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🔳ep.3 一歩間違えたら死


昔の夏は今よりも涼しかったとはいえ、それでも暑いことに変わりはない。夏場のレッスンは文字通り地獄だった。レッスン室にクーラーがなかったのである。



窓から入ってくるわずかな風だけが夏の間の命綱。昭和のやり方を引きずったままのレッスンは、もちろん水分補給禁止、休憩もなし!


先生、私たちに死ねって言ってません?
(心の声。)




バレエのレッスンはバーレッスンから始まる。一見、トウシューズを履いて舞台で踊っているよりもなんか楽ちんそうに見えるのだが、全然そんなことない。むしろバーレッスンのほうがしんどい。低学年のレッスンだと、バーレッスンの中でも特にしんどい項目にさしかかると、必ずトイレに行ったきり戻ってこない子とかもいたぐらいである。笑



それを室温30℃超えの、大勢がひしめき合う部屋の中で行うのだ。汗がじんわりどころの話じゃない。滝汗が止まらない。汗拭きタオルが1枚じゃ足りず、1日に何枚も消費していた。母は私が出したレオタードの洗濯物を見て、「最初、水着かと思った」という。プールに入ったんじゃないかというくらい、汗で絞れるほどぐっしょぐしょだったのだ。
(きったね。)



今にして思えば、私たち生徒も暑かったが、教える先生だって暑かったはずだ。私も自分が教師をやってから知ったことだが、「レッスンを見る」だけでもかなりの体力を消耗する。ただ眺めているのとはわけが違うので、教師側は教師側でとても大変なのだ。



なので、あの暑い空間で大勢の子どもたちを全力で指導してくださっていた先生方は、驚異的な精神力と体力を備えていたのだと思う。最悪生徒は倒れることができても、先生はレッスンを続けなければならない。先生も生徒も、そしてレッスンピアニストの先生ですら、誰もがみな、ギリギリのところで自分と闘っていた。まるで罰ゲームである。え、これは一体なんの修行をしてるんですか?
(バレエの修行です。)



選抜クラスに入って初めての夏休み。私は生まれて初めて命の危険を味わった。



大先生のレッスンは、ほかの先生のレッスンよりもはるかに緊張する。緊張と、喉の渇きと、HPの残り少ない体で必死に踊っていたら、いきなり目の前が真っ白になった。あ、私死ぬかも…とぼんやり思った。



真っ白な視界の中で、私は踊り続けた。プロの舞台なら美談になるかもしれないが、子どものレッスンでそんなことをしたら周囲に大迷惑である。前も後ろも右も左もわからないまま、身体の感覚だけを頼りに最後まで踊り続けていたら、私はピアノに激突した。



周囲がざわざわしているのは何となくわかったが、意識が朦朧として、私はほとんど手探りでレッスン室の隅にはけて倒れこんでしまった。すぐに若い助手の先生がやってきて、「ちょっと休もう」と更衣室に連れ出してくれたため、なんとか命の危機は免れた。



エアコンのきいた更衣室でしばらく休んでいると、徐々に目の前の霧が晴れていき、私はレッスンに戻った。大先生はこちらをチラリと見ただけで、何も言ってはくれなかった。それどころか、レッスンが終わったあとに、助手の先生が来て、「大先生が、(ぶつかってしまった)ピアノの先生に謝りなさいっておっしゃってるから、一緒に行こう」と呼びにきたのである。



いやぁ…今考えてもありえない。私ならまずは生徒の体調を心配するし、親にも連絡して謝るし、ピアノの先生には自分が謝る(大先生も謝ったのかもしれないが)。



あの頃はまだ熱中症という言葉もなく、室内にいる分には安全という認識だったのだろう。大先生の中では、レッスン環境を改善しようなんて考えはまったくないようで、私はその後も何回か同じ症状に見舞われた。



ただ、自分以外にそんな風になっている子はいなかったので、さすがに自分でもどうにかしないとと思い、母に頼んで病院に連れて行ってもらった。どこにも異常はなかったが、ちょっと貧血になりやすいのかもと言われ、そこから何年かの間、処方された鉄剤を飲み続けた。



思い返せば、大先生は人道的にどうなのと思うような言動がちらほら見受けられるお方だった。しかし、当時の助手の若い先生方は、「大先生、だいぶ丸くなったよね」とよく言い合っていたので、昔はもっとずっと厳しかったのだ。
(あれ以上ってどんだけだろう…)



けがの功名とでもいうべきか、私は「ピアノにぶつかったあの(厄介な)子ね」と、大先生に覚えてもらえたようで、そのあとくらいから「葉月」と名前を呼んでもらえるようになった。



「大先生に名前を憶えてもらえた!」と、教師と生徒の間柄なら超当たり前のことですら私にとっては特別な事で、その後はますますバレエにのめりこんでいくこととなる。



つづく。




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