宇佐の川路聖謨と銚子の濱口梧陵がいなかったら、東京大学医学部はなかった
宮崎県出身者が、東京に出ていってまず困るのは、しょうゆが辛いことです。
宮崎の甘口のしょうゆに慣れた舌は、なかなか関東のしょうゆには慣れませんでした。
すぐ喉が渇いて、お茶を飲んだりしました。
さて、千葉県の銚子市にヤマサ醤油というしょうゆ会社があります。
この会社は、日本の医学の発展と大変密接な関係があります。

幕末に活躍した大分の宇佐出身の川路聖謨(かわじ・としあきら)という幕府の役人がいます。
ロシアのプチャーチンが長崎に来たときに、交渉役となりました。
このときのロシア側の記録には、「洋の東西を問わず賢い人は賢い」と川路のことを評価しています。
外交官として優秀だったのでしょう。川路は後に外国奉行となっています。
江戸の蘭方医など83人が出資して、種痘所を開設しようとしました。
そのときの宛先は、川路宛でした。
この出資者の中に、漫画の神様の手塚治虫の曽祖父がいました。
川路の根回しで、幕府から許可がおりました。
種痘所は、川路の屋敷の敷地内に置かれました。
川路が提供したのでしょう。
せっかく作った種痘所ですが、半年後に江戸の大火があって焼失してしまいました。
蘭方医たちは途方に暮れます。
そのときに、窮地をすくってくれたのが、ヤマサ醤油の濱口梧陵です。
300両の大金を出資して、種痘所を再建することができました。
濱口梧陵は、和歌山で津波のときに田んぼの藁に火をつけて村人が逃げるのを助けた「稲むらの火」でも有名です。
種痘所はやがて幕府直轄となり、西洋医学所、医学所と名前を変え、最終的に現在の東京大学医学部となりました。
日本の近代医学は、種痘(ワクチン接種)から始まったといえます。
戊辰戦争を経験したことで、消毒技術や麻酔術を伴った外科のある西洋医学の優秀性を、国の指導者が理解しました。
明治政府は、いち早く西洋医学を採用すると宣言しております。
川路は、江戸城明け渡しの日に、ピストル自殺を遂げています。
幕府の川路と民間の濱口梧陵がいなかったら、東京大学医学部はなかったかもしれません。

ヤマサ醤油は、ファイザー社やモデルナ社に、メッセンジャーRNAのワクチンの原料を供給しました。
日本はワクチン開発に遅れをとったといわれていますが、そうでもありません。
医療に関係する者として、東京に住んでいたときは、しょうゆは、ヤマサ醤油のものを買って使っておりました。
宮崎にかえってきてからは、やっぱ、しょうゆは甘口のほうがのどが渇かんでいいと、先祖帰りをしてしまいました。
恐縮です。
手塚治虫の「陽だまりの樹」は、幕末明治の医学の状況を知るのに絶好の資料です。
また、「医学生とその時代」には、東京大学医学部の始まりについて詳しい解説があります。
自治医大の学長をされている永井良三先生から教えていただきました。
