『地獄まで愛してⅡ』第7話|つけてきた男と夕日に乾杯
「陽くん〜!」
マンションの入り口で背中を体当たりされ、陽はイヤホンを落としそうになった。透に言われてから、ここ最近はいつもベン・ハーパーを聴いている。透と昼過ぎに会っていた公園から約10キロの道のりだったが、この暑さの中でも歩いて帰りたい気分だった。
汗ばんだ陽の腕に、ひやりと冷たい莉央の白い手が絡みついた。ボディタッチの多い莉央が、陽は苦手だった。「NYではそれが当たり前」だとか言っていた気がする。あからさまに莉央の手を振り払うと、莉央は陽の顔を覗き込んで無邪気に笑って言う。
「そんな、照れなくてもいいじゃない」
――この人は、自分を苦手に思う人間が世の中に存在するなんて、思ったこともないんだろうな。
どんなに暑い日でも背中まで垂らしている長い黒髪も、陽は苦手だった。微かに漂う香水の甘い匂いも、この暑さの中では息苦しい。
「いや……」
照れてるんじゃない、と言おうとして言葉を飲み込んだ。この人に何を言っても無駄だ。彼女は自分の魅力に絶対の自信を持っているのだから。実際、陽のバンド仲間はライブを見に来た莉央を見て「紹介してくれ」とうるさかったし、世間一般から見ればかなりの美人なのだろう。しかし陽は、いつでも異性の視線を気にしている女が苦手だった。自分の母親・麗華を含めて。
軽く会釈してマンションのホールに入ると、ひんやりとした冷房の空気が陽の汗を一瞬で冷やした。莉央は執拗に追ってくる。華奢な肩に大きなバッグを抱えていたが、持ってあげる気にはなれなかった。
エレベーターホールには誰もいない。陽は仕方なくヘッドホンをケースにしまい、莉央と言葉を交わすことにした。
「これから麗華さんと明日の衣装の打ち合わせなの。陽くん、今夜の予定は?」
大きなバッグの中には、明日のインタビューで麗華に着せる予定の服が入っているらしい。
「いや、特に……」
とだけ答えると、莉央は目を輝かせた。
「ちょうどよかった! なら、インタビュアーのロールプレイをしてくれない? 私は黙って見ているから。私がやると、麗華さんが全然覚えようとしないから困ってるの」
莉央がまたベタベタと腕に触れてくる。
――ウザいな。
返事もせず視線を外して黙っていると、エレベーターが陽の階に到着した。一応、莉央を先に降りるよう促すと、彼女は可愛らしい笑顔を浮かべた。
カードキーでマンションの扉を開けると、花柄とフリルをあしらった大袈裟なエプロンをつけた麗華がすぐに出てきた。莉央が来るので夕食でも用意していたらしい。
「あら、陽も帰ってきたの?」
一緒に帰宅したことに驚いた様子だった。
「今、下で偶然会ったんです。ね?」
と、また莉央は陽の背中に軽く触れて言う。その手つきを麗華はチラッと見ていたが、すぐに満面の笑顔を作った。
「ちょうどよかったわ。シチューをたくさん作ったから、久しぶりにみんなで食べましょう!」
手を合わせて、麗華はまた大袈裟に喜んだふりをする。莉央も顔を輝かせるが、陽は無愛想に言い放った。
「いや、俺、腹減ってないから」
軽く莉央にだけ会釈して、自分の部屋に逃げ込む。
――あんな女たちと飯なんか食いたくねえや。
炎天下の中、10キロも歩き続けて、本当はかなりの空腹だった。部屋に入り、リュックを下ろすと、電話と財布、ヘッドホンだけを持って再び外へ出ることにした。
「ちょっと、陽、また出かけるの?」
ダイニングテーブルに皿を並べている麗華が、やや不満げに言う。莉央のがっかりした視線も、背中に刺さる。「うん」とだけ言い捨ててマンションの外へ出ると、ようやくホッと息をついた。
――そろそろ一人暮らしでもするかな。
あの怪しい美白クリームの計画が始まる前までは、麗華とほとんど顔を合わせることもなく、一人暮らしの必要性を感じなかった。だが、最近の莉央の訪問の多さにはげんなりする。勝手に親しみを感じられているのか、麗華が教えたらしく、陽の携帯にもよくメッセージが届く。大体無視しているが。
駅近のファミレスにでも行くかと思い歩き出したが、ベン・ハーパーの曲にまだ浸っていたいと思い、行き先を川辺に変えて、Uターンした時だった。スキンヘッドの男が、慌てて道の横に避けるのに気がついた。
――やっぱり、あの男。公園からずっとついてきてるんだ。
公園を出た時から、このスキンヘッドの男が後を追ってきていることには気づいていた。マンションに入れば諦めるかと思ったが、まだ張り付いていたらしい。この閑静な住宅街で、半袖の派手なアロハ風シャツとダボダボのパンツに身を包んだ大柄なスキンヘッドは、かなり目立つ。透と同じく黒いサングラスをかけ、右頬には長い傷の跡がある。
――透さんといい、この男といい、分かりやすい人たちだな。
道路の端でわざとらしく携帯をいじりながら顔を隠している男に近づく。
「ずっと、つけてきてますよね? 透さんの知り合いですか?」
不意を突かれたはずみに、男は口に咥えていた楊枝を落とした。
「えっ?」
「公園からずっと。気づいていましたよ」
「まいったなあ。バレてたか」
男は動揺し、何を話していいか分からない様子だ。
「この先の土手のベンチで夕日でも見ようかと思っていたんですけど、一緒に来ませんか? あそこのコンビニでビールでも買って。僕もあなたに聞きたいことがあるし」
想定外の展開に、男はかなり狼狽えているらしく、身体を揺らしながら右手でスキンヘッドを何度も忙しなくなでつけている。その時、グゥと、男の腹が口よりも先に声を上げた。腹が減っているのは、陽だけではなさそうだ。
「え? あっ、そう? 俺に聞きたいこと? そうか、うん。じゃあ、そうしようか。ちょっと歩きすぎて疲れたしな」
と、スキンヘッドの男はへへぇっと照れ隠しに笑い、自分の太ももを軽く叩いた。
「じゃあ、行きますか。あ、俺、山内陽といいます。そうだ、どうせならコンビニじゃなくて、そこのバーガーショップでテイクアウトします? 結構いけますよ。俺、奢ります」
角の洒落たバーガーショップを指さすと、男はいつの間にか新しい楊枝を口に咥え直して笑った。
「お、おう! いいな、乗った! 俺、龍っていうんだ。ちょっとした有名人なんだぜ。その界隈じゃ」
――なんか、面白そうだな。
バーガー屋に足を踏み入れた陽の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
ーーつづく
