母がママのお店にやってきた 3/4 (大学3年のころ)
春。
大学3年になった私は、実家近くのコンビニで働いていた。
ある日、おなじみの“おネエっぽい”常連のおじさんが、
赤い角丸のショップカードをそっと差し出してきた。
「うちのお店、来てみない?」
書かれていたのは、新宿二丁目のゲイバーの住所だった。
カードの住所を頼りにたどり着いたそのお店は、
想像よりもずっと静かであたたかくて、
まるで、おばあちゃんちに帰ってきたみたいな匂いがした。
店内には、小さなカウンターとテーブルがふたつ。
「人手が足りないの」と言ったママに、私は口をついて出た言葉をぶつけてみた。 「俺じゃ、ダメですか?」
ママは「ゲイバーよ?」と返してきたけど、私は笑って言った。
「バイセクシャルじゃ、ダメですか?」
そして、5月から新しい日々が始まった。
そこには、いろんな人生があった。
「ママは、人生で一番の恩人」と話す人たちが、夜ごとこの店に集まっていた。
料理も、ママの教えのもとで、少しずつ覚えていった。 最初は豚汁、次は煮びたし、もつ煮…… ママの背中を見ながら包丁を握る日々がはじまった。
ある夜、女性二人組の一見さんがやってきた。
「兄弟とか、自分の子どもがゲイだったら気持ち悪くない?」
その言葉に、店内の空気が一瞬止まった。
でもママは、怒るでもなく、静かに言った。
「飲ませすぎちゃったみたいね。今日はこれぐらいにしておきなさい」
ママの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
気まずさの残るカウンターに、ひとつだけ残された焼酎のボトル。
そのラベルが、やけにやさしく見えた——。
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言われ慣れてる、なんてことはない
ずっとアタマの中でぐるぐる回っていた。
「兄弟とか、自分の生んだ子がゲイだったら、気持ち悪くない?」
それが、世間の“本音”なんだろうなと思った。
テレビの中や、ネットの中、遠い場所にいる誰かなら「多様性」とか「理解」とか、言えるけど、
身近な誰か──家族とか、恋人とか、隣で寝ている人とか──が当事者だったら、
きっと、自分でもどうしていいかわからなくなるんだろうなと思った。
だからって彼女のことを責める気にはなれなかった。
あの夜、わたしはただ、
自分でも見ないふりしてた気持ちを、急に突きつけられて、
動けなくなっていただけだった。
そのとき、ママがぽん、と焼酎のボトルを指差して言った。
「あのお客さん、たぶん戻ってこないから、そのボトル飲んでいいわよ」
たぶん、わたしの顔に何かが出てたのだろう。
でもその焼酎、飲まなかった。
いや、飲めなかった。
口に入れたら、何か、変な酔い方をしそうな気がして。
だから、お店にいたみんなで、ちょっとずつ分けた。
ママはそのあとも、いつもと変わらなかった。
何十年もこの店をやってきた中で、
あんな言葉、たぶん何度も浴びてきたのだろう。
たぶん、もっとひどいこともあったはずだ。
でも、ママは忘れてしまうんじゃなくて、
ちゃんと飲み込んで、ちゃんと整えて、
また、やさしい味の料理にして出すんだと思う。
あの夜の味は、少しだけ苦かったけれど、
それでも、ママのいるこの店にいてよかったと思った。
ママの店にお母さんが来た日
新宿二丁目のゲイバーで働きはじめて、1年が過ぎたころ。
ある日、実家の母に言われた。
「あなた、どこで働いてるの?」
いつかは来ると思っていた問いかけだったのに、
やっぱり、ちゃんとは答えられなかった。
「新宿の……居酒屋だよ」
そう言って、ごまかすように携帯をいじって、
その場をすっと立ち去った。
ちょうどその頃には、「本日の一品」も買い物から仕上げまで一人で担当することが増えていた。
「あなた、料理うまくなったわね」
ママがそう言ってくれると、なんだか照れくさかった。
「今日の料理は、彼が作ったのよ」と、
お客さんに紹介してくれる日もあった。
店に慣れたころだったけど、
ふとした拍子に将来のことが頭をよぎる。
──あと1年で、大学卒業。
このまま、ここにいたい。
でも、三人兄弟で家計もラクじゃない中、
大学まで通わせてもらったのに……
そんな申し訳なさが、ずっと心の隅にあった。
その夜の“本日の一品”は、
たけのこご飯のおにぎりと、
新玉ねぎのお味噌汁。
たけのこはお客さんの差し入れだった。
玉ねぎの甘さがしっかり出た味噌汁が、
男性客の口に合うか少し心配だったけど、
意外にも好評で、ちょっとホッとした。
その日は、21時を過ぎてから店が賑わいはじめた。
カウンターの中で、グラスを洗っていたら、
少し強めに開かれる音がした。
── 1人の中年女性が入ってきた。
はじめてお店に来たはずのその顔を、
わたしは、何度も見たことがあった。
実家の母だった。
目が合った瞬間、
ああ、逃げられないなと思った。
母は、扉から数歩でわたしの前に立ち、
顔だけぎゅっと、わたしのほうを見つめて言った。
「こんなところで、何やってるのよ!
居酒屋で働いてるって言ってたじゃない!」
手に持っていたグラスの水滴が、じんわりと掌に冷たかった。
言い訳も、気の利いた返しも浮かばず、
ただ反射的に口から出たのは、
「こちらが、うちの母です。
そしてこちらが、店のママです」
──おいおい、何を言っているんだ俺は。
頭のどこかでそうツッコみながら、でも笑う余裕はどこにもなかった。
「ひなたがお世話になっています」
母は怒気を含んだ声で、ママに挨拶した。
「こちらのほうこそ、息子さんにはお世話になっております」
ママの声は、いつも通りだった。
源氏名を口に出されなかったことで、少しだけ救われた気がした。
ママは落ち着いた様子で、カウンターの常連さんに少しだけ席を譲ってもらい、
母をそこに座らせた。
グラスに水を注いで、目の前に差し出す。
でも母はそれに手をつけず、ただママを睨んでいた。
そしてママは、ゆっくりと、深く、頭を下げた。
「息子さんを、こんなところで働かせてしまい、申し訳ありません。
私が彼をこの店に誘い、来てくれるのをいいことに、今日までここで働いてもらっていました」
言い終えても、ママはずっと頭を下げ続けていた。
胸が、ぎゅっとなった。
悪いのは、嘘をついてここで働いていた、私だ。
なのにママが頭を下げている。
それを目の前で見ている自分が、情けなくて、悔しくて、
唇をギュッと噛んだ。
ここに来るのを決めたのは、私だ。
ここで働くことを選んだのも、私だ。
ママにも、お客さんにも、感謝こそあれ、恥じることなんて何もない。
母に隠していたことは、たしかに悪かったかもしれない。
でも、「こんなところ」なんて言葉で、
この場所を傷つけることは許せなかった。
「ママのせいじゃない!
ぜんぶ、俺が決めたことなんだよ!」
気がつけば、まくしたてるように声を上げていた。
叱られるのは、ぜんぶ私でいい。
でも、大事な人を悪く言われるのだけは、どうしても嫌だった。
母は、その言葉を聞いて、すっと顔を上げ、
目の前の水をひとくちだけ飲んだ。
「どうして、正直に言ってくれなかったの?」
今度は、やわらかい声で。
私のほうを、まっすぐ見て言った。
何か言わなきゃ。
そう思ったのに、声にならなかった。
ただ、黙って、母の前に立っていた。
アタマの中では、あの夜の会話がぐるぐると回っていた。
──「兄弟とか、自分の生んだ子がゲイだったら、気持ち悪くない?」
あの言葉に、返せなかった言葉を、
いま、自分の母に向けて言えるのか。
そう問われている気がしていた。
5人の家族と、5つのおにぎり
ママは、すべてが終わったかのように、
いつものように、キッチンの作業に戻った。
冷蔵庫を開けて、たけのこご飯のおにぎりをレンジに入れ、
味噌汁の入った鍋に火をつけた。
私と母は、向かい合ったまま、何も言えずにいた。
やがて「チン」という音が、店内に場違いなほど明るく響いた。
ママは温めたおにぎりを取り出し、そっと椀に味噌汁を注ぎ、
なにも言わず、母の前に差し出した。
……いま?
まさか、このタイミングで?
母も「えっ?」という顔をしている。
その空気を破ったのは、ママの静かなひとことだった。
「これ、息子さんが一人で作ったんですよ」
母は、ゆっくりと箸をとった。
味噌汁をひとくちすすり、
そして、おにぎりをかじった。
私は、その一連の動作を息を詰めて見つめていた。
気づけば母の目に、涙がたまっていた。
何も言わず、ただ、黙々と食べていた。
夕飯をすませてきたはずの時間だった。
けれど、母はすべてを食べきり、
最後に、手を合わせた。
「……あなた、家で料理なんて、一度もしたことないじゃない」
そう言って、こちらを見た顔は、ぐしゃぐしゃだった。
でもたぶん、私の顔も同じだったと思う。
「今日はもう、上がりなさい」
ママは、そう言って、紙袋を持たせてくれた。
中には、さっき作ったおにぎりが5つ。
──そういえば、うちは5人家族だったな。
手にした袋の重みで、家族の顔が浮かんだ。
ママは、まっ赤なショップカードを一枚、母に差し出した。
「うちの店の連絡先です」
母は、それを受け取って、丁寧にカバンにしまった。
「今日は……ありがとうございました」
母がぺこりと頭を下げると、
ママも、静かに頭を下げた。
私は母を連れて店を出た。
ママは、ずっと頭を下げたままだった。

( 最終話に続きます ↓ )
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