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宮崎交通の創業者の岩切章太郎は、経営者であり哲学者でもある

宮崎交通の創業者の岩切章太郎さんの「無尽灯」というエッセイ集には、大変ためになる話が多く掲載されています。

以前、松下幸之助さんの「道をひらく」の話を書いたことがありますが、昔の経営者は哲学者でもあったような気がしています。

以下は岩切さんの「六相円融(ろくそうえんゆう)」という話です。

私共の身体にはいろいろな器官がある。

眼、耳、鼻、口というような外部から見えるものをはじめとして、体内にある肺臓、心臓、胃、腸など、実にたくさんの器官や部分がある。

ところでこのたくさんの器官や部分の働きを、よく心をとめて調べてみると、これはまことに驚くべきことであるが、これらの器官や部分は、いずれも自分のための働かないで、常に全体のために働いているのだということである。

眼は物を見る働きをもっている。

しかし、物を見るのは眼自身のためではなくて、身体全体のためである。

胃が食べ物を消化するのは、胃自身のためではなく、腸が吸収するのも腸自身のためではない。

すべて身体全体のためである。

そして一方吸収された栄養は血管によって身体全体に、平等公平に分配され、補給されて、私共のこの身体が、安全にかつ健やかに生き長らえていけるのである。

六相円融というのは、華厳経に出ている話で、六相とは総相と別相、同相と異相、成相と壊相の六相である。

六相円融とは、私共の身体の部分と全体との関係を説いた理論で、身体の各部分、各器官が、それぞれ異なった形状、異なった働きをしながら、常に自分のためでなく全体を生かすために働き、一方各部分は全体によって平等公平に補給せられる時、はじめて私共の健康が完全に保持される。

もしこれに反して、部分や器官が自分勝手に働いたり、あるいは怠ったりする一方、各部分もまた全体によって不公平な取扱いを受けるということになると、その時私共の健康が破壊されることを説いた面白い理論である。

胃と腸が喧嘩した話がある。

胃が腸に向かって、「折角苦労して消化をする。そして美味しそうになるとすぐ君の方に流さねばならぬ。すると下の方に寝そべっている君が、それを一人で吸収してしまう。どう考えても僕は馬鹿馬鹿しくて仕方がないから、これから消化するのは止めにする」という。

そこで腸が驚いて、「そんな乱暴なことはない。僕が吸収するのは僕自身のためではない。すべてみんなのためではないか」というが、胃は聞き入れない。

そしてとうとう胃と腸が喧嘩になってしまって、胃は消化することを止め、腸は従って吸収することができなくなってしまった。

下痢また下痢で身体は弱るばかり。

もちろん胃も腸もすっかり衰弱してしまうが、依然としてお互いににらみあって喧嘩を止めない。

そこで眼が怒りだした。

「君たちの喧嘩で君たちが弱るのは当たり前だが、そのため何の関係もない僕たちまでがこんなに弱って、もう眼が見えなくなる。一体どうしてくれるんだ。」

社会は有機体だといわれている。

従ってその全体と部分との関係は、私共の身体と非常によく似ている。

近ごろの社会不安や、労資の争いを思う時、私はこの六相円融の理論を思い出すのである。

私共は私共の身体が、私共に教えるこの尊い教訓の一つ一つを今一度、静かにそして深く味わってみるべきではなかろうか。

イランとアメリカを胃と腸に例えると叱られそうですが、「六相円融」のような教えは、キリスト教やイスラム教にはないのかしらんと思いました。

ただ、華厳経を読んだこともない私としては、こういったことを書く資格はないと反省しました。

恐縮です。医師として突っ込みを入れると、胃を全摘しても大丈夫です。

しかし、胃酸による消化ができなくなるので、口から入った菌が死なずに食中毒になりやすいといわれています。

胃の全摘術を受けた人は、要注意です。

なんか結論が違うような気もしますが、公衆衛生の話なのでまあいいか。

ただ、せっかくのいい話しを恐縮です。


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