逮捕された後藤新平衛生局長と村木厚子雇用均等・児童家庭局長は取調べは三日間と想定したが、獄中で半年を過ごしている
後藤新平は、約半年間鍛冶橋監獄につながれています。
後藤新平の同情者が様々なところから現れました。
在野の法曹として超有名だった大井憲太郎は、東京弁護士会の名士とともに、後藤新平後援会を発足させて、司法当局に対して警告するとともに、獄中の後藤新平に声援を送りました。
後藤は獄中において、一面識もない人々から、多くの慰問状と差入物を受け取っています。医学部の医師や医学生のみならず、新潟の伊弥彦神社に一週間参内して無罪を祈願した人もいました。
獄吏の中にも、後藤新平に同情を寄せる者も少なからずいました。
便宜を取り計ったり、助言をしたりしました。
後藤は、はじめ警吏と同行して警視庁に行ったときには、事件を軽くみていました。
二日か三日、裁判官と立ち話をすれば、裁判官は己の潔白を認めて、ただちに釈放してくれるものと思っていました。
しかし、二、三回予審判事の取り調べを受けた後藤は、悲観して監房に戻ります。
あの頭の悪い判事が、あのまだるっこい調子で訊問するのでは、二日や三日の立話では、事件の真相を明らかにすることはできない。これは悪くすると二年も三年もかかるぞ。
後藤は、長期の獄中生活に処する覚悟を決めました。
後藤はまず衛生に注意して、ただひたすらに保健を計ります。入獄の当初は、監獄に入った以上は、監獄の飯を食うといって、洋食その他の差し入れ物は一切食べませんでしたが、保健ということを考えて、三度に一度は差し入れ物を食べることにしました。
大日本私立衛生会の僚友たちは、後藤の健康を気遣い、差し入れ取り扱い所を設けて、差し入れ物の検査、その栄養価の調査を行います。
後藤は、歯の衛生を重んじ、一日獄吏につまようじの差入を求めましたが、爪楊枝は差入禁止物となっている旨を答えます。
囚人がこれによって自殺をはかるおそれがあるからです。しかし後藤は、在監者といえども、保健の利益を奪われるはずないのであるから、爪楊枝を使用せしめないのは不都合であると言ってききませんでした。
獄吏もついに、折れて使用を許可しました。獄中で爪楊枝を用いることが許されたのは空前絶後のことだったようです。
しかし、そういう人ばかりではありませんでした。
親友の金杉英五郎はこのように書いています。
当時世人は、伯(後藤)を知るも知らざるも、悉く伯を謀反人なりと確信し、或いは見掛けによらぬ奴だとか、不埒千万な奴だとか、官吏の顔汚しだとか、何も悪評を極め、野人(金杉)が、後藤は其様な志の小なるものに非ずとして、弁解力説するも一人も信ずる者なく、随って留守を見舞うものも漸次其跡を絶ち、唯時々二、三氏の来訪あるのみであった。
四面楚歌の後藤に、猛然として襲いかかったものは、八方の債鬼(借金取り)でした。
後藤が獄から家族にあてて出した手紙は、ほとんど借財の始末に関することのみです。
後藤がこの失意のどん底にあっても、くじけなかったのは、後藤新平の母と夫人が新平を信じて微動だにしなかったからでした。岳父の安場保和も一度も嫌な顔をしませんでした。
金杉英五郎と北里柴三郎が一番の支援者でした。
健康に注意していた後藤でしたが、取り調べ中に予審判事を侮辱したと密室監禁の措置を受けたりして、体力が衰え、ついに歯痛を発し、やがて耳疾を患うようになります。
十二回にわたって保釈願いを差し出しました。
保釈願いの保証人は、安場保和と北里柴三郎の二人で、ときおり金杉英五郎も混じっています。
保釈願いの理由は、後藤の病気と後藤の母の病気でした。
予審判事は許可しませんでした。
保釈不許可に対して、後藤は、司法省、大審院、控訴院といった上級官庁に保釈許可の請願書を出しました。
その結果、許可はでませんでしたが、外部の医師を監獄内に招いて治療を加えることが許されました。
友人の金杉英五郎が、監禁中に約3週間にわたって、毎日、または隔日に来て後藤を診察しました。
獄吏は、親切に取り扱ってくれました。時々席を外して、二人が自由に話すことを黙認しました。
別の獄吏が担当したときは、ドイツ語で会話をしています。
「今何を話したのか?」と聞かれたときは、「薬名等にて決して他事についてではない」と説明しました。
金杉は、後藤が希望する各種の書籍を差入をしています。耳鼻科のテキストを渡して、中に参考になることを書き込んだりしました。
後藤新平は、入獄して約半年で自由の身となりました。
しばらく英気を養うために千葉県の保田で休養したり、群馬県の温泉で過ごしました。
日経新聞の「私の履歴書」で連載中の村木厚子さんが大阪地検特捜部に逮捕され拘留されたことを書かれています。
そのときのポストは、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長です。
村木局長は、2009年6月13日に「大阪に来てください」と連絡を受けます。
全く身に覚えのない事件ですが、1日では聴取は終わらないと考えて、2泊分の荷物を持って大阪い向かいました。
内務省の衛生局長だった後藤新平とそっくりです。
村木さんは、164日間にものぼった拘置所生活で、差し入れられた本を150冊読まれたそうです。
接見禁止が解除されると、面会は70人、手紙が500通が届きました。
家族が支えてくれました。夫と二人の娘さんは、普段通りに過ごそうと、話し合います。
拘置所の独房の窓から1度だけ、ぽっかりお月様が見えました。この月を東京の家族も見ている。自分たちはつながっていると思えたそうです。
村木さんは、何度も保釈申請をしましたが、退けられました。
2009年11月24日に、ほぼ半年ぶりに拘置所の外に出ることができました。
逮捕時の夏物のスーツしかない村木さんは、弁護士の女性から白いジャケットスーツを貸してもらいました。
保釈金は1500万円。弁護士費用、家族の大阪への往復旅費も合わせると、経費は相当な額となりました。仲間からのカンパに助けられました。
信念を貫き通すには、経済力も大きな要素なのだと感じさせられました。
体重は6キロ減り、体力は消耗していました。足腰が弱り、地下鉄の駅の会談は途中で一休みしなければ上がれません。
1月は何もしないほうがいいと女性弁護士からアドバイスを受けましたが、実際に何もできませんでした。
後藤新平は、桂内閣の逓信大臣兼鉄道院総裁となったときに、徳島に公務で出張しました。
徳島の停車場に到着すると、場内は出迎えの人々でいっぱいでした。その人ごみをかき分けて、一人の老紳士が後藤の前に歩み寄りました。
「今日はお迎えに参りました」
しかし、後藤には誰だかわかりませんでした。
紳士は名刺を渡して、「後藤さん、お見忘れですか。私です。まことにお久しうございます」といいました。
「弁護士 西川漸」とありました。
後藤の取り調べをした予審判事でした。
名刺の裏には、「さかりをば見る人多し散る花の跡を訪ふこそ情なりけれ」の歌が書かれていました。
西川判事から、誣告罪で訴えられている被告に三千円という大金の証文に判を押した理由を尋ねられたときに、後藤新平が言った歌でした。
後藤が幼少のときに、父母からこの歌を教えられ、景気のいいときには世間は金員を寄付するが、誣告罪で入獄してしまえば、世間から捨てられてします。こういうときに恵んでやってこそ情だと思って証文に判を押したのだと答えたのです。
西川判事は、「五十銭、一円の金ならいざしらず、三千円という大金を借りる証文に判を押しておいて、それが一滴同情の涙であると言えるか。その方が被告に加担しているとみられても致し方はあるまい。どうじゃ」といいます。
「貴方と私は人間の桁が違う。貴方にとっては、五十銭一円が同情の極致でしょうが、私にとっては三千円、五千円も涙の一滴だ。貴方には私の心持ちが解りません」
あのときの取調べから15年経っていました。
「わたしを動かした歌ですから忘れません。わたしは一世の快男子を苛酷に訊問した昔を、後悔しています」
西川弁護士はそう言って、後藤新平の手を握りました。
同じように、村木さんを取調べをした元検事と村木さんは、いつか、会うことがあるでしょうか。あれから15年以上経っています。
