『地獄まで愛してⅡ』第4話|シャドウ・イン・ザ・パーク—追われる男—
「気をつけて帰れよ〜!」
公園を出たところで、ひょいとタクシーに乗り込む陽の後ろ姿を見届け、透はベンチにごろりと横になった。
――なかなか良い奴だったな。
図らずも今夜、あいつと話すことになるなんて。
久しぶりに胸の興奮がおさまらない。
まるで、ライブを終えた夜みたいだ。
――音楽の趣味もなかなかいいし。
パンツのポケットに手を入れ、陽が番号を書き殴ったレシートが入っているのを確認すると、右手を頭の下に引き寄せて枕代わりにし、左手で目の上を覆って街灯の光を遮った。
横になった途端、どっと疲労が全身を襲い、透は一瞬で眠りに落ちた。
数日前に池袋のネカフェを出てから、公園を転々とする夜が続いていたのだ。
ジョージョー。
顔に生温かい液体がかかり、透は顔を振って目を開けた。
思わず開けた口に、しょっぱくて生臭い液体が流れ込んでくる。
「おい、透ちゃんよ。ずいぶん楽しそうだったな」
スキンヘッドのいかつい中年男が、透を見下ろしながら顔をめがけて排尿していた。
右頬には十センチほどの縦長の傷跡。
そして、いつもなぜか、爪楊枝を噛んでいる。
足元には透のキャリーバッグが無惨に広げられ、汗の染み込んだ服がそこら中に散らばっていた。
透が慌てて飛び起きると、男は構わず足元に尿をかけ続け、やがてズボンに収めてファスナーを閉めた。
「久しぶりだな。随分探したぞ。
……あれ、山内太郎の孫だろ?随分、親しげだったじゃねえか。
ま、そんなことよりだ。五百万、どこやった?」
思いがけない来客に、頭が真っ白になる。
「……なんの話だか、わかりません」
透の声は、情けないほど震えていた。
男は透の隣にどかっと足を広げて座り込み、散らばった服を蹴飛ばすと、右手を透の肩に回した。
「透ちゃんさ、あんまりそういう舐めた真似はしないほうがいいと思うぞ」
やけに優しく耳元で囁くと、爪楊枝の先が透の頬をつついた。
「いやあ、本当に何のことやら……」
この男は琢磨龍。
偽名だろうが、界隈では「龍さん」と恐れられている。
数年前、歌舞伎町の公園で寝泊まりしていた時、「仕事、やるか?」と声をかけられて以来、定期的に仕事をもらっていた。
依頼の内容はその時々で違ったが、手口はいつも同じだった。
シグナルに場所と時間が届く。
指示された場所へ行くと、龍の手下が待ち構えていて、現場の住所が書かれたメモを渡される。
その場で口頭で指示を受ける。
指定された場所で仕事を済ませ、証拠の写真を撮る。
そしてもう一度、手下との待ち合わせ場所へ戻り、写真を見せて報酬の封筒を受け取る――。
ざっとこんな感じだ。
ただ、あの日は少し違った。
その日、命じられた仕事は、血まみれの部屋を片付けるという比較的簡単なものだった。
「よかった、今日は楽だな」
夜十時に郊外のアパートへ向かい、粛々と掃除を始めた。
手慣れた作業で片付けを終え、写真を撮り、数百メートル先の自販機で待つ龍の手下のもとへ戻ろうとした時、台所のシンク下の扉が細く開いていることに気がついた。
――そこは血が飛んでなさそうだし、掃除の必要はねえか。アパートの明け渡しじゃねえしな。
ゴミの入った黒いビニール袋を二つ抱えて去ろうとしたが、なぜか胸騒ぎがして、袋を床に下ろした。
シンクの扉を開けると、そこには糠漬け用のクリーム色のバケツが、ひとつだけ置かれている。
――なんだこれ?
変な虫でも出てこないかと、恐る恐る蓋を開けると、百万円の札束が五つ、無造作に放り込まれていた。
――おいおい、なんだこれは。
透は札束を手にしたまま、暗闇の中でしばらく固まっていた。
***
「五百万は知らねえってのか? ふ〜ん。なら、なんであの日、金も受け取りに来ないでバックれたんだ? と・お・るちゃんよ。うん? 理由を言ってみ?」
スキンヘッドの生臭い息を避けるように顔を背けながら、透はかすれた声で答えた。
「あー……その、こういう世界から足を洗いたくなったんです。急に消えてすみません。でも、本当に五百万なんて……」
男の尿が細い川を作ってゆっくりと流れている地面を見ながら、絞り出した言葉だった。
すると、スキンヘッドの男はいきなり立ち上がり、透の左耳の耳たぶを力任せに引っ張り上げた。
「イタッ……! 痛いっす、離してください!」
耳たぶがちぎれる恐怖に、透は腰を浮かせながら呻く。
もう一段、グイと強く引っ張った後、男はパッと手を離した。
ドサリと地面に転がった透が耳を抱えてうずくまると、スキンヘッドは容赦なく透の腹を蹴り上げた。
尿がダムのように溜まった土へ、右の頬がめり込んだ。
男は膝を折り、透の顔に自分の顔を近づけて、生臭い息を吐きつける。
「そうか、そうだよな。お前が五百万なんて知ってるわけねえよな。
いいよ、いいよ。その金は忘れてやるよ。
代わりに一千万、あの金持ちの兄ちゃんからもらってこい。
一週間くれてやる。
一週間後、真夜中、ここに持ってこい。
……いいな」
言い捨てると、もう一度、容赦なく横腹を蹴り上げた。
「いいか、あんまり舐めるなよ。お前一人くらい、簡単にどうにでもできるんだからな」
ドスの効いた声で言い放つと、最後に痰を吐きかけ、男は公園から去っていった。
――畜生……。
スキンヘッドの姿が消えた公園で、透は大の字になったまま、月の光を浴びて震えていた。
ーーつづく
