⑯The Chiplet Rebellion「勝利と敗北と、挑戦者の魂」【第二部】Silicon Ascension
【第四章 深紅の産声】
重大な規約違反を理由に、華麟はファイターライセンスを剥奪された。
格闘協会からの、永久追放。
白銀の防具は没収され、これまでの戦績と栄光は、すべて公式記録から抹消された。
検索しても出てこない。
アーカイブにも残っていない。
自分がリングに立った証が、あの夜の熱が、数字の上からきれいに消える。
存在していた、という事実ごと。
彼女は、その日のうちに影へと姿を消した。
チームスタッフは誰も、その後の行方を語らなかった。
語れなかったのか、語らなかったのか。
どちらだったのかは、誰にも分からない。
それから、少しの時が流れて。
深センの地下深く。
表通りから外れた路地を二本入って、さらに階段を下りた先。光の届かない場所に彼女はいた。
壁はコンクリート打ちっぱなし。
天井から下がる照明は一つだけで、微妙に点滅している。
誰も直そうとしない。
そういう場所だった。
華麟は、血と泥と黒ずんだ液体に塗れた自らの両手を、ただじっと見つめていた。
指先が、小刻みに震えている。
恐怖ではない。
体の奥から湧き続ける怒りのせいだ。
怒りというより、もはや熱の塊に近いものが、胸の底でぐつぐつと煮えている。
あそこまで肉薄した。
王者の血を、確かにこの手で流させた。
最終ラウンド残り十秒、あと一撃だけあれば。
あの完璧な顔に泥をかけてやれたのに。
結果はどうだ。
「規約」という名の見えない鎖が、彼女からすべてを奪い去った。
勝ちに届かなかったことより、その鎖の存在が、ずっと腹立たしかった。
ルールが守るのは、いつだって玉座に座る者だけだ。挑戦者が板を破ろうとすれば、板を守るための新しい規則が生まれる。
そういう仕組みを、業界は「公正」と呼んできた。
口元から、血の混じった乾いた笑いが漏れる。
そこで、華麟の中で何かが揺れていた。
マキナのことを、考えていたのか。
意識してそうしたわけではない。
考えまいとしていたのに、勝手に像が浮かぶ。
あの白銀の髪と、乱れることのない呼吸と、
何も諦めたことがないような目。
あの女は、一度も地下に潜る必要がなかった。
正規の部品が、いつでも届いた。
認可された技術の上に立って、設計図通りに進化してきた選手。
失ったものがあるとしても、それは競争の中で敗れたものであって、外側から奪われたものではない。
(……羨ましいとでも、思っているのか)
気づいた瞬間、強い嫌悪感が込み上げてきた。
自分がそれを感じていることへの、嫌悪だった。
嫉妬か。あの完璧な女に。
あの、何も失わなかった女に。
自分が泥まみれで地下を這い回っている間、あの女はただ正しい場所に立っていただけなのに。
(情けない。それを羨むなんて、負け犬の言い訳と何が違う)
羨望を感じた自分を、もう一人の自分がすぐに踏みつける。嫉妬なんかじゃない。そう言い聞かせようとして。
あれは憎しみだ。純粋な、正当な怒りだ。
そうでなければ、この痛みの意味が分からなくなる。
だが、どれだけ踏みつけても、その感情は消えなかった。
消えないから、もっと憎んだ。
自分が消せないものを持っていることが、また腹立たしかった。
憎しみと羨望が混ざり合い、区別がつかなくなって、それでもどちらも消えない。
その混濁した何かが、胸の中で出口を探して暴れていた。
光が私を拒絶するというなら。
正しい設計が私を縛り付けるというなら。
ならば、喜んで泥を啜ろう。
泥の中でしか立てないなら、泥ごと武器にしてやる。
口の中で、そう呟いた。
声にはしなかった。
声にする必要など、どこにもなかった。
いや、正確には。
声にしてしまったら、それが本物の決意になる気がして。
一瞬だけ、ためらっていた。
(……遅い。もうとっくに、決めていたくせに)
自分で自分に、そう言い聞かせて。
傍らの金属トレイから、「それ」を拾い上げる。
小さな塊だった。
表面に細かい配線が走っていて、見ようによっては精巧な工芸品にも見えなくはない。

だが、それを作った者は芸術家ではなく、複数の機関から指名手配されている改造師だった。
協会が最も恐れ、禁忌として封印してきた規格外の強化器官。
もともとは軍の研究機関が試作したものだという話だが、真偽は分からない。
ただ、似たような話を業界の古参たちが酒の席で語るのを、以前に聞いたことがあった。
「あれを入れた者は、三年以内に死ぬ」と。
「三年以内に死ぬが、その三年間は化け物になれる」とも。
彼女は、その塊を掌の上で静かに転がした。
三年。
三年あれば、十分だという気がした。
何のために生きているかがはっきりしている人間にとって、三年という時間は、短くはない。
「お前がどんな代償を持ってこようと、私には関係ない」
静かに、自分の掌に向かって言った。
「あと一度だけ、あの女の前に立てればいい」
それだけでいい。
それだけが、今の自分の全部だ。
だからメスを握る。
自らの胸部の皮膚を、迷いなく切り裂く。
あまりに迷いがなかったので、最初の一線は少し深く入りすぎた。
痛みが来た。全身の痛覚が、まとめて焼き切れるような感覚が走る。
脳の処理が追いつかないほどの熱量が、体の内側から叩きつけてくる。
(……痛い)
当たり前だ。
痛みがなければ、むしろおかしい。
(痛くていい。これが私の選んだ道だから)
声にならない絶叫が、地下の闇に吸い込まれていった。
天井の照明が、衝撃で一瞬消えて。
点滅が激しくなった。
強引に繋ぎ合わされた神経が、異形の脈動を始める。
その激痛の中で、奇妙なことに、マキナの顔がまた浮かんだ。
(……あいつは、こんな痛みを知らない)
羨ましいのか、憎いのか、もう自分でも分からなかった。分からないまま、痛みに全身が支配されていく。
分からないまま、それでもいいと思った。
分かる必要なんて、どこにもない。
ただ立てればいい。
ただ、もう一度あのリングに。
白銀の守護者の心は、ここで死んだ。
後に彼女は、そう語ることになる。
比喩として言ったのではなかった。
「あの瞬間、白銀の自分は確かに死んだ。痛みとともに、あの頃の自分の全部が焼き切れた」と。
もっとも、その言葉を聞いた者は多くはなかったけれど。
暗い地下室で一人うずくまりながら、彼女はただ震えていた。
強さの震えか、苦痛の震えか、自分でも分からなくなっていた。
ただ、震えながら、思っていた。
どの業界でも、追い詰められた者が禁忌に手を伸ばす話は後を絶たない。
それは格闘技に限った話ではない。
正規のルートを封じられ、正当な競争の場から排除され、それでも諦めることができなかった者が最後に辿り着く場所は、いつだって似ている。
泥の中に決まっている。
歴史を振り返れば、封鎖された者が独自の技術を開発した例は無数にある。
外から来ないなら、中で作る。
使えないなら、別の方法を探す。
不可能だと言われたことを、不可能のまま成し遂げる。
それは美談ではない。
他に選択肢がなかっただけの話だ。
正規の改造室が使えないなら、地下に潜る。
認可された部品が手に入らないなら、認可されていない部品を使う。
禁忌と呼ばれるなら、禁忌ごと自分の名前にしてやる。
それを誇りとは思っていなかった。
誰かに見せたいとも、認めてほしいとも思っていなかった。
ただ、立ちたかっただけだった。
もう一度だけ、あのリングに。
あの女の前に。
そして、マキナに羨望を感じてしまう自分ごと、あのリングに叩きつけてやる。
その怒りだけが、今の華麟を動かしていた。
かつて白銀の守護者と呼ばれた女は、もうここにはいない。
赤黒い殺意を纏い、真紅の怪物が今、産声を上げた。
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