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水俣病から考える「安全に食べられる」ということ

水俣病の番組がやっていて、
気になって何気なく見ていたんです。

すると…

「もういろんなことがありすぎて、大変だったよ。」


聞こえてきたその一言に、私は思わずリモコンを置き、画面に見入っていました。

話していたのは、94歳の男性。

水俣病で妻を亡くし、自身も水俣病に認定されていて、なんと今も現役のタコの漁師さんでした。



水俣病といえば、子どもの頃、社会の授業で習いました。

「日本の四大公害病の一つ」。

正直に言うと、そのくらいの認識だったように思います。

でも、大人になって出会った一人の漁師さんの人生は、「公害」という一言ではとても片づけられないものでした。

管理栄養士になって、食に関わるなかで水俣病について考えることはとても意味のあることのように感じました。

今回は、そのことについて少しでも皆さんにお届けできればと思ったので、記事にしてみます。

普段食べている食べ物について思い出しながら読んでいただければ幸いです。



94歳現役のタコ漁師さんの想い


男性は、今もおしゃれをして出かけます。

手足のしびれや震えを抱えながらも、
「やってやれないことはない」と笑います。

30年連れ添った船が故障してしまい手放すことになっても、なおタコ漁を続ける道を選んでいました。

そして、こんな言葉を口にしたのです。

「だめだと分かっていたけど、魚を獲って売った。子どもを育てないといけなかったから。」

胸がぎゅっとなりました。

もし、自分が同じ立場だったら。

家族を養うために、同じことをしなかったと言い切れるだろうか、と。



「公害」という言葉の裏にある、複雑な真実

水俣病について調べていくと、単純な善悪では語れない出来事ということがわかりました。


被害を受けた人がいる。

一方で、原因となった会社は町を支える大きな存在でもありました。

家族や親戚がその会社で働いていた人も少なくなかったそうです。

だから、会社を責めることが、自分の家族や地域を苦しめることにつながってしまう。

「被害を受けながら、その会社に生活を支えられている」

という、とても苦しい状況だったのです。

まさに水俣病の核心の一つだと思います。

そして、その中で多くの人が「どちらか一方だけを責めきれない」苦しさを何十年も抱えて生きてこられたのです。

そんな複雑な現実があったことを、
今回初めて深く知りました。

公害には、感染症のように被害者だけがいるのではなく、そこには加害者となる相手がいる。

だから、問題がかなり複雑になるんですよね。




食べる当たり前が失われた時


そして、管理栄養士として、もう一つ考えさせられたことがあります。

私たちは普段、「食べることは健康につながる」とお伝えしています。


もちろん、それはとても大切なことです。

でも、水俣病は、「食べる」という当たり前が、人々の健康や人生を大きく変えてしまった悲しい歴史でした。

海の魚は悪くありません。

食べることも悪くありません。

でも、水俣病では魚を安心して食べることができなくなり、漁業そのものも長い間大きな打撃を受けました。



水俣病の難しさ

1956年、水俣病は「原因不明の神経疾患」として
公式確認されました。

しかし、原因究明や工場排水の停止までには長い年月がかかってしまったんです。

水俣湾の安全宣言がだされたのが、1997年。

本格的な漁獲の自粛や操業禁止が始まった1974年から、漁が再開されるまでには24年もの年月がかかりました。



私は、最初から有害な水銀を使い、工場から流されていたのだと思っていました。

ところが、無害の無機水銀を流したつもりが、チッソ水俣工場内で化学変化(メチル化)が起きて、有害なメチル水銀に変化して、海へ排出されてしまっていたんです。

当時はその仕組みが十分に解明されておらず、原因の特定や責任の認定に時間がかかったという背景もあったようです。


1968年、国が正式に、「チッソの工場排水が原因」と認めました。

これで、公式に企業責任が明確になりました。

しかし、この時点でもすべての被害者が救済されたわけではありませんでした。

このことから、「安全に食べられる」ということは、決して当たり前ではないと考えさせられました…



水俣病にとって重要な2004年

2004年の関西訴訟最高裁判決で、初めて最高裁が、

「国と熊本県にも責任がある」

と明確に認めました。

つまり、

「もっと早く対策を取れたのに、取らなかった」

という行政の責任が司法によって確定したのです。


病気そのものの苦しみだけでなく、救済までに何十年もかかったことが、さらに人々を苦しめた。

という側面があります。


そして、水俣病は今も終わっていません。

一度傷ついた神経は元に戻らないことが多く、今も治療や補償、認定をめぐる問題が続いています。


私が「いろんな面で遅すぎるのではないか」と感じたことは、とても自然な感覚だとわかりました…


水俣病は単なる公害の歴史ではなく、

「被害を受けた人を、社会はどれだけ早く、どれだけ公平に救えるのか」

という、日本全体への問いでもありますよね。



現在、水銀排出は…?


「魚の水銀量が気になる」という話を、テレビで耳にした方もいらっしゃるかもしれませんね。

私も気になっていました。


どうやら、自然界にも微量の水銀が存在するようです。

妊娠中は、お腹の赤ちゃんの神経の発達への影響を考えて、マグロなど一部の魚について摂取量の目安が設けられています。

健康な大人の場合は、少しずつ体外に排出できるので、毎日何十年もマグロを食べるなどでない限り問題ないとのこと。

基準を大きく超えるような危険な魚が流通しないよう国による厳しいチェックもされています🙂‍↕️



世界の水銀事情はどうなってる?

世界に目を向けると、2017年に環境省などが主導した国際条約「水銀に関する水俣条約」が発効されました。

そのため、現在ではかつてのように工場排水として水銀がそのまま垂れ流されている場所は、日本にも世界にも表向きはないようです。


しかし、法律の目が届かない場所で以下の2つの原因による汚染が現在も続いています。

・違法な小規模金採掘(南米・アフリカ・東南アジアなど)
・石炭火力発電所からの大気排出


このように、現代は「一つの大企業が堂々と排水を流す」時代は終わりましたが、見えにくく解決が難しい水銀汚染と世界は戦っている最中なのです。



最後に


実は、海は私にとって特別な場所です。

海のそばで育ち、両親も海に関わる仕事をしていました。

子どもの頃、食卓にはいつも魚がありました。

海は、私にとって「食べること」と「生きること」がつながっている場所でした。

だからこそ、魚を安心して食べられなくなるという出来事が、どれほど深い傷を残したのかを思うと、胸が締めつけられます。


海とともに生きてきた94歳の漁師さんの言葉が、今も胸に残っています。


「それでも、乗り越えていくのが一人一人の性分たい」


明日も私は、きっと魚を食べるでしょう。


その一口の向こうには、長い歴史があり、
多くの人の暮らしや願いがあります。

このことを忘れずに、今日も静かに
「いただきます」と言いたいと思うのです😌



食が教えてくれた人生の物語|シリーズ


私は管理栄養士として、栄養だけではなく、人の人生と「食」との関わりにも心を動かされてきました。

食べることは、栄養を摂るだけではありません。

そこには、人の生き方や時代、喜びや悲しみが映し出されています。

このシリーズでは、さまざまな人の人生を通して、「食べること」の意味を考えています。

よろしければ、こちらも読んでいただけるとうれしいです😌


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