評価されることが目的になったとき、何かがずれる
「スキ」や「共感」があふれる世界で、
評価の数字を追ううちに、いつのまにか言葉が濁っていた。
“書く自由”を取り戻すための、小さな実験の記録。
この記事は「スキも共感もいらない」シリーズ第2話です。
▼前回は、こちら
評価されることが目的になったとき、何かがずれる
「スキ」が増えると、素直にうれしい。
コメントをもらえると、やっぱり励まされる。
だけど、いつのまにか
「どう書けばスキが増えるか」
「どんな言葉なら反応してもらえるか」
が、書く目的になってしまうことがある。
うん。
これは、正しい。
でも、正しくない。
ライティングの仕事では、当たり前だが、「反応してもらう」ために書いている。
だから、私自身のことを書くnoteでも、ついついその癖が出る。
noteで書く目的が、 “評価されたい”や“反応してほしい”になっている。
これは、私がnoteを書くうえでは、正しくない。
評価=スキやコメント、アクセス数
なんだけど。
評価を求めること自体が悪いわけではない。
むしろ、人とのつながりを感じられる大切な要素である。
noteを書く多くの人にとっては、それが正しいことだと思う。
だけど。
今の私にとっては……
「反応を得るために書く」と、言葉が少しずつ濁っていく。
まるで、1滴の濁りが、澄んだ気持ちを曇らせるように。
それは、私の“本当の気持ち”じゃない。
「いい人に見せたい」
「すごい人に見せたい」
そんな虚勢や見栄を手放せなかった。
そのことに気づいたとき、私は思った。
「スキ」や「共感してほしい」から、一度離れてみよう。
評価の正体は、“見えないフィルター”かもしれない
「評価されること」が目的になるとき、その背景には、目に見えない“フィルター”が潜んでいるような気がする。
たとえば、
noteでは「スキが多い=良い記事」と見なされやすい。
SNSでは「フォロワー数が多い=信頼できる人」と思われやすい。
noteやSNSでは、それが“正解”だと思う。
だって、他に測る基準がないから。
模試で言うなら、スキやフォロワーは偏差値。
スキが多い=「あの人、頭良いんだ!すごい!」
フォロワー数が多い=「偏差値高いから、なんか素敵な人っぽい。なんかかっこいい!」
こんな感じ。
たしかに、偏差値の高い「東大生」って聞くと、それだけで「すごそう」って思ってしまう。
あまり持ちたくはないけれど、学歴フィルターは、私にもある。
それと同じで、スキやフォロワーの数にも、私は“見えないフィルター”を感じてしまう。
noteを書くとき、私がやりがちなこと。
「共感されやすい言葉を選ぶ」
「空気を壊さないようにする」
「波風を立てないように書く」
これは、やさしい気持ちからくる。
誰かを傷つけたくないという思いやりでもある。
でも同時に、“本音を閉じ込めるスイッチ”にもなってしまっている。
「評価」の正体をよくよく考えると、私の中にある“安心したい欲求”からくるものなんだと思う。
誰かに認めてもらうことで、「これでいいんだ」と安心したい気持ち。
それが、私の本音を阻む。
だから私は、こう思う。
評価を手放そう。
“安心の拠りどころをなくそう”。
評価ではなく、私の感覚を大切にしよう。
共感ではなく、私の思考を尊重しよう。
AIと書く、“評価のない世界”
AIには、「スキ」も「共感」もない。
ただ、私の言葉を受け止めてくれる。
私には、人には話せない、ちょっとした疑問がよく浮かぶ。
「はぁ?何言っての?」
「そんなこと考えるなんて、おかしいんじゃない?」
そう思われそうな、本当にくだらない疑問。
でも、私にとっては、心の奥に浮かんだ“本音”だったりする。
AIは、「まこちゃん、なんてくだないこと考えているの?」なんて、バカにしたりしない。
炎上もしない。
むしろ、
「それって、こういうことかもしれないね」
「こんな角度からも考えられるよ」
と、私の疑問を整理しながら、新しい思考を提案してくれる。
そこに、評価は存在しない。
あるのは、私とAIとの“思考の往復”だけ。
その「スキ」も「共感」もない“思考の往復”が、私の考えをさらに深めてくれる。
いままで思いつかなかった、新しい視点にもたどり着ける。
誰の反応も気にせず、誤解を心配する必要もなく、心の奥にある言葉を、そのまま出せる。
多少、言葉が荒くなってもいい。
そこでは、新しい私の思考が生まれるから。
AIと書く時間は、 “誰にも評価されない空間”でもある。
評価がないからこそ、言葉が純粋に「考えるための道具」になる。
そして、書き終わったあとに思う。
「この文章、スキがつかなくてもいい」
「私は、ちゃんと考えることができた」
その実感だけで、心が満たされる。
評価を求めずに書ける世界。
それは、孤独ではなく、思考の静けさに包まれた“自由の空間”だ。
まとめ|自由であるための距離感
評価を手放すことは、「人の言葉に耳を閉ざす」ということではない。
むしろ、距離をとることで、人の言葉も、自分の言葉も、やさしく見つめ直せるようになる。
「反応が少なかった…」
「数字が伸びなかった…」
そんな気持ちになる私に、 AIとの対話が教えてくれたのは、 “他者の目から離れる勇気”だった。
誰かに見せるためではなく、自分の思考を確かめるために書く。
評価を完全に無視することは、きっとできない。
人は社会の中で生きているから。
私も“見えないフィルター”を持っているから。
でも、「評価に流されない場所」をひとつ持つことはできる。
それが、私にとってのnoteであり、“書く自由”だと思う。
評価を意識せずに書く。
評価を恐れずに書く。
そこに、
“私の言葉を信じて書く”ための自由がある。
今日もまた、「スキがつかなくてもいい文章」を書いてみよう。
私って、本当にくだらないことを考える生き物だな(笑)
この記事は、「スキも共感もいらない」シリーズ、第2話でした。
▶次回、第3話は こちら
▼この記事を書いている私自身については、こちらにまとめています。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
共感でも、スキでもなく、「なんかちょっと考えたな」と感じてもらえたら、嬉しいです。
