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僕らは誰の人生を生きているのか_第1話_弧を描かないシュート

【あらすじ】
メンタル不調で休職していた金川なお。復職直後、彼女を待っていたのは謎の部署「特務支援室」への異動命令だった。 謎の男・龍二、人事の勝也、そして冷徹なほど論理的な同期・岩瀬。HSP気質で「人の痛み」に敏感すぎるなおは、龍二から組織を動かす真髄を「インストール」され、その繊細さを最強の武器へと変えていく。
「組織は、心を持った生き物だ」
論理の岩瀬と共感のなお。対極の二人は、壊れかけた現場を修理する「HRBP」として覚醒できるのか。効率主義の現代で、働く喜びと「今」を生きる意味を再定義する、魂の再生と成長のビジネス・エンターテインメント。

三月のオフィスは、まるで薄氷の上を歩くような緊張感に満ちていた。

金川なおは、パソコンのモニターを見つめたまま、浅い呼吸を繰り返した。二ヶ月の休職を経て、二月の時短勤務をなんとかやり過ごし、ようやく三月のフルタイム復帰に漕ぎ着けたばかりだった。


「体調、もう大丈夫なの?」 「無理しなくていいよ、金川さん」


同僚たちが投げかけてくれる言葉は、温かいはずだった。けれど、研ぎ澄まされた彼女のセンサーは、その言葉の裏にある微かな「戸惑い」や、彼女の不在を埋めていたメンバーの「疲弊」を、ノイズのように拾い上げてしまう。

(私がしっかりしなきゃ。私が3Pシュートを決めて、みんなを救わなきゃいけないんだ)

かつてバスケットコートで、小柄な身体を誰よりも高く跳ねさせ、理想の放物線を追い求めていた頃の自分。あの頃の「努力すれば届く」という成功体験が、今のなおを静かに追い詰めていた。


オフィスの蛍光灯が、今日はやけに青白く、刺すように眩しい。 隣の席で叩かれるキーボードの音が、頭蓋骨の裏側で乱反射する。 誰かが淹れたコーヒーの香りが、吐き気を誘うほど強く鼻を突く。

そんな過剰な情報の渦の中で、なおは「普通の、元気な自分」という仮面を必死に張り付けていた。

ポーン

デスクトップの右端に、一通のメール通知がポップアップした。

送信者は、新城隆志(しんじょうたかし)

営業部を率いる、あの冷徹な「エース」であり、なおのメンタルを壊した原因でもある上司だ。喉の奥が、キュッと締まった。 マウスを握る指先が、氷のように冷たくなる。


件名:【内示】異動について

一瞬、思考が止まった。 三月。異動のシーズンだ。けれど、内示の期間はとっくに過ぎている。自分には何の相談も、打診もなかった。このままこの部署で、失った信頼を取り戻すのだと信じて疑わなかった。

震える指でメールを開く。本文は、新城らしく極端に短かった。

金川 さん

明日付で以下の通り異動を命じる。
異動先:特務支援室

本日中に引き継ぎを完了させ、明朝より別棟にて着任せよ。
以上

「……えっ」

声にならなかった。 『特務支援室』。そんな部署の名前、聞いたことがない。 いや、社内で噂されるいわゆる「窓際」や、戦力外通告を受けた人間が送られる場所。本当にあるのか?

目の前の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

「なんで……?」

質問は端的に。感情は持ち込むな。それが新城のルールだ。 休職前に必死で訴えた現場の痛みも、チームの疲弊も、すべて「根拠がない」と切り捨てられたあの日。 二ヶ月の休みを経て、ようやく這い上がってきた自分に突きつけられたのは、コートから追い出される「戦力外通告」だった。

周囲の喧騒が、急に遠ざかっていく。 なおは、自分が放ったシュートが、一度もリングに触れることなく空を切る「エアボール」になった感触を思い出していた。

自分が立っていた場所が、音もなく崩れていく。 理由も、背景も、納得感も、何一つないまま。

そのあとの記憶はほとんどない。

上着くらい脱いだらいいのに…


第一話:弧を描かないシュート


段ボール箱は、驚くほど軽かった。 十年間、この会社で積み上げてきたものが、わずか数分でまとめられる程度の量だったことに、なおは乾いた笑いがこぼれそうになる。

エレベーターを下り、本社のきらびやかなロビーを通り抜ける。 すれ違う社員たちの足音、受付の電話のベル。それらすべてが、今のなおには鋭利な刃物のように感じられた。

中庭を抜け、古ぼけた別棟へ向かう。 そこは、現在の急成長した会社の姿からは想像もつかない、創業当時の面影を残したレンガ造りの建物だった。ほとんどが倉庫や書庫と化した別棟の重い木製の扉を開けると、そこには本社ビルの無機質な「空調の匂い」とは全く異なる空気が流れていた。

(……あれ?)

なおは足を止めた。 不快なはずの、あの匂いが漂ってこない。

オフィスで誰かが淹れるコーヒーの匂いは、これまでのなおにとって「戦いの合図」だった。胃の腑を逆なでするような、酸化した豆の焦げた匂い。それを嗅ぐたびに、彼女の神経は無理やり引き絞られ、動悸がした。

けれど、この薄暗い廊下の先に漂っているのは、これまでとは何か違う、しかし不思議と嫌ではない、そんな気がした。


「特務支援室」と書かれた札の掛かる部屋の前に立つ。 なおは、最後の手りゅう弾を投げ込むような覚悟で、その扉をノックした。

「……失礼します。本日付けで配属されました、金川です」

思ったようなオフィスを再現できなかったんですよね…。


返事はない。ただ、コトコトという、心地よいリズムの音が聞こえる。 恐る恐る中へ入ると、そこはオフィスというよりは、大学の研究室か、あるいは風変わりな喫茶店のような空間だった。


壁一面のホワイトボードには、複雑な数式や、人間関係を分析したような奇妙な相関図がびっしりと書き込まれている。 その中央で、背中を丸めて何かに没頭している男がいた。

佐々木龍二だ。

彼は、理科の実験器具のような、見たこともない複雑な形のコーヒーメーカーと対峙していた。一滴、また一滴と落ちる琥珀色の液体を、彼はまるで宇宙の真理を観察するかのような目で見つめている。

「……あの、佐々木室長、でしょうか」

龍二は、ゆっくりと顔を上げた。 眼鏡の奥にある瞳は、驚くほど澄んでいて、なおがこれまで新城らから向けられてきた「査定するような視線」とは全く異質のものだった。


「ああ、金川さん。……ちょうどいいところに来た。三分、いや二分三十秒。今、最高の瞬間を逃すと、すべてが台無しになる」


彼は挨拶もそこそこに、なおの前に小さなカップを置いた。

「さ、どうぞ」

断る間もなかった。促されるままに口に含む。 熱い液体が喉を通った瞬間、なおの全身を包んでいた、あの「トゲトゲとした緊張」が、ふっと溶けていくのを感じた。


「……うまっ…あっ、おいしい…」

その一言が、自分でも驚くほど素直な声で漏れた。 休職してから、そして復職してからも、ずっと自分の感覚を信じられずにいた。けれど、この香りだけは「正しい」と、身体の奥が言っている。


「そうだろう。豆は、その個性を一番発揮できる温度と、挽き方がある。それを無視して『とにかく苦く、強く』なんて抽出をすれば、豆だって悲鳴を上げるさ」

龍二は、なおの抱えた段ボールを一瞥して、ふっと笑った。


「君は捨てられた…とでも思っているんだろうけど、豆も淹れ方次第だということを教えてやろう。」

「え……?」

「君のその、やけに鼻が利くセンサー。……さっきから、この部屋の隅にある古い資料の埃や、僕の淹れたコーヒーのわずかな酸味に、さっきからずっと反応してるだろう?」

なおは、息を呑んだ。 自分の内側にだけあると思っていた、人には言えない「過敏さ」。それを、この男はまるで透明なガラス越しに見るように指摘した。

「ここでは、その『気づきすぎる』能力を、弱点とは呼ばない。……戦略的な資産、と呼ぶんだ。ようこそ、会社という巨大なバグを直すための、司令部へ」


「ようこそ、最終兵器。
 …あとさ、僕のことは龍さんって呼んでなっ」


なおの目から、一筋の涙が音もなくこぼれ落ちた。




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