はじめてのホストクラブで水割りを浴びた夜 前編 (大学2年のころ)
再会、ミルクを飲む中学時代の元彼
大学2年の春、まだ肌寒い午後のこと。
帰り道、丸ノ内線の車内で「ひなた?」と声をかけられた。
ふと顔を上げると、そこにいたのは上下真っ黒なスーツに、金髪。ネックレスも指輪もジャラジャラで、香水もどこか夜の街の匂いがした。
うわ、やばいやつに絡まれたかも……って、最初は思った。逃げるように視線をそらしかけたとき、
「ほら、俺だよ、俺」
って言われて、もう一度、ちゃんと顔を見た。
あっ……アキラだ。
中学2年のとき、塾で一緒だったアキラ。私にとって、はじめての「彼氏」だった人。
でも、目の前にいるこの“ちょっとチンピラっぽい人”と、当時のアキラは、あまりにも結びつかなかった。
無口で真面目で、授業中に咳をするのもはばかられるような、そんな少年だったのに。目の前の彼は、髪も服も存在感バリバリで、「俺、ここにいるぜ!」って感じだった。
新宿駅で一緒に降りて、ルノアールに入った。アキラは「ミルクください、冷たいので」って店員さんに言った。
その外見で、まさかのミルク。
「えっミルク」って思ったけど、彼はごく自然に言った。
「これから仕事なんだよ。客にしこたま飲まされるからさ、ちょっとでも胃、保護しとかないと」
どうやら、ホストをしているらしい。

聞きたいことは山ほどあった。
中学の時、どうして何も言わずに塾をやめたのか。どうして急に会えなくなったのか。なんで、そんなにチャラくなってるのか。
けれど彼は、どこか誇らしげに笑って、こう言った。
「なあ、ひなた。ゲイのホストって、稼げるんだぜ。他にあんまいないから、客が面白がって指名してくれる。チップももらえるし」
そして、少し目を細めながら続けた。
「ひなたも、やってみないか?」
高校までは真面目だったアキラは、大学に入ると同時に歌舞伎町の世界に飛び込んだらしい。
「俺、変わったんだぜ」って、目が言ってた。
その姿が、なんだかまぶしかった。
私と言えば、コンビニのバイトで週4日働いても、財布はいつも寂しかった。
飲み会の誘いも、たいてい「お金ないから」って断ってばかりいた。
だから、「稼げるかもしれない」っていうのも、たしかに魅力だった。
でもそれよりも…
ずいぶん変わったアキラに出会って、自分だって変われるかもしれないって、そんな気がした。
閉塞感のある大学生活に、ちょっと穴があくような。そんな気配がした。
「興味あるなら店に伝えておくよ。そろそろ行かなきゃ」
そう言って、アキラはグラスのミルクを一気に飲み干した。
伝票を手に取って、すっかりホストらしいスマートな動きでレジに向かっていった。
私はその背中を、ただ黙って見送っていた。

使い回しの「ツバキ」という源氏名
数日後、私はアキラの部屋にいた。
アキラの一人暮らしの部屋に上がるのは、これがはじめてだった。
「好きなやつ着ていいから」
そう言われて開けたクローゼットは、タバコの匂いがぎゅっと詰まっていて、扉を開けた瞬間、鼻の奥がつんとした。
中には、黒、紫、シルバー。ギラついたスーツが何着も並んでいた。
まじでこれ、着るの?って、思った。
自分じゃ絶対に選ばないやつばっかり。どれも布がテロテロしてて、肩のところに変な光沢があったり、ボタンがでかかったり。しかも、見た感じぜんぶ高そう。
「アキラ、稼いでるんだな……」って、なんとなく思った。
立ち尽くしていたら、アキラが一着取り出して、「これなんか、似合うんじゃない?」と渡してくれた。
上下黒のスーツと、黒シャツ。そして、金のぶっといネックレス。
「これ、ほんとに巻くの……?」と心の中で何度も問いながら、首にかけられた瞬間、ゾワッと鳥肌が立った。
ネックレスをつけるのなんて、たぶん人生ではじめてだった。
似合ってるかどうかなんて、もうどうでもよかった。ただただ「巻かれてる感じ」がすごくて、首元がずっとくすぐったかった。
スーツのサイズはぴったりだった。背格好が似ていたのが、こういうときだけはありがたかった。
靴も借りて、二人で丸ノ内線に乗った。
電車の窓に映る自分の姿は、もはや「自分」じゃなかった。見慣れない装飾品と布に包まれて、なにかの役になっているみたいだった。
歌舞伎町には、大学の飲み会なんかで何度か来たことがあったけれど、「仕事」でくぐるあの赤いアーチは、まったく違う空気をまとっていた。

夜の匂いが、風に混ざって吹いてくる感じ。
隣を歩くアキラは、背筋をぴんと伸ばして、胸を張って、まるで“自分の街”みたいな歩き方をしていた。
私はその斜め後ろを、すこし緊張しながらついていった。
雑居ビルの地下1階。目的の店はそこにあった。
営業前の店内の足元には、段ボールがいくつも積まれていた。おしぼり、酒瓶、氷の入った発泡スチロール。
上を見上げると重量感のあるシャンデリアがぶら下がっていた。

スタッフが掃除機をかけていて、「おはようございます」と声をかけられる。なんでもないひと言が、ちょっとだけこわかった。
アキラに続いてバックヤードに入ると、そこには紫のスーツを着た、見るからに“ボス感”のある男がいた。
肩幅も声も厚みがあって、圧がすごかった。
この人が店長で、現役のホストでもあるらしい。
「来てくれてありがとう。早速だけど、源氏名は“ツバキ”でいいかな?」
え? ツバキ?
どうやら、半年前に辞めたホストの源氏名らしく、名札を作り直すのが面倒だから“使い回し”だそうだ。
なんだか和風だけど……と、戸惑っているうちに、返事をする暇もなく「ツバキ」として登録された。
店長の眼光が強すぎて、「ちょっと違うのがいいです」とか、そんなこと言える空気ではなかった。
ロッカーに荷物をしまい、簡単なレクチャーを受けた。未経験ということで、今日は見習いとしてアキラの隣に座るらしい。
アキラはこの店で「トウマ」という名前だった。
私は間違えて本名で呼ばないように、頭の中で何度も唱えた。
トウマ、トウマ、トウマ……。
はじめての客と、はじめての一万円札
お店がオープンしてから、30分くらい経ったころ。
いよいよ、私にとって「はじめてのお客様」がやってきた。
担当はトウマ──つまりアキラ。
やってきたのは、30代くらいの女性だった。
ナース服ではなかったけれど、どこか“白衣の匂い”をまとっていて、落ち着いた服装の中に、日々の疲れがにじんで見えた。
「もー、聞いてよ!」
そう言った彼女の口からは、止まることのない言葉があふれ出していた。
職場のこと、恋人のこと、たぶん家族のことも。
まるで、身体の中にたまり続けた毒を、グラスに混ぜてどんどん流し込んでいるみたいだった。

グラスに口をつけるたびに、彼女はほぼ一口で飲み干した。
私は、氷を入れ、ウイスキーを注ぎ、ミネラルウォーターをそそいで、水割りをつくり続けた。
タバコが差し出されたら、火をつけた。
トウマは、ほとんど話さなかった。
黙って、ただ聞いていた。
会話が一瞬だけ途切れるタイミングを見計らって、「それはひどいね」とか「ほんとうに、しんどいよね」と、タイミングよく返す。
彼女が話すのをやめると、そっと手を握り、自分の膝の上にのせた。
その仕草があまりにも自然で、私は一瞬、息を忘れてしまった。
それが、ホストという仕事なのか。
それともトウマが持っている“聞く”力なのか。
私には、まだよくわからなかった。
少し緊張しながら、「今日が初出勤なんです」と伝えたら、
彼女は「そう、頑張りなさいよ」と言って、
財布から一万円札を取り出して、すっと、私の首元に差し込んできた。
スーツの襟元に、お札がふれる感覚は、はじめてだった。
熱でもなく、冷たさでもなく、なんとも言えない“異物感”だけが、そこにあった。
「よかったね」
と、トウマが小さく笑った。
あとから思えば、きっと彼女は、トウマに“いいところ”を見せたかったんだろうと思う。
でも当時の私は、そんなこと何ひとつ考えなかった。
ただ、ただ――お金がもらえて素直にうれしかった。
そのお金が持つ意味や重さに、気づけるほど、大人ではなかった。
「次、ツバキも一緒に入ってみようか」
黒服スタッフにそう言われて案内されたのは、二人組の女性が座るテーブルだった。
……このあと、このうちの一人に水割りをかけられるとは思ってもいなかった。
(中編につづきます ↓ )
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