僕らは誰の人生を生きているのか_第2話 パスコースをつくれ!
第1話はコチラ
「あ!龍さんが女の子泣かしてる!」
別棟の重い木製の扉が開くなり、静寂を切り裂くような騒がしい声が響いた。
「カツ……!?ノックもせずに入ってくるんじゃねぇ。”ブルマンのええやつ”がこぼれたやろ!」
龍二が慌ててこぼれたコーヒーを拭き取る。
研究者のような冷静さはどこへやら、珍しく関西訛りが出る。
「人事の亘さん!違うんです、これは泣かされてるわけじゃ……」

なおは慌てて涙を拭った。
人事部の課長である亘勝也(わたりかつや)は、本社でも『人当たりのいい若手実力者』として知られていた。
そんななおの言葉をかき消すように勝也は、
「僕にはブルマンなんて出してくれないじゃないですか!ひどい、職権乱用だ!」
泣いたふりをしながら、図々しくもなおの隣に腰を下ろした。その軽薄とも取れる明るさが、今のなおには不思議と嫌ではなかった。
「違うんですよ、亘さん。コーヒーを頂いていたら、なんだか少し心が落ち着いて……。安心して涙が出てしまったんです」
なおがフォローすると、龍二は無言のまま、棚から安っぽいインスタントコーヒーの瓶を取り出した。マグカップに粉を放り込み、勢いよく湯を注ぐ。
「……なおちゃん」
勝也がおもむろになおに顔を寄せた。
「これからは『かっちゃん』って呼んでね!」
(うわっ、この人もか……!)
龍二の「龍さん」に続き、この「かっちゃん」。この別棟には、本社のピリついた階級社会とは別の、妙にゆるい重力が働いているようだ。なおは困惑しながらも、口元が少しだけ緩むのを感じた。
勝也は、龍二が差し出した黒い液体――明らかに先ほどのブルーマウンテンNo.1とは香りが違うもの――を一口すすり、真面目な顔で問いかけた。
「ねぇ、龍さん。
……『異動』って、なんでしなきゃいけないんですかね?」
なおの心臓が、ドクンと跳ねた。 それは、昨日から彼女の頭の中で、呪文のように繰り返されていた問いだった。
龍二は自分のカップに残ったコーヒーをゆっくりと飲み干すと、ホワイトボードに向き直った。
「金川さん。君は、自分の異動を『戦力外通告』だと思っている……んじゃないかな?」
なおは答えられなかった。ただ、膝の上で拳を強く握りしめた。
「でもね」龍二がペンを走らせる。「植物を育てる時、根詰まりした鉢から大きな鉢へ植え替えることを、君は『追放』と呼ぶかい?」
第2話 パスコースをつくれ!
~異動はメタ認知向上の機会と考えよ!~
淹れ直したインスタントコーヒーの粉がカップの底で溶け合うのを眺め、一口すすってから、龍二は続けた。
「『なぜ、わざわざ引継ぎをしなければならないのか? 異動さえなければ、その時間の分だけ仕事を進めることができるのに……』。そう思うだろうね。確かに、短期的には無駄なことかもしれない」
なおと勝也は、顔を見合わせて静かに頷いた。
「そんな時は、まず逆を考えてみるといい。仮に『異動というシステムが全く無かったら』どうなるか。……どう思うかな?」
なおが言い淀んでいると、勝也が軽快に口を開いた。
「うーん、なんか、仕事に飽きちゃうかもしれませんね。毎日同じ顔ぶれ、同じ作業」
「うん、カツらしい直感だね。では、金川さんは?」
なおは勝也の回答に少し背中を押されるように、自らの記憶を探った。
「パスが回ってこない……というか……」
龍二はコーヒーをすすり、勝也も笑顔でなおの次の言葉を待った。沈黙を許容してくれる「間」が、ここにはあった。
「不得意な仕事をずっとし続けたり、逆に得意な人だけがずっと活躍してしまったり……。そうなると、汚れ役というか、損な役回りばかりの人が嫌になって…、辞めてしまう気がします。チームとして、あまり機能しなくなるんじゃないかって」
「パスって、どういうこと?」勝也が興味深そうに問う。
「私、ずっとバスケをやってきて……。異動を『ポジションの交代』だと考えたんです。得意なシュートコースで待てればいいですけど、正面って意外と打ちにくいんですよね。もしチームが固定されて、苦手な位置でしかパスを受けられない状態がずっと続いたら……私なら、そのコートにはいたくないなって」
なおは3Pシューターとしての実感を言葉に乗せた。龍二の目が少し細められる。彼もまた、かつてはコートで司令塔(ポイントガード)を担っていた。
「おもしろいね。確かに、出しにくい位置にいる味方には、パスを出す側も躊躇する」 龍二はPCの画面を指差した。
「仕事が固定されると、そこに『淀み』ができる。マンネリ、癒着、そしてブラックボックス化だ。だから銀行では不正を防ぐために必ず定期的な転勤があるし、リクルート社には3年ごとに1ヶ月休む『STEP休暇』なんて制度がある」
「一ヶ月も……。そんなに休んで大丈夫なんですか?」なおが驚く。
「会社から手当をもらって、その一ヶ月で必ず『新しいチャレンジ』をすることが義務付けられているんだ。そうやって無理やりにでも環境を動かす、新しいパスをもらうための仕組みってところかな。一ヶ月も現場を空けるなら、自分の仕事を整理して誰かに引き継ぐしかない。それが全員に起こるから、属人化させないための仕組みとして、とても理にかなっていると思う」
龍二はそこで、少しだけ声を低くした。
「まるで秘伝のタレのように、『自分にしか作れない、自分にしか分からない手順』を抱え込む。彼らはそれを『責任感』と呼ぶが、僕から見ればただの『属人化』という名の甘えだ。自分を唯一無二の存在だと思いたいがために、組織の代謝を止めているに過ぎない」
「チャレンジが義務……。強制的にアップデートさせられるわけですね!」
勝也が感心したように”強制、リスキリング/アンラーン、仕組化”とメモを取る。
「いつしか人は、『生きること』がアタリマエになってしまった。自分の身にいつ何が起こっても、組織に迷惑がかからないように整えておく。武士じゃないが、いつ死んでもいいように身辺を律しておく……。本当の責任感とは、『自分がいない世界』を美しくデザインしておくことなんじゃないだろうか」

「自分が、いない世界……」

なおの脳裏に、不調で動けなくなったあの冬の日が過った。自分が消えた後、あのチームはどうなったのだろう。誰かが私の代わりに、あの打ちにくい場所でパスを待っていたのだろうか…。
龍二はなおの”揺れ”に気づかないふりをして、カップを置いた。
「自分のやってきたことを整理し、人に伝える。自分が居ない世界を想像することで、初めて自分とチームの関係を客観視できるんだ。言語化して、バトンを渡す。そうやって組織の空気と血液を循環させるのが、『異動』という儀式の正体だよ」


なおは、残ったコーヒーを飲み干した。 新城から突きつけられたあの冷徹なメール。あれも、龍二の言う「血液の循環」の一つだったのだろうか。まだ納得には程遠いけれど、喉の奥にあった塊が、少しだけ解けたような気がした。
つづく

