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🔳ep.2 地獄の始まり


「私のバレエ史」を書き始めてまだ2つ目の記事だというのに、もう地獄が始まるんかいと言われそうだが、その通りである。というか、今後もほとんどが地獄な内容になると思われるので、苦手な方は読まないほうがいいかもしれない。笑



小学校5年生のときに、バレエ教室内で行われたオーディションに合格し、私は晴れて選抜クラスの生徒となった。



どちらかというとマイナーな習い事とはいえ、今と違って子どもの数が多かったので、ふるいにかけても余るくらいに生徒がいたのだろう。2年に一度の発表会で役をもらえるのは選抜クラスの子だけだったし、コンクールに出してもらえるのも選抜クラスの子のみ。つまり、バレエを真剣にやりたいと思ったら、なにがなんでも選抜クラスに選ばれなければならなかった。



選抜クラスには4年生から挑戦できるので、上手な子たちは4年生で選ばれている。私は一年遅れでやっとそのクラスに入れたわけだが、そこで本気モードな子たちとの意識の違いを目の当たりにした。



本気モードというのは、「自分はバレエダンサーになりたい」ではなく、「なる!」と決めている子のことをいう。将来の道筋を決めているわけだから、生活のすべてを、バレエのためになるか・ならないかで取捨選択していく。そのストイックさは、子どもとは思えないほど徹底したもので、当時国際的にも問題になっていた若いダンサーの拒食症や生理不順の序章とも思えるものだった。



幸いというべきか、その頃の母はバレエに熱心だったステージママから、よくいる教育ママゴン(古っ)に変貌をとげており、「バレリーナになれなかったときの事も考えなさい」と言って食事制限にはまったく協力してくれなかった。母のセリフは、夢を追う子どもに向かって親が言うべき言葉ではなかったかもしれないが、母が冷静だったおかげで、私は健康面では大きな問題もなく大人になれたのだと思う。



かつて大先生の個人レッスンを受けたことのあった私であったが、当然先生はそのときの生徒が私だったとは認識していない。選抜クラスに入って数ヶ月間は、名前も覚えてもらえなかった。



ストイックさの権化みたいなレッスンメイトたちの間で、私の甘々な精神はこれでもか!これでもか!というほど鍛えられた。いや、踏みつけられた、というほうが正しい。時代は平成初期。まだまだ昭和の根性論が幅を利かせていた頃で、精神的に追い詰めるやり方のレッスンが行われていた。



たとえばセンターレッスンで、先生が手振りと口頭のみでアンシェヌマン(練習用の振り付け)を出す。選抜クラスに入ったばかりの私にはそれがあまり理解できないのだが、たった1回の説明のみで、先生は「はい、じゃあ5人ずつやって」と言ってピアノをスタートさせる。



ここで恐ろしかったのは、5人ずつと言われてもその順番は決まっておらず、早いもの勝ちであることだった。そして、最終グループになってしまった人は踊らせてもらえない。踊ろうとしても、「はい、じゃあ左やって」と言われて強制的に第一グループに戻され、最終グループの人たちは右も左も踊らせてもらえないのである。



もっとも残酷だったのは、「2人ずつやって」と言われた時で、人数が偶数とは限らないため、最後のひとりになってしまった人はひとりだけやらせてもらえないことになる。



謙虚さを美徳とする日本人は、当時、世界に出て行ってもそのおとなしさのせいでチャンスを逃しがちだった。外国人と同じ土俵でチャンスをつかむためには、強気で前に出ていく積極性が必要になる。先生はそれを鍛えようとしてくださっていたのだが、果たして小学生の子どもたちに対してあのやり方が正解だったのかどうか、今も疑問に思うことはある。実際、それに挫けて教室を辞めていく子もいた。



よく言われることだが、ひとりっ子には競争心がない。おもちゃもお菓子も誰かと取り合う経験がなく、周囲の大人たちが与えてくれて当たり前、自分が優先されて当たり前という環境で暮らしている。



そのため、今ほどひとりっ子の多くない時代に典型的ひとりっ子タイプだった私は、自分からぐいぐいいくことができず、この大先生のレッスンで最終グループに残りがちだったのである。レッスンに来ているのに、満足に踊らせてもらえない日々が続いた。
(こんなやり方、今の時代なら保護者が黙ってないだろうな。笑)



※ちなみに、先生がこのやり方をするのは、新年度から1~2か月の間だけである。新メンバーにクラスの厳しさを叩き込むのが目的だったのだと思う。



選抜クラスのレッスンは週末に行われていたのだが、週末が近づくにつれ、私は胃の痛みを感じるようになった。一番元気なのは月曜日で、そこからどんどん元気がなくなっていき、金曜日には朝から「ああ、明日はまた土曜日か…」と憂鬱な気持ちになる。



当時はまだCMなどで「花金」という言葉が使われており、新橋で浮かれたサラリーマンたちが「花金だぜぇ〜!」とか言ってる映像を見るたびに、「ぬぁーーーにが花金じゃ!このクソジジイ!」と心の中で見知らぬサラリーマンを罵っていた。笑






自転車の練習でもピアノの練習でも、基本的に全然根性のなかった私が、この厳しい環境でレッスンを続けてこられたのは、ひとえにバレエが大好きだったということと、あの日のあの先生の笑顔が忘れられなかったからである。先生にもう一度笑いかけてもらいたい!自分を認めてもらいたい!というその一心で、私はどうにかレッスンに通い続けていた。



つづく。



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