なぜ高い薬でも保険で使えるのか——薬価経済学(QALY・ICER)入門 #19
このシリーズのラインナップは→ 第1回の記事でご確認いただけます。
【2026年7月9日 全面改訂】 実際の研究事例(統合失調症・片頭痛)から入る構成に書き直し、各国の制度情報(英NICEのしきい値改定、米Medicareの価格交渉開始など)を2026年時点に更新しました。
薬は、承認されただけでは患者さんに広く届くとは限らない。
医薬品には、一般消費財とは違う構造があるからだ。
一般消費財では、多くの場合、「買う人」と「使う人」は同じである。
しかし、医薬品では違う。
使うのは患者さん。
処方を決めるのは医師。
そして多くの場合、支払うのは保険者である。
つまり医薬品は、保険者や国の制度の中で「この価格に見合う価値がある」と認められて、初めて広く使われるようになる。
では、「価格に見合う価値」とは何か。
それを考えるための学問が、薬価経済学(Pharmacoeconomics)である。
教科書どおりに進めると、QALY、ICER、費用対効果——と専門用語が続いて退屈になる。
そこで本記事では順番を逆にし、3つの実例から入る。
高い薬に切り替えたら、医療費は増えるのか?(統合失調症)
発作を1回も減らさない薬に、価値はあるのか?(片頭痛)
寿命を1日も延ばさない薬の価値を、どう数字にするのか?(片頭痛)
片頭痛を2回取り上げるのは、あえてである。同じ病気でも、「生産性の損失」と「生活の質」という別々の価値が見えるからだ。
3つとも、答えは直感に反する。
そして3つ答え終わったとき、QALYとICERが「暗記する用語」ではなく「必要になって生まれた道具」に見えているはずだ。
なお本記事は、「薬の価値が、どうやって企業の売上になるのか」を追う3回の出発点でもある。①価値をどう測るか(本記事)→②米国でその価値がどう価格になるか(→ 記事20)→③その価格を保険でカバーさせ、使える薬にするか(→ 記事21)、という流れで見ていく。
問い1: 高い薬に切り替えたら、医療費は増えるのか?
統合失調症の治療を考えてみる。
統合失調症は、症状が悪化すると入院が必要になる病気だ。
そして精神科医療のコスト構造には、はっきりした特徴がある。
総治療コストに占める薬剤費の割合は小さく、最大の費目は入院費である。
1990年代半ば、カナダで新しい抗精神病薬リスペリドンが登場した。
従来薬より格段に高い薬だった。当時の米国の目安では、従来薬が1日1〜2ドル程度に対し、新しいタイプの薬は1日6〜13ドル。薬剤費だけ見れば数倍である。
「こんな高い薬に切り替えたら、医療費が膨らむのではないか」
カナダ・サスカチュワン州の公的医療データベースを使って、実際に検証した研究がある(Albright et al. 1996)。従来薬からリスペリドンに切り替えた患者を、切替前後で比較した。
結果はこうだった。
入院回数: 約60%減少
入院日数: 約58%減少
薬剤費: 増加
総医療コスト: 薬剤費の増加を入院費の減少が上回り、正味で減少と推計

ここは事実と推論を分けておきたい。この研究は切替前後の比較(観察研究)なので、「すべてがこの薬のおかげ」と言い切ることはできない。ただ、「薬剤費が増えても、医療システム全体のコストは下がりうる」という構図を実データで示した古典として、薬価経済学の教材に長く使われてきた。
この構図には名前がついている。コストオフセット(費用相殺)である。
そして、ここから最初の教訓が出る。
「価格が高い薬」と「医療システムに高くつく薬」は、別物である。
見るべきは薬の値段ではない。薬剤費に、入院費・外来費・検査費・合併症対応まで含めた直接コストの総額だ。
この論理は現代でも繰り返されている。2013年に米国で発売されたC型肝炎治療薬ソバルディは、12週間の治療で8.4万ドルという価格が「高すぎる」と大論争になった。しかしメーカー側の主張は同じ構図だった——肝硬変の長期治療や肝移植を回避できるなら、システム全体では安い、と。CAR-T細胞療法のような数千万円の治療でも、同じ議論が続いている。
もっとも、疑問も湧くはずだ。
入院みたいな「わかりやすい大きなコスト」がない病気では、どうするのか。
そこで2つ目の問いに移る。
問い2: 発作を1回も減らさない薬に、価値はあるのか?
片頭痛には、ナラトリプタンという治療薬がある(トリプタン系と呼ばれる薬の一つ)。
この薬は、発作が起きたときに飲む「急性期治療薬」である。予防薬のように、年間の発作の回数そのものを減らす薬ではない。
つまり——発作は、これまでどおりの回数やってくる。
入院もほとんど発生しない病気で、発作の回数も減らない。
「直接コストの削減」という問い1の物差しでは、この薬の価値はほとんど見えない。
では、この薬に価値はないのか。
カナダの費用対効果分析(Caro et al. 2001)が、この問いに数字で答えている。片頭痛患者の1年間をシミュレーションし、通常治療とナラトリプタンを比べた。
発作の回数: 変わらない
症状に苦しむ時間: 年間225時間減る
労働生産性の損失: 年390カナダドル分回復する(1998年時点)
薬剤費: 増える
差し引き: 年109カナダドルのプラス
回数は減らないが、1回1回の発作が早く終わる。その分だけ、寝込む時間が減り、仕事に戻れる時間が増える。この「働けなかったはずの時間の回復」を金額に換算すると、薬剤費の増加を上回った——という計算だ。

こうした「病気のせいで働けない・生産性が落ちる」というコストを、間接コストと呼ぶ。医療費の領収書には一切現れないが、社会全体で見れば巨額である。
そして、ここに薬価経済学の核心的な概念が隠れている。
同じ薬でも、「誰の財布から見るか」で費用対効果は変わるのだ。
保険者(医療費の支払い手)の視点: 薬剤費が増えるだけ。労働時間は保険者の財布と無関係
雇用者の視点: 従業員の欠勤・生産性低下が減るなら、それは回収できるコスト
社会全体の視点: 医療費も生産性もすべて合算。この視点で初めて「年109ドルのプラス」になる
この「どの立場で集計するか」を、薬価経済学では分析の立場(perspective)と呼ぶ。費用対効果の分析結果を読むときは、まず「誰の視点の計算か」を確認する——これは実務でも最初のチェックポイントである。

ちなみに、米国では雇用者が従業員の医療保険料を負担している。つまり雇用者は「間接コストの被害者」と「医療費の支払い手」を兼ねる。片頭痛やうつ病の治療薬が米国で「働く世代の生産性」を軸に売り込まれるのは、この構造のためだ(この話は 記事20・記事21 につながる)。
さて、直接コスト、間接コスト、と来た。
しかし、まだ何かが抜けている。
苦痛そのものである。
問い3: 寿命を延ばさない薬の価値を、どう数字にするのか?
片頭痛治療の価値は、「寿命を何年延ばすか」では測りにくい。
発作を治める薬が、寿命を延ばすわけではないからだ。
しかし、片頭痛持ちの人生と、そうでない人生が同じでないことは、誰でも直感的にわかる。
問題は、その差を数字にできるかである。
実は、できる。
SF-36という国際標準の質問票がある。「身体機能」「日常役割(身体)」「体の痛み」「社会生活機能」「心の健康」など8つの側面から、本人が感じる健康状態をスコア化するものだ。
これを使った有名な研究が2つある。
1つ目(Osterhaus et al. 1994)。
米国の片頭痛患者845人にSF-36を実施し、慢性疾患のない一般成人の基準値と比べた。結果、中等度以上の片頭痛患者では、8側面のうち5側面でスコアが一般成人より有意に低く、特に「体の痛み」「日常役割(身体)」「社会生活機能」の落ち込みが目立った。
発作は月に数回でも、発作の合間も含めて、人生の質が下がっていることが数字で示されたわけだ。
2つ目(Dahlöf et al. 1997)。
片頭痛患者582人にスマトリプタンで治療を続けたところ、SF-36の多くの側面でスコアが有意に改善した。

つまり、病気が生活の質をどれだけ下げているかは測れる。
薬がそれをどれだけ戻すかも測れる。
ただし、費用対効果を計算するには、生活の質をもう少し扱いやすい数字にする必要がある。
そこで使うのが、効用値(utility value)である。
効用値とは、健康状態を0〜1で表したスコアだ。
完全に健康な状態:1.0
生活に大きな制限がある状態:例えば0.5
死亡:0
つまり、効用値とは「生活の質を一つの数字にしたもの」と考えればよい。
そして、この効用値に生存年数を掛け合わせたものが、QALY(Quality-Adjusted Life Year:質調整生存年)である。
QALY = 生存年数 × 効用値
例えば、こうなる。
完全に健康な状態で1年生きる → 1.0 QALY
効用値0.5の状態で1年生きる → 0.5 QALY
効用値0.5の状態で2年生きる → 1.0 QALY

QALYの強みは、「寿命を延ばす価値」と「生活の質を上げる価値」を一つの単位で比べられることにある。
寿命を延ばすがん治療薬
寿命は延ばさないが、毎日の苦痛を減らす片頭痛薬
発作を防ぎ、入院を減らす統合失調症の薬
こうした薬を、すべて「QALYをいくつ増やしたか」という共通の物差しに載せられる。
もちろん、QALYにも限界はある。希少疾患、小児、終末期、障害のある人の評価などでは、「QALYだけでは社会的価値を捉えきれない」という議論が続いている。
それでも、疾患をまたいで薬の価値を比べる道具として、QALYは各国の医療技術評価で広く使われている。
3つの問いを、一本の式にまとめる——ICER
ここまでの3つの問いを振り返る。
問い1: 薬のコストは、薬剤費だけではない(直接コストの総額で見る)
問い2: 医療費の外にもコストはある(間接コスト。誰の視点かで結果が変わる)
問い3: 効果は、寿命と生活の質をまとめて測れる(QALY)
この全部を一本の式に束ねたものが、ICER(Incremental Cost-Effectiveness Ratio: 増分費用効果比)である。
ICER = コストの差 ÷ 効果の差
既存治療と比べて、追加の効果1単位(通常は1 QALY)を得るために、追加でいくら払うのか——という指標だ。
分子の「コストの差」には、問い1・問い2で見たコスト(薬剤費、入院費、場合によっては生産性損失)が入る
分母の「効果の差」には、問い3で見たQALYが入る
架空の単純な例で確認しておく。
既存治療: 総コスト100万円、1.2 QALY
新薬: 総コスト300万円、2.5 QALY
ICER =(300万円 − 100万円)÷(2.5 − 1.2)
= 200万円 ÷ 1.3 QALY
= 約154万円/QALY
「この薬は、健康な1年に相当する価値を追加で得るのに、約154万円かかる」と読む。

こうして、統合失調症の薬も、片頭痛の薬も、がんの薬も、同じ「円/QALY」という単位に載る。
載せた後に残る問いは、一つだけだ。
では、社会は1 QALYにいくらまで払うのか。
社会はいくらまで払うのか——各国のしきい値
この「1 QALYあたりいくらまで」という目安を、しきい値と呼ぶ。
ICERがしきい値を下回れば「費用対効果が良い」と判断されやすく、大きく上回れば「この価格では高すぎる」と見なされやすい。
ただし、しきい値は機械的な合否ラインではない。重症度、希少性、代替治療の有無、不確実性なども考慮される。細かい数字より、国によって「評価の物差し」が違うことを押さえてほしい。

もう一つ重要なのは、国によって「何と比べるか」も違うことだ。ICERは比較対象との差から計算されるので、比較する既存治療が変われば結果も変わる。同じ薬でも、国や評価機関によってしきい値も比較対象も異なり、費用対効果の見え方も価格交渉の結果も変わりうる。
この「比較対象で結論が変わる」が実際に起きた例は→ Baxfendy——「世界初」の高血圧新薬は、なぜ「高すぎる」と言われたのかで扱っている。米国ICERの評価では、同じ薬が、比べる相手によって「有望」とも「同等かそれ以下」とも判定された。
薬価・償還戦略は、開発初期から始まっている
ここまで来ると、製薬企業の実務にとって重要な帰結が見えてくる。
問い1〜3で見たデータ——入院日数、労働損失時間、SF-36スコア——は、どれも臨床試験や調査で意図的に集めたデータである。有効性と安全性のデータだけを集めていたら、これらの分析は成立しなかった。
つまり、開発初期から次のような設計が必要になる。
どの患者集団で価値を示すのか
何と比較して優れていることを示すのか
QOL、入院回数、労働生産性などを試験でどう測るのか
承認後に、どの国の、どの支払い手に、どのデータで価値を説明するのか
Real World Dataで市販後の価値をどう検証するのか
逆に言えば、承認後に「実はこの薬、入院を減らすんです」と主張しても、試験でそのデータを取っていなければ説得力はない。
つまり薬価・償還戦略とは、単なる価格交渉ではない。
どの価値を、どのデータで、誰に説明するのかを設計する仕事なのである。
まとめ: 承認後の"第二関門"を理解する
3つの問いの答えを並べ直す。
高い薬に切り替えたら医療費は増えるのか → 増えるとは限らない。入院などの削減が薬剤費の増加を相殺しうる(直接コスト・コストオフセット)
発作を減らさない薬に価値はあるのか → ある。働けない時間の回復は金額換算できる。ただし「誰の視点か」で答えが変わる(間接コスト・perspective)
寿命を延ばさない薬の価値は数字にできるのか → できる。生活の質は測定でき、生存年数と掛け合わせて共通単位になる(QOL・QALY)
そしてこの3つを束ねた式がICERであり、各国はそれぞれのしきい値と物差しで「その価格に見合う価値か」を判断している。
承認はゴールではない。
承認された薬が患者さんに届くかどうかは、薬価・償還という"第二関門"を越えられるかにも左右される。
最後に、読者のみなさんに問いを一つ。
問い2で見たとおり、費用対効果は「誰の財布から見るか」で変わります。もしあなたが保険者・雇用者・患者のそれぞれの立場だったら、3つの事例のうちどの「価値」に一番お金を払いたいと感じるでしょうか。コメントで教えていただけると嬉しいです。
次回は、舞台を世界最大の医薬品市場・米国へ移す。
そこでは、こうした「価値」が、そのまま価格や売上になるわけではない。メーカーが公表するWAC、値引き後のNet Price、医療機関で投与する薬の基準になるASP、患者の自己負担——同じ薬に複数の価格が併存する。さらに、薬局で受け取る薬と病院で投与される薬では、お金の流れも違う。
「年20万ドル」と発表された薬は、企業に本当に20万ドルが残るのか。次回の 記事20「米国の薬価はなぜ複雑か——多重価格と『企業にいくら残るか』」では、この"多重価格"の構造を解きほぐしていく。
薬価シリーズ: 本記事(①価値の測り方)→ 記事20(②米国の多重価格) → 記事21(③米国の市場アクセス) → 記事22(日本の薬価制度)
※本記事で紹介した研究はいずれも1990年代〜2000年代初頭のもの(金額は当時の通貨)。金額の水準ではなく「構図」を読む素材として紹介した。なおリスペリドンの研究は切替前後の観察研究であり、効果のすべてを薬に帰属できるわけではない。
参考資料
Albright PS et al.(1996)"Reduction of healthcare resource utilisation and costs following the use of risperidone for patients with schizophrenia previously treated with standard antipsychotic therapy" Clinical Drug Investigation — リスペリドン切替による医療資源・コスト変化(カナダ・サスカチュワン州)
Foster RH, Goa KL(1998)"Risperidone: A pharmacoeconomic review" PharmacoEconomics — リスペリドンの薬価経済学的評価のレビュー
Caro JJ et al.(2001)"Treatment of Migraine in Canada With Naratriptan: A Cost-Effectiveness Analysis" Headache — ナラトリプタンの費用対効果分析(症状時間・生産性損失)
Osterhaus JT et al.(1994)"Measuring the functional status and well-being of patients with migraine headache" Headache — 片頭痛患者のSF-36スコアと米国一般成人ノルムの比較
Dahlöf C et al.(1997)"Health-related quality of life in a multinational investigation of subcutaneous sumatriptan" PharmacoEconomics — スマトリプタン治療によるSF-36改善
Drummond MF et al.(2015)Methods for the Economic Evaluation of Health Care Programmes — 薬価経済学の標準教科書
NICE(2026)"Changes to NICE's cost-effectiveness thresholds take effect" — 英国NICEの費用対効果しきい値変更
NICE Technology appraisal and highly specialised technologies guidance: the manual(PMG36)— 英国NICEの評価手法(EQ-5D優先の記載を含む)
ICER(2023)ICER's Reference Case for Economic Analyses — 米国ICERの標準的分析手法
厚生労働省(2019)「費用対効果評価の制度化について」/(2024)「令和6年度診療報酬改定の概要【費用対効果評価制度】」 — 日本の費用対効果評価制度
Shiroiwa T et al.(2010)"International survey on WTP for one additional QALY gained" Health Economics — 各国のQALY支払意思額の国際比較
Neumann PJ et al.(2014)"Updating cost-effectiveness — the curious resilience of the $50,000-per-QALY threshold" NEJM — QALYしきい値の歴史的背景
CMS "Medicare Drug Price Negotiation Program: Negotiated Prices for Initial Price Applicability Year 2026" — IRAに基づくMedicare薬価交渉(2026年発効)
Australian Government Department of Health and Aged Care(2024)HTA Policy and Methods Review — 豪州HTAにおける経済評価の考え方
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それでは、また次回の記事で。
Hiro|製薬企業の経営企画担当(公認会計士)。製薬業界をビジネス視点で解説。
