鬼さんの推しごと~ご利益はお夜食で~第三話②
日曜日も午前中から夕方までバイトに行った。夏休みは帰省するために、ちょっと長くお休みをするから、その分しっかりがっつり働こうと思って。
「ただいまぁ」
そして帰ってきたら、なんかこう、お通夜?
鬼百合荘には、応接室みたいな場所がない。私はまだ呼んだことはないけれど、辰野さんのサークル仲間とかは、実はしょっちゅうここにやってきては作業なりミーティングなりをすることがあるけど、それも全部この食堂で行われている。ひとりひとりに割り当てられた部屋は、あまり広くはないのだ。
昨日のうちに、雪枝さんは住人全員に、「明日はうちの人が迷惑をかけると思うけれど……」と、謝っていた。
どのくらい、ふたりが別居しているのかは知らない。それとなく確認したところ、マリアが入居する前から、雪枝さんは鬼百合荘の住人だった。マリアは去年の夏頃にここに来たと言っていたので、少なくとも一年以上。
それだけ別居していたら、離婚事由になりそうなものだけれど、そこは雪枝さんが語っていたように、「いろいろある」のだろう、いろいろ。
自分の部屋に行くには、階段を上らなければならない。そしてそれは、自動的に共有スペースに足を踏み入れるということでもある。
雪枝さんは、旦那さんと向かい合っている。いつも通りの微笑み、かと思いきや、口元はわずかに引きつっていた。対する旦那さんは仏頂面で、いかにも一触即発の雰囲気、という感じ。
触らぬ神に祟りなし。なるべくそちらを見ないようにして、抜き足差し足忍び足で階段に足をかけたが、「おい」と、低い声で呼びかけられて、つんのめりそうになった。
「は、はいっ」
振り向けば、腕を組んだままの雪枝さんの旦那さんが、こちらを睨みつけている。えっ、私何かしたかな。ふたりの話し合い? の邪魔をしないように、抜き足差し足で移動していただけなんだけど。
私の気遣いは、彼にとっては逆効果だったらしい。
「帰ってきて顔を合わせたのなら、しっかり挨拶をするのが礼儀だろう。何を勝手に、自分の部屋に行こうとしているんだ」
これが自分の親だったら、「まぁ確かにな」と納得して、ごめんなさいするところだ。けれど、私と彼とは赤の他人、初対面。あまりに強い言い方に絶句していると、
「あなた。凛ちゃんは、私たちに気を遣ってくれただけよ」
と、雪枝さんが宥めてくれるが、いまだ和解したわけではないふたりである。旦那さんは、聞き入れようとしない。私に向かって、
「ちゃんと挨拶をしろ」
と、再び言った。
ここはおとなしく従っておいた方がいいな。父との確執を乗り越えた経験がある私は、頭を下げた。
「失礼しました。ただいま帰りました……どうぞ、ごゆっくり」
なるべく目は合わせずに、階段を上りかけた私の背中には、厳しい言葉が投げつけられる。
「まったく、この家の人間は、あいかわらず年長者を敬うことを知らない若者ばかりだな。誰も挨拶に来やしない……親の顔が見てみたいくらいだ」
と。
親は関係ないでしょうが、とか、初対面の、娘や孫くらいの年の人間に向かっていきなりその言い草もどうよ、とか、言いたいことはたくさんある。そのどれもが激情になってお腹の中をぐるぐる回っていて、吐き出したら罵倒になってしまいそうだから、我慢する。本人のためじゃない。雪枝さんのためだ。
無視して自室に籠ろうと思った私を振り返らせたのは、バチン、という音だった。
目に入ったのは、立ち上がった雪枝さんの背中。彼女の身体でよくは見えないが、旦那さんの方は、ほっぺたを押さえて呆然としている。その仕草とさっきの音を合わせれば、おのずと答えは出た。
え? マジで? あの虫をも殺さないような雪枝さんが、男の人を殴った?
唖然として見守るしかない私の眼前で、湯気を立てんばかりに怒り狂った雪枝さんは、とうとう別居をやめる旨を叫んだ。よりを戻すのではなく、逆の方向へと事態は動く。
「ひと様の娘さんに、なんて言い草なの!? もういいわ! あなたのことなんか、知らない! 離婚します!」
私は無意識に、天を仰いだ。
神様仏様、それから鬼百合荘に住まう鬼様、これって私のせいじゃありませんよね?
完成稿が何もないから、ネームだけ神棚に上げて、ついでにコンビニで買ってきた大福もあげた。クリーム入りでちょっとお高いやつ。柏手をパンパンと打ち鳴らしている私に、呆れた声がかかる。
「この神棚、そういうんじゃないだろ」
「わかってるよー。わかってるけどさぁ!」
神頼み、正確には鬼頼みしないと、やってられないのだ。
何しろ私への説教をきっかけに、小康状態を保っていた雪枝さんと旦那さんの関係は急降下、一気に離婚の話まで出た。雪枝さんは頑なで、私がどんなに気にしていないと言っても、全然聞いてくれない。
今日の昼間、役所に行って離婚届をもらってきた、と笑っていたのが怖かった。
「ということで、卯川夫婦を仲直りさせよう会議はじめまーす!」
メンバーは雪枝さん除く全員。疲れがたまっている彼女は、今日は早々に眠ってしまっている。
「余計なお世話じゃね?」
冷笑する樹に、あんたは当事者じゃないから何でも言えるんだよ! と、怒りが湧く。
かなり長い間別居していても、これまで別れていなかったということは、ふたりの間に何らかの情は残っていた。それを私が切ってしまった。このまま本当に離婚になったら、私が罪悪感で死ぬ。
雪枝さんは優しいから、私の心を察するに違いない。気を遣って、ぎくしゃくした結果、彼女がこの鬼百合荘を離れてしまう、という未来もじゅうぶんに考えられる。というか、たぶんそうなるだろう。
出ていくこと自体は否定しないけれど、理由は前向きなものであってほしい。辰野さんがクリエイターとして認められず、鬼百合荘にたどり着けずに迷子になっている件のときもそう思ったけれど、私の我儘なのは、百も承知だ。
「まあでも正直? ウチも雪枝さんたちにはどうにかなってほしいとは思ってるんよ。定期的に旦那さんがやってきては、その間外に出ることもできないしさ」
やっぱりあの日、みんな家にいたんじゃないか。もしくは旦那さんが来る前に家を出て、帰ったあとに戻ってくる予定だったか。
「だよね!」
「でもそれは、よりを戻すんじゃなくて、ちゃんと別れる、でも構わないわけでさ」
それは、そう。
うー、と私は唸り声をあげて、髪の毛をぐしゃりと掴む。宙ぶらりんな状態が悪いだけで、別れたっていいのだ、一般的に。別居期間の長さからいって、婚姻関係の継続が難しいって結論になるのは目に見えている。
離婚をしないカップルがえらいわけじゃない。相手の浮気や借金、DVだとかの問題行動があるのに、しがみついている人は見苦しい。
けれど雪枝さんたちは、こう、何かが違う気がするのだ。完全に、ボタンが掛け違っているみたいな。上手く言えないんだけど。
どうでもいい派・どっちでもいい派と来て、最後の砦である辰野さんは、困ったようにこの場をとりなした。
「まぁ、そりゃあね。離婚するっていうのなら僕らには止められないよ。でも、八木沢さんの気持ちもわかる」
「辰野さん……!」
雪枝さんを除くと最年長なのは彼だ。大人の建設的な意見を拝聴したいと思ったのだが、へにゃりと眉毛を下げてしまう。
「……まぁ、僕、恋愛経験が乏しいので、何をどうしたらいいのかわかんないけど。選択肢を間違えなければいい、ゲームとは違うしね」
辰野さーん!
頼みの綱が頼りにならないことがわかり、私は樹とマリアに縋る目を向けた。
「え~? ウチも彼氏とか、いないし~……」
「右に同じ」
頬を染め、人差し指をつんつんと合わせてもじもじ恥じらっているマリアと、いつも通りの仏頂面の樹。後者に至っては、女が放っておかない顔してるのに、いないの? マリアもギャルなのに?
自分のことは棚に上げて頭を抱える。
「つーか、たぶんお前が一番恋愛得意だろ。な? 少女漫画家さん?」
「そうだよねぇ。んじゃ、雪枝さんのことは凛にお任せってことで」
「よろしくお願いします、八木沢さん」
樹の言葉に、「馬に蹴られるようなことをするのは勘弁」と、他のふたりも乗った。いつの間にか私が、何もかもをすることになっている。そりゃ確かに、どっちでもいいって人たちに協力を求められないけどさ~。うう~。
私は再び、神棚に柏手を打った。
ふたりを仲直りさせるうまいアイディアが降ってきますように。解決したら、なんでも好きなの描いてあげるから。
……必死の祈りを、どうやら鬼は聞き届けてくれたらしい。
『……夢、だな、これ』
夢だと認識するのはあんまりよくないってどこかで聞いたことがあるけれど、とにかく今、見慣れた台所にいるのは夢であることはわかった。だって、奥の開かずの扉がわずかに開いているから。
この鬼百合荘には、文字通りの鬼が封印されている。昔は悪いことをしていたらしいが、今はすっかり本人は大人しくしていて、私たち住人が神棚に供える漫画や小説、音楽なんかが彼の心を慰め、呪いの力を軽減している。彼は私たちが夜中まで作業を頑張っているのを知っていて、夜食を用意する。
神様になりかかっているらしいので、私の祈りも聞き入れてくれたわけだけど……恋愛相談、不得意そうだなあ。しかも、「恋人になりたい!」とかならまだしも、「離婚寸前の夫婦の間を取り持ちたい」という、難しい相談事だ。
せっかく夢まで見せてくれたけれど、やっぱりこれは自分で考えるしかないのかなあ、と思っていたら、小部屋の中から、にょきっと腕が伸びてきた。長い爪に枯れ枝のような腕は、正直恐ろしいけれど、彼の手は絵を描き、書を書き散らすためのもので、私の手と変わらないことを知っている。
握られているのは、一枚の紙。コピー用紙じゃなくて、昔ながらの和紙? 半紙みたいなのに、裏地をつけて補強したものだ。
『何? これ』
丸まったそれを、ぺらりと開く。
それは、女の人の絵だった。髪が長く、和服を着ている。墨一色なのに、濃淡を調整して描かれているから、きっとこの人の髪は黒々つやつやとしていて、肌は白く、頬は桃色をしていたのだろうと想像がつく。
お宝鑑定番組で見る日本画の筆致に似ているが、ところどころ、漫画っぽい表現も取り入れられている。目にハイライトが入っているあたり。たぶん、鬼百合荘の歴代住人の中でも、漫画を描く人間が多かった影響だ。
『……素敵だね。これ、誰?』
腕は引っ込んだままだ。以前の夢では、意志疎通をするときに彼の手に触れたものだけれども、どうやら恥ずかしがっているらしい。
その反応で、ピンと来た。
『もしかしてこれって、あなたにいろいろ教えてくれた、お姫様?』
暗闇の中、なんとなく肯定しているのがわかった。私はもう一度、まじまじと鬼が描いた絵を見る。
これもまた夢の話だけど、私はこのお姫様を見たことがある。確かにきれいな髪をしていて、頬は薔薇色だった。鬼という超常的な存在に怯えることなく、好奇心に瞳を輝かせているところを、鬼はうまく表現している。
感心するくらい、絵は上手……なんだけどさ。
『いったいこれを私に見せて、何を伝えたいの?』
こんな夢を見ておいてなんだけど、私は霊能力者ってわけじゃない。たまたま波長が合うって奴なんだろう。他の住人は鬼と交信したことはないし、以前からの住人の噂話でも、そんな逸話は残っていない。
だから、鬼の意図がちゃんと読み取れない。前回はわかったけれど、今回は鬼が引っ込んでしまっているから、どうしようもない。
お姫様の絵から伝わってくるのは、鬼が彼女に感謝をしているのだろうってことと、すごく、すごーく好きだったんだろうな、ってことくらいだった。
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