僕らは誰の人生を生きているのか_第16話 円環の理
夕暮れ時、特務支援室にはオレンジ色の西日が差し込んでいた。
それぞれのメンターとの対話。勝也と岩瀬が別の場所から戻ってくると、龍二はホワイトボードの前に立っていた。そこには、一つの円環図が描かれている。
「さて、濃い一日だったなぁ。二人とも、いい顔になった。 最後は、今日という『経験』を、君たちの『資産』に変える作業をしよう」
龍二がホワイトボードに書いた文字は、「経験学習サイクル」。
「経験」を「教訓」へ昇華させる円環

経験学習サイクル(Experiential Learning Cycle)
具体的経験(Concrete Experience):実際にやってみる、体験する
内省的観察(Reflective Observation):起きたことを多角的に振り返る
抽象的概念化(Abstract Conceptualization):教訓として言語化し、他でも使える「持論」にする
能動的実験(Active Experimentation):新しい状況で試してみる
「君たちが今日、今までやってきた流れは、まさにこれだ。
午前中、リーダーシップ論にてイメージした『具体的経験』を、昼休憩に公園で、あるいは俺やカツとの対話で『内省』をした。そして、なおちゃんが言語化した5つのポイント。あれが『抽象的概念化』……つまり、君の持論だ」
1. 「部下」から「相棒(パートナー)」への意識変革。
2. ミスを恐れず、臆せずチャレンジすること。
3. 上司(リーダー)に臆することなく、必要なツール(事実、進言)を持って進言すること。
4. 上司がどのタイプのリーダーシップ(新城なら強制/ペースセッター)を得意としていて、足りない役割(関係重視/民主)を演じること。
5. 自分が不得意なツール(例:データ、論理)も使いこなし、役割を果たすこと。
龍二は、その円環の横に、お馴染みの「PDCA」を書き足した。
「さっき説明したPDCA(第11話参照)は、『業務(コト)』を回すためのものだ。対して、この経験学習サイクルは、『自分(ヒト)』を回すためのもの。この二つを組み合わせる!これは俺が独自に編み出したグロースサイクルだ。
やり方はシンプルで、Doの直後に「具体的事例の振り返り」と「抽象化(なぜ上手くいったか?)」を挿入する。つまり、PDCAのC(Check)で、事柄を多面的に、メタ的に見るわけだ。
これは通常のPDCAだけでは見逃しやすい「個人の成長」や「本質的な原因」に気づき、質の高いPlan(計画)を作れるようになる。しかし、Planはいつだって、”間違っていてもいい”ってことを忘れないで欲しい。そこに正解はない。着実に理想に近づいていくことが唯一の正解さ。
使い分けとしては、『確実性が求められるルーチン業務』はPDCA、『個人のスキルアップや未経験業務』は経験学習を優先的に意識する。そういったPlanを描けるようになるといいだろう。」

「私」と「能力」を切り離す
岩瀬が、ノートを取りながら静かに手を挙げた。 「龍さん。……今日、僕たちがこれほどまでに徹底的に、自分の至らなさを突きつけられたのは、このサイクルによる成長のため……だけではない気がします」
龍二は口角を上げ、満足げに頷いた。
「さすが、察しがいいな、がんちゃん。……そう、HRBPにとって最も重要な資質。それは、自分自身や組織を『メタ認知』することなんだ。」
龍二は、二人の目を真っ直ぐに見つめた。
「例えば……失敗した時、なおちゃんは『私がダメなんだ』と自分を責めた…としよう。そして成功した時、がんちゃんは『俺が正しいんだ』と自分を過信したとしよう。
……どちらも、『事象』と『自分』が癒着している状態なんだがわかるかな?もう少し詳しくいうと、『自分がやった事』と『悪かった/良かった結果』とその『評価(責める/過信する)』は別々に考えられる事象だ。
これが1つになっていると、客観的な診断ができないんだ。」
龍二の言葉に、二人は息を呑んだ。
「HRBPは、自分自身すらも一つの『リソース(機能)』として客観視しなければならない。自分が今、どの『型』の道具を握っていて、それがなぜ上手くいっていないのか。それを鏡を見るように観察するんだ。
今日、君たちが感じた痛みや動揺は、いわば『自分と自分の機能を切り離すための手術』みたいなもんだ。起きた出来事と、学習した内容、そして自分自身。それらを分けて捉えるトレーニングをしているんだよ」
未完成のまま、明日へ
なおは、自分の手を見つめた。新城を助けられなかった「自分」ではなく、あの日、適切な「機能」を発揮できなかった「自分というツール」。そう捉え直すと、確かに胸の痛みが、冷徹な「改善点」へと形を変えていく感覚があった。
「……龍さん。それって、すごく難しいです。自分を自分じゃないみたいに見るなんて……」
龍二は、ホワイトボードのマーカーを置くと、ふっと肩の力を抜いた。
「ああ。今すぐわからなくて結構。というか、一生かけて習得していくスタンスでいい。俺だって、未だに感情に振り回されることはあるからな」
勝也が横から、「龍さんのメタ認知が外れる時は、大抵たい焼きが売り切れてる時だよね」と茶々を入れ、室内に微かな笑いが漏れた。

「さぁ、今日はここまでだ。明日もまだまだ基礎として入れておきたい知識が山ほどある……覚悟しておけよ、二人とも」
窓の外では、夜の帳が下りようとしていた。しかし、二人の胸に灯った「探求」の火は、朝よりもずっと強く、静かに燃えていた。
つづく

