『地獄まで愛してⅡ』第5話|秘密を知る女、恐れる女、そして無実の男
『お前の秘密を知っている……』
その緑の吹き出しメッセージをもう一度見て、画面を閉じた。
その時、
「あの……山内麗華さんですよね?」 声をかけられて顔を上げると、小洒落た四十前後の主婦が一人、こちらのテーブルを伺うように数歩先に立っていた。遠慮がちな視線が、どこか刺さるようにこちらを見つめている。
「やっぱり!すっごい綺麗! SNSフォローしてます! クリームも買いました!」
そう言って、手持ちのヴィトンのバッグからクリームを取り出し、麗華に見せる。
写真を一緒に、と頼まれたが丁寧に断り、握手だけして、まだ半分以上残っていたアイスラテを置いたまま、逃げるようにカフェを出た。
「麗華さん、自分が思っている以上に有名なんですから、外に出る時は意識してくださいね。美白クリームの“顔”なんですから。あと、気軽に変な格好で写真に映らないように」
莉央からはいつもそう注意されている。
というのも、麗華の好む格好が、彼女のプロデュースするイメージと合わないらしい。
麗華は、花柄や小さなパターンのふんわりしたワンピースを好んで着ていたが、莉央は、それらを「銀座でランチばかりしている暇な奥様の格好」と小馬鹿にして、メディア用にはハイブランドのモノトーンの細身セットアップを用意してくる。
確かに莉央のスタイリングは、麗華を“夫の財力にぶら下がっている暇な主婦”から“デキる女”へと仕立て上げてくれる。
だが麗華にとっては、それがまるで別人のようで、どうにも落ち着かなかった。
莉央と会わない日は、クローゼットの奥に追いやられ、着るのを禁止されている昔の服を、内緒で引っ張り出して着ていた。
こんな格好で写真を撮られたら、さぞ怒られるだろう。
何しろ、小花が散りばめられたシフォンのフレアスカートに、レースのフリルのブラウスなのだから。
――気軽にコーヒーすら飲めやしない。
そう思うと、息苦しさすら感じた。
せっかくの久しぶりの休みだったのに、あのメッセージが頭から離れない。家でじっとしていられず、かといって何かをする気にもなれず、結局、近所のカフェで手持ち無沙汰に携帯をいじっていた。
日傘を差しながらマンションまでの数ブロックを歩きつつ、また思い返す。
――あのことを知ってる人間なんて、いるわけないわ。いつもの嫉妬よね。
そう言い聞かせる。
実際、太郎の死後、メディア露出が増えてから、酷いメッセージは山ほど届くようになった。
その一つに違いない。
でも——なぜ携帯の番号を知っているのかしら。
***
「私、あの娘、嫌いだわ」
太郎に後ろから抱かれていた麗華は、身体の向きを変え、太郎の胸に頭を埋めながら言った。
太郎は軽く笑い、
「まあ、ちょうど生意気盛りの年だからな。麗華もそうだったろう? 莉央は良い子だよ。生まれた時から知ってるんだ。年の功で大きく構えてやればいいさ。あの娘はほんとに頭がキレる。陽も少し刺激もらえたらいいんだが。全く困ったやつだ……」
と優しく笑いながら、麗華の頭を優しく撫でた。
麗華を年寄り扱いする物言いにカチンときたが、まあ、そうだろう。
なにしろ、莉央はまだ二十六歳。麗華の娘でもおかしくない年齢だ。
莉央の祖父が代表を務める大川グループから莫大な献金を受けている太郎が、莉央を贔屓するのは当然だった。
それに加えてモデル並みの容姿なら、なおさらだ。
***
――義父の太郎ですら、陽が俊介さんの息子、自分の孫だと信じきっていた。他に知っている人間なんて、誰一人いない。
そう言い聞かせると、気分が少し軽くなり、近くのスーパーまで足を伸ばすことにした。
――陽は今日、帰ってくるのかしら。
そういえば、ここしばらく陽を見ていない。
――あの子の好きなスイカでも買っておこうかしら。でも重いわね。
そう考えていると、すれ違ったアラフォーの主婦らしき二人組が、
「あれ、山内麗華よ」
と後ろで囁くのが耳に入った。
***
キーボードを打つ手を止め、「う〜ん」と、大きく伸びをすると、
引き出しを開け、もう一つの携帯を取り出した。
ロックを外し、写真フォルダを開くと、陽の写真が並んでいた。
莉央がライブで撮った写真、メディアからのスクショ、横顔の細い顎の線、ギターを弾く細く長い指のアップ。
その一枚一枚を、莉央は愛おしそうに見つめる。
「なんで好きになっちゃったんだろ」
思わず声が漏れ、はっとして周りを見回す。
今、この青山のオフィスにいるのは自分だけなのに、その自意識過剰さに笑ってしまう。
でも——絶対、他人にバレたらダメ。
相手はまだ二十の子供だ。
そんな子に恋愛感情を抱いているなんて。
写真をめくるうちに、学生服姿の陽の写真が出てきた。
莉央の父の葬儀の時の写真だ。
三年前、陽はまだ高校二年。
留学中でNYから飛んで帰ってきた莉央の髪は肩までで、たった数年前なのに、今よりずっと幼く見える。
――そう、こんな時から私は陽君を知っている……。
***
「ね、莉央さん、ちょっと休憩しない? 紅茶でも飲みましょうよ」
――はあ、また休憩? この人、本当にやる気あるのかしら。
そう思いながらも、
「ええ、いただきます」
と出来る限りの作り笑いを返す。
ずっと主婦だったことは分かっていたから、ある程度は覚悟していたが、それでも莉央の想像以上に飲み込みが悪く、予定は大幅に遅れていた。
内心苛ついていたが、ここで麗華に機嫌を損ねられては困るし、何より太郎に悪口を言われては困る。
この美白クリームを成功させるには太郎の後ろ盾が必要だったし、麗華と太郎がそういう関係にあることも、莉央はとっくに気づいていた。
明日の昼までに、麗華に商品のコンセプト、製造過程、ローンチまでの物語を覚えさせなければならない。
紅茶を飲んだら、少し厳しくしよう。
麗華は、そんな莉央の苛立ちなど露ほども知らず、
鼻歌まじりにキッチンで紅茶の準備をしていた。
趣味の悪い花柄のフレアスカートの裾が揺れているのが、ソファからちらりと見えた。
――この人、根っからの主婦なんだわ。やだやだ。
その瞬間だった。
細くて背の高い陽が、「ただいま」と小さく言いながら、黒いギターケースを担いでリビングに入ってきた。
その声を聞きつけ、麗華がキッチンから顔を出す。
「あら、今日は早いのね、珍しい。今、莉央さんいらっしゃってるの。大川さんのお孫さん。NYから帰ってこられて。話したでしょ? ママ、莉央さんのプロデュースで美白クリーム出すのよ。明日、初めての取材なの。あー緊張しちゃう」
陽は一瞬足を止めたが、ソファに座ることもなく、関心なさそうに、
「どうも。お久しぶりです」
と軽く会釈してリビングを出ていった。
「や〜ね。ほんと愛想ないんだから。一緒にお茶でも飲んでけばいいのに。莉央さん、ごめんなさいね」
麗華は不満そうに頭を振り、お湯の沸く音に慌てて台所へ戻っていった。
「いいえ、お気になさらず……」
莉央の胸はなぜか大きく高鳴り、伏せた顔は僅かに赤らんでいた。
***
『お前の秘密を知っている』
そう打つと、送信ボタンを押して、デスクの引き出しに戻した。
――さ、もうちょっと頑張ろ。
PCのキーを軽く叩き、書きかけのプレスリリースの仕上げに取りかかった。
ーーつづく
