セクストン・ブレイク探偵ふたたび 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2022年4月に発行された、加藤朝鳥 訳『柬埔寨の月』(ヒラヤマ探偵文庫19)の巻末に掲載された「解説 セクストン・ブレイク探偵ふたたび」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。
※前回の記事「加藤朝鳥について」(2025年6月30日付)においては、加藤朝鳥の仕事や人柄について簡単に触れましたが、それをお読みになってから、以下の記事を読まれると、冒険探偵小説「柬埔寨の月」の意味がわかりやすくなると思います。よろしくお願いいたします。

セクストン・ブレイク・シリーズ
本巻に収録した「柬埔寨(カンボジア)の月」は、セクストン・ブレイク・シリーズの一つを、加藤朝鳥が翻訳した探偵小説である。『週刊朝日』1923(大正12)年1月1日号(3巻2号)から同年6月3日号(3巻25号)まで、23回にわたり掲載されていた。表題「柬埔寨の月」の後には、毎回「(探偵小説)」とあった。挿絵は、蕗谷虹兒とあった。
この初出には、原作者名がない。ただ「加藤朝鳥訳」というクレジットだけがあった。これは、当時の雑誌掲載の翻訳物(翻案)には、よく見られるパターンである。中には「○○○○訳」とも書いていなくて、訳者があたかも作者のように署名されているケースもあった。(下記の「柬埔寨の月」初回本文において、中央の挿画作者はその署名から古家新(ふるやあらた)と思われる。これは新年の挨拶を差し込んだからだろう。古家新については、拙稿「馬場孤蝶訳「林檎の種」と『週刊朝日』の探偵小説」を参照して欲しい。)

「柬埔寨の月」を読み始めると、最初は、登場人物マルコルム・グレーの物語なのかなと思うが、だんだんと、セクストン・ブレイク探偵が主人公である小説であることがわかってくる。しかし、当時の『週刊朝日』の読者にとっては、セクストン・ブレイク・シリーズの一つであることを知る人はほとんどいなかっただろう。加藤朝鳥が面白い海外の探偵小説を翻訳し、折からの探偵小説のブームに乗って掲載されているとしか映らないのだ。
セクストン・ブレイク探偵と言えば、イギリスではシャーロック・ホームズと並んで、皆に愛された物語上の名探偵である。セクストン・ブレイクがイギリスの探偵小説界にデビューしたのが、1893(明治26)年のことであり、ハリー・ブリス(Harry Blyth)の書いた「失踪した百万長者(The Missing Millionaire)」という冒険小説からであった。
その後、セクストン・ブレイクを主人公とした物語がさまざまな雑誌に書き継がれたのは、欧米の探偵小説好きの人々にはよく知られている。1970年代後半まで、200~300人の作家たちによる4000あまりの物語が生まれていた。一人の作家が紡ぎ出す名探偵の物語ではなく、数多くの作家たちによって創作された探偵物語だったのであり、そこにセクストン・ブレイクシリーズの特徴があるといえるだろう。さらに、それらの物語を原作にして映画やラジオドラマ、テレビドラマも制作されて人気を博していた。また、イギリス以外の国でも、たくさんの作品が翻訳、出版されていた。
ちなみに、SF界でいえば、「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズが思い出される。1960年代にドイツで始まった、複数の小説家によるリレーSF小説である。セクストン・ブレイクシリーズは、これと同じタイプの探偵小説シリーズだった。ある意味で、ペリー・ローダンシリーズは、セクストン・ブレイクシリーズにおける手法の面白さを踏襲しているといえるかもしれない。
日本では、1920(大正9)年に創刊されたばかりの探偵小説雑誌『新青年』に、セクストン・ブレイク探偵の写真小説として、「沈黙の塔」「銭の幽霊」「宝冠の行衛」「謎の信号」「巨像の腕」「俳優の失踪」などが翻訳、掲載されていた。これらは1920年の一年間で訳された作品である。『新青年』は雑誌の目玉の一つに、翻訳探偵小説の掲載を挙げていたのであるが、この事実を見ても、当時は、探偵小説としてのセクストン・ブレイクシリーズが注目されていたことがわかる。
これは、前年の1919(大正8)年5月に真珠書房から『世界名探偵捕物帳第一編 セクストン・ブレーク』(最上野草訳)が発行されていたことが、もしかしたら関係しているのかもしれない。ここには英国アンサー誌掲載のセクストン・ブレイク探偵物語が十編翻訳掲載されていた。その面白さに目をつけた『新青年』編集主幹の森下雨村が、『新青年』に他のブレイク作品を載せたことが考えられるだろう。翻訳者の「最上野草」は、西条八十と言われている。『新青年』編集長の森下雨村と同じ、早稲田大学英文科の出身であった。
一方、雨村はこの時期、セクストン・ブレイク探偵ものとして、『中学世界』1921(大正10)年4月から10月号にわたって、「謎の無線電信」という作品を翻訳連載していた。「謎の無線電信」は、ヒラヤマ探偵文庫21として2022年5月に発行している。詳しくは、こちら。
ところで、『柬埔寨の月』は、原作者名がわからなかったのであるが、調査の結果、ウィリアム・マレー・グレイドン(William Murray Graydon)であることが判明した。原作名は、「Lost in Cambodia ; or , The Case of the Photograph Collector」(”The Sexton Blake Library Ser.1” No . 257 , October 1922)であった。この初出雑誌は、1922(大正11)年10月の発行であるので、翻訳者の加藤朝鳥は原作が出版されて、すぐ手に入れ、『週刊朝日』連載のために訳し始めたと考えられる。
原作が掲載されている”The Sexton Blake Library”というペーパーバックは、前述したように、たくさんの作家たちが書いたセクストン・ブレイク探偵の冒険活劇を集めて載せたシリーズものである。この号を入手してみると、どこにも原作者名が見当たらない。見落としている可能性もあるかもしれない。しかし、逆に言えば、原作者名よりも物語そのものを重視していたペーパーバックの編集構成が考えられるだろう。
翻訳者の加藤朝鳥も、「Lost in Cambodia」掲載号に原作者名を見つけることができず、それゆえ、その名前を記さずに、訳者としての自分の名前だけをクレジットしたのではないだろうか。

ウィリアム・マレー・グレイドンとは?
原作者のウィリアム・マレー・グレイドンは、どのような人物だったのであろうか。Georges Dodds "William Murray Graydon: A Brief Biography" を参考にして、簡単に述べてみたい。
ウィリアム・マレー・グレイドンは、アメリカ合衆国ペンシルバニア州ハリスバーグで、1864年2月に生まれた。一人息子であり、父はヘンリー・マレー・グレイドン、弁護士であったそうだ。
ウィリアム・マレー・グレイドンは若い頃、ハリスバーグ・アカデミーで七年間過ごしている。1886年には、パール・エレン・バルスリーと結婚。1887年にハリスバーグ・ナショナル・バンクの事務員として働いているとき、彼のカヌーや釣り、キャンプなどの田舎での冒険を描いた物語が、地元の新聞などに掲載されることになった。十代の頃から、キャンプや釣り、カヌー、ハイキングなどに積極的に参加していたグレイドンは、そのアウトドア経験を活かして小説を書いたといわれていた。ペンシルバニアの大自然、特に河川が、彼の作品に重要な役割を果たしていたという指摘もあった。
その後、"The Argosy"や"Philadelphia Times"、ほかにも"Golden Days"などの雑誌、新聞、ストーリーペーパーなどに彼の作品が掲載され、人気を博した。特に"Christian Union"や"Outlook"などの雑誌、週刊誌などに寄稿した物語の成功に押されて、作家専業への道を選ぶことになったらしい。
1890年代の初め、 ウィリアム・マレー・グレイドンは、アウトドア小説から離れて、海外の歴史的な冒険物語や小説を寄稿するようになっていた。
1896年頃には、イギリスに永住しようと計画を立てており、1898年の初めには、実際、イギリスに居を構えたようである。1900年には、父が亡くなり、グレイドンは多額の遺産を受け取った。
イギリスでのグレイドンの最初の出版物は、1890年代後半の"Henderson's Budget Story Book"シリーズであった。1900年代になると、"The Boy's Friends"などの雑誌に掲載された短編小説が多くなった。1910年代から、彼はディクタフォンを使って、作品の制作時間を短くしていったといわれている。
そのようなグレイドンであったが、やはりイギリスでグレイドンと言えば、セクストン・ブレイク・シリーズへの貢献が最も知られている。彼は、このシリーズに多くの作品を残した小説家二、三人のうちの一人であった。最初にブレイクを描いた小説は、"Trapped by Sexton Blake"で、1905年1月に"Union Jack"誌に掲載されたものである。最後の作品"The Crime of Convict"は1930年10月に『Sexton Blake Library』誌に発表されていた。途中の1928年には、ブレイクの小説を百冊出版したという偉業を成し遂げていた。
しかし、グレイドンは、1930年代初頭に作家活動を引退してしまった。それ以前からフランスのパリに滞在していて、そこで酒と女に溺れていたという話もあったのだ。1940年代に入ると、コーンウオールに住み、妻のパールが亡くなり、彼自身も重い病気にかかってしまった。しかし、ある程度は回復したようで、娘が来て世話をしてくれていたようだ。しかし、晩年はベッドから離れることはなかった。1946年4月、彼は82歳の生涯を閉じている。
加藤朝鳥と「柬埔寨の月」
「柬埔寨の月」は、ラブストーリーを盛り込んだ冒険探偵活劇に属している物語だといえるだろう。ロンドンとカンボジアを舞台として、それぞれの場所を活かしている内容をもつ。しかし、ストーリーの流れを重視するあまり、ご都合主義の点も多い。
加藤朝鳥の訳は、いわゆる「超訳」と呼ばれるもので、原文をそのまま訳しているわけではない。原文の省略もあり、「創訳」をしているところもある。たとえば、作品原作冒頭の文は、どうなっているのであろうか。
THE PROLOGUE
At the Hotel jardin - The Dream City of Cambodia - In the Palace Courtyard - The Daring Lovers - Vows of Fidelity - Malcolm Grey Departs for the Coast.
In a small bedchamber on the ground floor of the Hotel Jardin, in the Rue d’Orient , Pnom Penh , sat in a basket chair , With his legs stretched on another , a tall and handsome young Englishman of about thirty , with bronzed features and a fair moustache, and a jaw that markeda strong and masterful character.
最初に、太字で「プロローグ」という章名があり、その章のトピックが示されている。その後から物語が始まっていた。
これに対して、朝鳥の訳は、以下のようである。
第一回
ここは柬埔寨の旧都プノンペン。その第一流の旅館ホテル・ジャルダンの一室で、涼しそうな寝台の側に籐の寝椅子に身をもたせて、独り物思いに沈む若い英国紳士がある。背が高く顔は美しく、ブロンドの髪、ととのえた髭、年齢は三十歳前後で、どうみても強い凛とした性格の持主である。
プロローグを「第一回」にしたり、トピックを省くのは、『週刊朝日』の編集上、仕方のないことだろう。内容は、旅行文学者マルコルム・グレーの紹介なのであるが、原文に比べて、彼の現在の状況を具体的に説明するような翻訳になっている。また、「柬埔寨の旧都」の「第一流」のホテルに滞在していることも付け足されている。つまり、ストーリーに沿った登場人物の現在を伝えるための「創訳」になっているのだ。
しかし、このような訳は、カンボジアのような東南アジアの国を訪れたことがないと、その雰囲気を読者にうまく伝えることが難しいかもしれない。その点、加藤朝鳥は、1920年9月から約一年間ジャワで過ごしていたので、うってつけだったのではないか。朝鳥は、『爪哇(ジャワ)日報』の主筆として、インドネシアのジャワに渡っていたのである。加藤朝鳥の生涯については、前回記事の「加藤朝鳥について」を参照してほしい。
加藤朝鳥が「柬埔寨の月」を訳したのは、翻訳を頼まれたからだけでなく、もう一度、南国の雰囲気に触れたかったかもしれないのである。スピード感あふれる彼の翻訳で、セクストン・ブレイク探偵の活躍するエキゾチックな世界を味わってもらいたい。

【参考文献】
・ミステリ推理小説データベース aga-search
・Georges Dodds " William Murray Graydon : A Brief Biography "
(McGill University , December 2012)
・Georges Dodds " Bibliography of William Murray Graydon's Works, Part 2 "
(McGill University , March 2013)
※Web上で、加藤朝鳥訳『柬埔寨の月』を読まれての感想がありました。
ありがとうございます。気がついた記事を以下に貼っておきます。
※申し訳ございませんが、『柬埔寨の月』は、版元品切れのため販売されておりません。よろしくお願いします。
