母がママのお店にやってきた 1/4 (大学3年のころ)
はじめて行った新宿二丁目のゲイバー
大学3年生になったばかりの4月。
春なのに…春だから? わたしの胸にはポッカリ穴が空いていた。
きっかけは、サオリさんだった。
週に4回は顔を合わせてたコンビニの常連さん。
わたしがバイトに入ってると、仕事終わりに22時くらいにレジに並ぶのが当たり前の人だった。
──だった、というのは、もうその「当たり前」が、突然なくなったから。
勤めていた商社を辞めて実家に引っ越してしまった。
レジに立っていても、あの人の姿は現れない。
「今ごろなら並んでたよな…」なんて時計を見ては、心の奥がきゅうっとなった。

そんなある日、レジに常連さんの一人が来た。
ガタイのいいおじさん。ハスキーボイスで、
喋り方がちょっとおネエっぽい。
毎日夕方になるとスポーツ新聞を買いに来てて、
「今日も寒いわねぇ」とか「いつも丁寧ね、あなた」とか、
ちょこっと話してくれる。
まわりからは少し浮いてるけど、わたしは好きだった。
言葉の端っこに優しさがにじんでる感じがして。
その日は、わたしがつけっぱなしにしていたアルパカのネックレスを見て、
「それ、かわいいわね、似合ってるわよ」と言ってくれた。
…しまった。アクセサリー、勤務中は禁止だったんだった。
あわてて隠そうとしたけど、褒めてくれたのは嬉しかった。
そして言われた。
「最近、元気なさそうだけど、どうしたの?」
わたしは、うっかりこぼしてしまった。
「仲よかった常連さんが、引っ越しちゃって…会えなくなったんです」
するとその人は、少し目を細めてニヤリと笑った。
「あらやだ。なんか甘酸っぱい話じゃないの」
そして、スッとポケットからカードを出して渡してきた。
角が丸くカットされた、真っ赤なショップカード。
そこには、お店の名前と住所、電話番号。
──少し怪しい。いや、かなり怪しかった。
「うちの店、いらっしゃいな」
新宿二丁目の、ゲイバーだという。
夜の街で、あんまりいい思いをしたことがなかったから、警戒心はあった。
けど、不思議と、その赤いカードが手元に残った。
サオリさんのいない喪失感が、ぽっかり空いたままで。
何かを埋めるように、その空白をなぞるように、
バイトが休みの日に、カードに書かれた住所を目指してみた。
新宿二丁目。
ギラギラの歌舞伎町よりは静かで、ちょっとほっとする感じ。
細い道を抜けてたどり着いたそのお店は、
古い部屋の匂いと、かすかに煮物の匂いがして、
なんだか、おばあちゃんちに帰ってきたみたいな気持ちになった。
ギラギラしたシャンデリアとかミラーボールとかを想像していたけれど、
扉を開けた先にあったのは、小さなカウンターとテーブルが2つの、
ふつうの、こじんまりとしたバーだった。
──ママがいた。
いつものコンビニで見かけていた、あの人だった。
カウンターの中で、何やら料理をしていた手を止めて、
こっちを見て、ふっと笑った。
「あら、いらっしゃい」
その声が、すごく自然で、
なぜか「ただいま」って言いそうになった。
「俺じゃだめですか?」とダメ元で聞いてみた
店にいるママは、まぎれもなく“この店の人”だった。
いつものコンビニで見かけていたときより、ずっと自然で、
なんというか、「ここがこの人の居場所なんだな」と思った。
ゲイバーって、どこかギラギラしてて、
カクテルに花が咲いて、フルーツの盛り合わせの値段がバカ高い──
そんなイメージがあった。
でも出てきたのは、おでんだった。
しかも、うちのコンビニより美味しかった。
「晩ごはん食べたの?」と聞かれて、
「まだです」と答えたら、
ママは「ちょうど食べごろになったところよ」と笑って、
大鍋からちくわやら卵やら、いろんな種を盛って出してくれた。
4月とはいえ、まだ夜は肌寒かったから、
湯気の立つおでんは、ほんとうにしみた。
ママのおでんは、ダシの味もやさしくて、
どこか、懐かしい味がした。
まだ早い時間だったから、店内はがらんとしていて、
私はカウンター越しに、ママの前にぽつんと座った。
やがて、ポツポツとお客さんが入ってくる。
ママは、いちいち注文を聞くこともなく、
いつものようにビールやお湯割りを出していた。
その様子が、なんだかすごくよかった。
お店というより、ひとつの“家族”を見ているような気がした。
店が混んできたのでその日は、それで帰った。
不思議と、また来ようと思った。
数日後、バイトのシフトが休みだった日。
わたしは、またふらりと店を訪ねた。
玄関を開けると、ママがひとりで出迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい」
笑顔は変わらない。
その日も早い時間で、また一番乗り。
カウンターに座ると、何も言わなくても瓶ビールが出てきて、
それと一緒に、もつ煮と焼きおにぎりが並んだ。
前にビールを頼んだのを、覚えていてくれたみたいだった。
焼きおにぎりは、香ばしくて、表面はカリッと。
噛むとホクホクで、あっという間に完食。
もつ煮は、味噌のしみっぷりが絶妙で、
ビールとの相性が最高だった。
「昔はね、石油ストーブの上で、もつ煮をコトコト煮てたのよ。
でも今はダメなのよ、消防法か何かで。
ガスつけっぱなしって、なぜか落ち着かないねぇ」
そんな話をしながら、ママは笑った。
前回のおでんも美味しかった話をしたら、
「あら嬉しい、でもあの日はバタバタしてて、あんまり構えなかったわね」と言いながら、
少しだけトーンを落として、こんなことを話し始めた。
「じつはね、ちょっと前まで、学生さんがバイトに来てくれてたの。
でもその子、就職で3月末に辞めちゃって…。
それからは、お客さんの手を借りたりして、なんとか回してるんだけど、
さすがにちょっと大変になってきててね」
そして、ちらりとこちらを見てこう言った。
「あなたみたいな子が来てくれたら嬉しいんだけど…」
わたしは、少し笑いながら聞き返した。
「俺じゃダメですか?」
ママは目を丸くして、それからニヤッと笑った。
「あらやだ。うちがどういう店か、わかってるでしょ。ゲイバーよ」
だからわたしも笑いながら答えた。
「ゲイっていうか…バイセクシャルじゃダメですか?」
ちょっとだけ照れながら、
昔、彼女がいたこと。
その後には彼氏と同棲していたこと。
そんな話をぽつぽつとした。
ママは、ふむふむと聞いてから、
「そうだったのねぇ」と言って、
それから少し目を細めて、こう言った。
「でも、なんとなくそんな気はしてたわ」
なんだろう。
あのときのママの「でも」には、全然トゲがなかった。
むしろ、こちらの心の輪郭を撫でてくれるような「でも」だった。
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