見出し画像

「問うな、問われてる」 ~辛い時こそ、自分に矢印を向ける~

表題の「問うな、問われてる」は現在JFLで奮闘するサッカーチーム・クリアソン新宿の言葉です(意味は後ほど)。

また、当社社長の澤田は常に「人を指さすな。自分に矢印を向けろ」と言い続けており、この二つは本質的に同じ意味だと理解していますし、強く共感しています。

一方、社会人として不可欠な「当事者意識」が強まれば強まるほど、これを維持することが難しくなると感じており、実際に私はこの1年弱、自分に矢印を向けられずに苦しんでいました。

この「当事者意識」と「問わない」は矛盾しているのか、していないのか。矛盾し得る時はどうしたらよいのか。今回は、そんな内容について綴ってみたいと思います。

「問うな、問われてる」とは

私がこの言葉を知ったのは、2年前にクリアソン新宿が主催した人事合宿の時で、同社の剣持COOから教えていただきました。

豊かに生きていくための本質を貫いており、且つ、説明を受けずとも意味の伝わるこの言葉は本当に素晴らしく、今日まで自分の中の大切な言葉として位置付けてきました。

この言葉が生まれた背景や詳細は以下の井筒さんのnote記事を読んでいただければと思いますが、この言葉を生んだ成山監督の言葉だけここに引用します。

「ハードな試合になってくると、相手チームに『ファールじゃないか』と、審判に『ちゃんと見ているか』と『問う』ことをしたくなるだろう。しかしCriacao Shinjuku の選手は、絶対に問うことをしてはいけない。そういうことが起きたときに、自分たちは『問われている』んだ。憤りや不安を感じたときに、Criacaoらしく どうあるべきか、どうありたいかを問われているんだ。」

つまり、何か自分の外にあることから影響を受けた時に「なぜ」「どうして」といった言葉・感情ではなく、「なら、どうするか。どうありたいか」を考える人間になれ、ということだと理解しています。

「当事者意識」と「自責思考」

これもまた同じ合宿で、株式会社人材研究所代表の曽和利光さんから教えていただいたことでしたが、「当事者意識」と「自責思考」は必ずしも同一ではない、と。

詳細は以下のnoteに纏めてあるので是非読んでいただきたいのですが、それを纏めた図をこちらに載せておきます。

簡単に纏めると、以下の通りです。

・「解決」が全てであり、「原因」について必ず自責しなければならないということではない。
・むしろ「原因自責」が強すぎると、不健全かつ不正の起きやすい組織にすらなりうる
・「絶対に俺が解決する」と思う人が、「正しい自責思考」の持ち主であり、当事者意識のある人物

「解決出来ないもの」との向き合い方

「原因が近くて解決できない」と、負の感情が生まれやすい

自分で言うのは憚られますが、私はこの「当事者意識」は非常に強い人間だと自負しています。きっと各所での仲間たちもそう思ってくれていると思います。

自分が原因だろうが、他者が原因だろうが「自分で解決できる課題」については、全身全霊で取り組んできましたし、それが「好き」ですらあります。

ですが、一方で「自分で解決出来ない課題」もあります。勿論、仲間を巻き込めば解決できる範囲は広がりますが、それでも解決出来ないものは必ず存在します。

その事態や、それを引き起こしている原因に対して、逆説的に「負の感情」を持ってしまう自分がいました。それを図示化すると以下の様になります。

この4象限において「原因・事業の近さ」というのが抽象的な軸ですし、そこは価値観に大きく委ねられる所ですが、例えば「トランプの日々の発言」や「天災」などが「諦観ゾーン」に入ります

自身や自社に対しての影響力がどれだけ大きかったとしても、そのイベント発生地や原因が遠すぎてどうしようもないケースがここに含まれます。

こういうイベントについては、「マジかよ」とは思ったとしても、怒りや憎しみといった負の感情は生まれづらく、また生まれたとしても長続きはしません。

一方、原因や事象との距離が近いと「矢印を向ける対象」が発生してしまうので、一度負の感情を持ってしまうと、それが反芻され、増幅され、放置しておくと永遠に収まりません。

上記成山監督の言葉の中で出てくる「審判のジャッジ」は、極めて近い場所にいる審判に対して、矢印が向いてしまいやすい、というまさに「ストレスゾーン」の事象です。

「当事者意識が強い」と「ストレス」も強くなる

当事者意識が強い人の良くない傾向として、「自分ならこうするのに」という、勝手な「置き換え」をしてしまうことがあると思います。

上記の図を感情面から書き換えると以下の通りになります。

「自分だったら解決するのに、なんでこいつはやらんねん」というストレスゾーンにおける感情は、当事者意識としての感情のまさに「裏返し」であり、それが故に、正の感情が強ければ強いほど、負の感情も強くなってしまいます。

ですが、その感情は何も生み出しませんし、自分の人生にとってマイナスでしかありません。

聖書には「裁かれたくなければ、裁いてはならない(Do not judge, or you too will be judged)」という言葉がある通り、人が人を裁く権利などないのです。

「天網恢恢、疎にして漏らさず」とはよく言ったもので、本当にその人のやっていることが邪なのであれば、いつかはそのしっぺ返しがその人に届きます。

「解決も裁くことも出来ない」事象や原因について、負の感情を持ち、自分を傷つける意味などどこにもないのです。

そういう時、具体的にはどうしたらいいのか

とはいえ、このストレスゾーンに発生する事象をゼロにすることは出来ず、ブッダでもない限り、「おいおい」と何かしらのストレスを持つことは避けられません。

そんな時にどうしたらよいのか。極めてシンプルですが、私は以下の2択だと整理し、そして「どっちかに振り切る」ことが重要だと思っています。

①徹底的に自分に矢印を向け、対象の原因・事象に「無関心」になる

解決出来ないのです。解決出来ないのだから、徹底的に無関心になればよいのです。

ですが、人間にとって「存在しているものを無くす」という行為は非常に難易度が高いので、「矢印の向きを変えることで忘れる」が正しいアプローチだと思います。

では「解決出来ないのに、自分に矢印を向ける」とはどういうことか。例えば以下のような問いを自分に立てることではないでしょうか。

・この原因と事象を見て、自分は何を学び、未来にどう生かすのか?
・今この瞬間、自分が最も為すべきことは何だ?
・その為すべきことと比べた時、本当にこの原因や事象はお前の人生にとって考える意味のあることか?(いや、ないだろう?)

つまり、

自分の心を惑わす事態に見舞われた時を、「自分という人間」「自分の人生」について思いを馳せるチャンスにしてしまい、さらにそこに学びを活かしてしまう。

これが出来るようになると、ありとあらゆる逆境も混乱も、味方に付けることが出来ると思います。上記を言語化出来たことは、自分の人生にとって非常に大切な1コマだと思います。

②解決する方法を死ぬ気で考え、実行する

どうしたって無関心になれないのなら、あとは解決するしかありません。解決出来ないとか言っている場合ではない。

恐らく、スタートアップを創業する経営者の方は、こういう人が多いのだと思います。「この社会課題が放置されているのが耐えられない。解決する方法を考え、解決して見せる」という想い。

無理やりハンドル握って、無理やり走り出す。

会社を作らなかったとしても、「無関心ではいられない、解決して見せる」という熱量は、本当に尊く、そして人を惹きつけるものです。我慢できないのなら、解決してしまいましょう。

おわりに:やっぱり、「私心なく、逃げずに、圧倒的に行動する」

二つ前のnoteに「私心なく、逃げずに、圧倒的に行動」することが全て、ということを書きましたが、あれから1か月経った今、改めてそう思っています。

今回の件は「私心なく」の所に繋がると思っています。つまり、自分が解決出来ない、身近な課題や問題、事象に対して何かを考えることは、「私心」なのです

どこかにエゴイズムが出ている。自分が仮に被害者だったとしても、「ふざけんな」「解決しろよ」と思ったところで何も起きない。

自分に矢印を向け、自分のレールに戻り、その事態すらも成長に繋げ、自分の心の弱さから逃げずに、また本気で走り出す。

そんな人間であり続けられるよう、日々精進します。

「問うな、問われてる」、この素敵な言葉をくれたクリアソン新宿さんには本当に感謝です。

では、またお会いしましょう。

細田 薫


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集