろん、相手の知識レベルに合わせて話す内容を変えることや、専門用語ばかりを使わず、きちんと説明するなど、他者を意識している。
 だが、他者によって自分の語りが変化していることを意識していない。自分の中の「好き」の語り方を相手によって変えてしまうことは、他者の存在が自分の「好き」に大きな影響を及ぼしていることを示唆する。
 「好き」を自分のものにしたいなら、他者に語るという行為すらも慎重にならなくてはいけない。
 もちろんこの本は、「好き」を語りたい人が買うので、おそらくその前提を疑う必要はないのだろう。
 だが、「好き」を語りたい欲求こそが「好き」を自分のものから遠ざけてしまう原因なのだと思う。
 「好き」を語るというのは、自分だけの「好き」を社会に結合する行為だ。そしてそれを繰り返していくと、やがて自分の「好き」が変わっていく。
 例えば、社会的に後ろめたい「好き」を持っていたら、その良さを語る前に、まず「好き」に対する言い訳から始まる。そんな後ろめたさの言い訳を繰り返したり、相手の反応が芳しくなかった時に、自分の「好き」への肯定感が下がってくる。
 自分の「好き」を守るためには、ほんとは語ってはいけないのだ。
 もちろん、そこまでラディカルに「好き」を孤立化するのは不可能だけれど、少しぐらい他者の関与を減らしてもいいんじゃないか。
 ちなみに「好き」の語りについて、エッセイ的なものを書いているので参考にしてほしい。


「好きなことで生きていく」に秘められた意味

 Youtubeのキャッチコピー「好きなことで、生きていく」がある。ここには、「好き」を社会に放出し、そして「好き」をマネタイズ化して、「好き」を職業として生きていけというメッセージが込められている。
 つまり、自分の「好き」があるならお金にしていけということだ。実際、多くのYoutuberは自分の「好き」や趣味をコンテンツ化している。
 副業ブームもそうだろう。自分の「好き」を、趣味をお金にして副収入を得たほうが良いという価値観だ。逆に言えば、この文脈ではお金にならない「好き」に意味がないことになる。
 現代では、元々お金にすることすら考えてなかった趣味、「好き」すらもマネタイズ出来るようになった。
 例えば、YouTubeで趣味のことを語り登録者が増えればマネタイズが出来る。
 もちろん、全ての人がそんな事が出来るとは思わないけれど、それなりに「好き」の解像度が高まり自分しか持ってない情報が増えてきたら、ネットで発信しようかという選択肢が生まれてくる。
 昔は職業としてやっていける一部の「好き」だけが、労働に繋げられた。お金にできる「好き」は今よりもだいぶ少なかった。そして、昔の「好き」に関する職業は、場合によってはやりがい搾取と言われる歪な「好き」の搾取によって成り立っていた。
 今は全ての「好き」が労働に繋げられていく。YouTuberのような身内で楽しむ内輪ノリすらも労働化する。
 全てのことがお金になる時代、自分の「好き」を誰かに繋げないと勿体ない。自分しか持ってない情報なら、コンテンツ化するべきだ。一億総クリエイター社会と言われる言説も、これらの論理に動いている言葉なのかもしれない。
 「好きなことで、生きていく」、それは「好き」が加工次第では、お金になったり、労働になることを多くの人に実感させる言葉だった。
 これらの価値観の一番の問題は、表に出さない、コンテンツ化しない「好き」が評価されないことだ。当たり前だが、表に出さなければ誰も評価しない。
 コミュニティ化する「好き」も他者を過剰に欲することから始まる。「好き」の労働化も、他者の評価によって駆動される。
 「好き」なこと仕事にして生きている人は素晴らしい。「好き」を仕事にしてない人は不幸だ。
 「好き」の自己満足は損をする。「好き」を表に出せば、知り合いが増える。場合によってはお金になる。
 ますます「好き」が社会化していく。そして、社会に合わせた語りが形成されていく。
 それは幸せなことなのだろうか。

テンプレート化し、資本主義化する「好き」

 「好き」がテンプレート化している。それは多くの場所で言われていることだ。
 推しへのスパチャ、コラボカフェ、聖地巡礼、等身大パネルといっしょに自撮り、TikTokのダンス文化、痛バック。
 この現代では、「好き」がきれいにパッケージ化されている。あらかじめ決められた受容の仕方、表現の仕方に囚われている。
 それはコミュニティーにおいての承認欲求を満たすために最適化された形になっている。
 基本見せびらかし、過剰なパフォーマンスを前提とする消費になっている。
 現代では「好き」が、資本主義にきれいに結びついてしまった。先程の「好き」のコンテンツ化、労働化も資本主義に結びついた例であるけれど、これは消費文化にきれいに結びついた。

 ネットミームのように流行ったこの構文があるけれど、まさに現代の「好き」も同じだ。全ての人が、同じようなパターン化された「好き」を享受している。
 かつてボードリヤールは「消費はひとつの社会的労働だ」と言った。
 人々はパターン化された消費、「好き」のもとに、労働させられている。この言葉自体、誇張的に聞こえるだろう。
 だが、私達はコラボカフェに行った、聖地巡礼をしたとSNSで発信してしまう。もっと丁寧に詳しくレポを出すかもしれない。
 だが、本来はそれらの情報は広報担当者が発信すべき内容だったかもしれない。私達は、広報担当の代わりにそれらの良さをPRするのだ。それらの口コミは消費者の目線だから、より信用できる情報だと思われる。
 消費者が、PR、広告に動員されている。ボードリヤールの時代よりも、消費は社会的労働と結びつけられている。
 パターン化された「好き」は、もはや社会的労働だ。企業の広告、PRに効率よく利用されている。
 かつて言われたクールジャパンも文化としての側面より経済性、聖地巡礼も地域産業の活性化、全部文化がお金に還元されていく。
 別に文化、「好き」でお金が動くのは当たり前の話で、それによって経済が動くのは好ましいことだろう。
 でもあまりにも「好き」がマネタイズ化されすぎている。
 「好き」をちゃんと発信していかないと自分の「好き」が消えていく、「好き」なコンテンツが消えていく、と言う人もいる。
 だがその言説は、あなたの「好き」を人質にして、あなたがお金を払わないと「好き」が消えていくと脅されているだけのように思える。
 もちろん、お金の動かない産業は萎んでいく。だが、「好き」を人質に搾取の構造が生まれてしまうのはあまりにも不健全だ。
 「好き」は元々自分の思いだった。資本主義の中では、「好き」が燃料として消費されるのである。あなたの支払限度額ギリギリまで、投入させようとしてくるのである。

まとめ〜好きのディストピア〜

 「好き」は、コミュニティーのものとなり、そして果てには資本主義に取り込まれる。
 現代人は正直、「好き」を推し活、界隈などと賛美している割には、「好き」について無自覚で、「好き」とはどのようなものか考えていないように思える。
 「好き」は時として負の側面として働く。それは先程の話もあるけれど、「好き」なものが正しいとされてしまうこともある。善悪の判断と、好き嫌いの判断がごっちゃにされてしまうことがある。
 「好き」が溢れたこの現代で、もう一度「好き」について考え直す必要があるのではないか。
 この世界は、「好きのディストピア」だ。「好き」が全体主義化している。
 何でもかんでも、「好き」が良いことだと無条件に言われ続けている現代社会に、私は違和感を持つ。
 誰もが「好き」を楽しんでいるのに、「好き」について深く考えず、「好き」の構造について意識しない。そして、好きなものをペラペラと語り、自分の奥底を簡単に開示してしまう。そして、自分の「好き」が奪われてしまう。
 現代において、「好き」は自分のものではなくなっている。
 そして、それを取り戻すのも困難だと思う。
 けれど、この現状を意識することが「好き」の自立性を取り戻す第一歩なのではないだろうか。
 他人を気にせず、自分だけで「好き」を楽しむ。
 「好き」なものがあっても、それを心のうちに秘めておく。
 自分なりの「好き」を模索する。
 安易に、他人が提示した「好き」の形、消費の形に乗らない。
 そういったことの積み重ねで、きっと「好き」を自分のものにできるのではないか。
 そして、この問題について補足的なものを書いてみた。
 こちらは試しに有料で書いてみる。この議論に関してもっと知りたい、考える材料がほしいと思った人は是非とも買ってくれたら嬉しい。
 一つのテーマを挙げるなら、「好き」は潔癖、「嫌い」はケガレ。
 察しの良い人なら、これからどのような議論をしたいのか分かるかもしれない。
 そしてもう一つが、「嫌いのディストピア」。
 ここまでの記事では「嫌い」という感情にあまり触れてこなかった。だが「好き」の反対の「嫌い」という感情を分析することで見えてくるものもある。

「好き」は無責任

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