中2次女の感性がうれしく、まぶしい〜「ぼくたちん家」を観ながら(追記あり)
※ヘッダーは、次男画による中学の教室
今週のはじめ、「ぼくたちん家」を次女、長男と観た。
次女による解説や人物相関を聞きながら、私が観たのはこれが初めてだった。
ドラマのなかほどで、及川光博演じるゲイの波多野玄一の、中学生時代の回想シーンがあった。
保健の性教育の授業。
授業を行う教師が「同性愛」を揶揄するシーンが出てきた。教室が笑いに包まれる。
このような空気の時代に、私も中学生だったことを思い出した。
男女の性愛が当たり前のように思っていた。そして、特に男性の同性愛を揶揄する空気がたしかに社会にはあった。
「当時の学校ってそうだったんだよね」とつぶやきながら、少し苦い思いで観ていたら、次女がポツリと言った。
「あたしさ、、いま、生きていて本当によかった。この時代じゃなくて、よかった」
なんだか、こういうことを言う次女に私はうれしく思った。
前にも、次女に私はたしなめられたことがあった。
次女に、「お母さんは同性愛とかにちょっと興奮気味に理解者のような持論を展開するけど、そんなに肩ひじ張らなくてもいいものではないの?人を愛するのに同性や異性って、関係なくない?」と指摘され、たしかに私は同性愛者を「理屈で理解しよう」としていたと思った。
それは、息子の言葉を借りれば「上から目線のおこがましい思考」だ。
目からウロコが落ちるとか、ガラリと価値観が変わることが、生きていると時々ある。
同性愛については、次女からの指摘のしばらくあとに、理屈がガラガラと音を立てて崩れて、すんなり「そういうことか」とストンと落ちた瞬間があった。
つまり私は、40過ぎて初めて目からウロコが落ちたというのに、次女は、まるで生まれたときから当たり前のように、同性愛の事象をとらえている。
それは生まれた時代がそうだからなのか。
いや同世代でも、そういう感性を持っている人はたくさんいる。
私の問題なのだろう。
ほかのことでも彼女は、「そういうことがある」と当たり前に受け止める。
私が政治でも大きな事件に対してでも、何かに対して憤るとき、やはり次女は眉をひそめる。
「なんで、そんなに強く人に対して言えるの」
私はその視線に怯む。
空気に惑わされたり、思い込みのフィルターをもったりせず、「そこにあることがら」をありのまま当たり前として受け入れる。
私にはそれが難しい。
夫によくたしなめられて、その訓練で言わないように思わないようにできてきたけども、まだまだ根は残っていて、時々頭をもたげる。
次女は、それができる。
そのことに私は、ただただうれしくて、まぶしい。
彼女は、絵を描く。
まんがを描く。
表現者という人はそういう感性をもっているように、単純な私は感じる。
そうでなければ、あんなにたくさんの表現対象を、まんがや小説でいえば登場人物を受け入れて肯定できないのではないだろうか。
まんがや小説は、学校に通うのを長いこと休んでいる彼女の先生でもあり、彼女自身を表現する場でもあるように見える。
ちなみに彼女がいま考えているまんがのテーマは「ネットサーフィン世界大会」だそうだ。
お母さん、どんな大会ルールを思いつく?と言われたけど、かあさんはそんな柔らかい頭がないので、全く思いつかなかった。
なんだ、ネットサーフィン大会って!
この感性をずっと大切にしていってほしいなと、私は思って、見守る。
次女から学ぶことは、とても多い。
追記:
これを書いた翌日、高1次男に「異性愛が前提の話はしないように気をつけてね」と話したら。
「少なくともおれの高校では、みんなそういう認識だよ。なんなら、もちろん公にするわけではないけど、友達で、同性愛なんだと打ち明けてきた子も何人かいる。そうなんだ、と当たり前に受け入れる感覚だよ。たぶん、お母さんの世代とは感覚が違うと思う」
と言われた。令和、すごいなと感じた。
性的マイノリティの人の抱えている思いは本当にはわからないし、私は状況もそんなに分かっていない。でも少なくとも、私の中高の頃の社会の雰囲気が変わりつつあるのは確かなのかな、と思えたので、追記しました。
ぼくたちん家の公式サイトはこちら。
次女についてはこちらにも。
