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米国の薬価はなぜ複雑か——多重価格と「企業にいくら残るか」 #20

このシリーズのラインナップは→ 第1回の記事でご確認いただけます。


製薬業界を学び直すなかで、私がいちばん手こずったのが、この米国の薬価と「アクセス(保険でどうカバーされるか)」だった。

日本語では、米国の薬価やアクセスの仕組みを正面から解説した本が、ほとんど見当たらない。断片的な記事や英語の資料、各社のIRを少しずつ読みつないで、ようやく全体像が描けてきた——そういう分野だ。

それでも、ここを避けて製薬ビジネスは語れない。世界の医薬品市場のおよそ半分が米国であり、企業の売上と利益の最大の源泉が、この市場の「値付けとアクセス」の仕組みの中にあるからだ。だからこそ、苦労したぶん、できるだけ噛み砕いて整理したい。

さて、前回の続きに入ろう。

前回は、QALYやICERを使って「その薬に、その価格を払うだけの価値があるのか」を考える、薬価経済学の基本を見た。

では、そこで「価値に見合う」とされた価格は、そのまま製薬企業の売上になるのだろうか。

これを確かめるには、世界最大の医薬品市場・米国を見るのが分かりやすい。

そもそも、なぜ製薬企業は米国市場をこれほど重視するのか。

記事02でも触れたとおり、人口や経済規模だけが理由ではない。

米国では、日本や欧州の多くの国のように、政府がすべての医薬品について全国一律の公定価格を決める仕組みではなく、メーカーがまずリスト価格を設定する。

その後、保険者、PBM、政府制度との交渉や割引を通じて実質価格が形成される。

この仕組みのもとで、米国は製薬企業にとって大きな売上と利益を生みやすい市場となってきた。

しかし、その「自由に価格を決められる」の裏側は、単純な自由市場ではない。公定価格がない代わりに、メーカー・卸・薬局・PBM・保険者・患者が複雑に絡み合い、同じ薬に複数の"価格"が同時に存在する

たとえば、新薬の価格が「年間20万ドル」と発表されたとする。製薬企業は、患者1人につき本当に20万ドルを受け取るのか。

答えは、必ずしもそうではない。

米国では、同じ薬について、

  • メーカーが公表する価格

  • メーカーに実質的に残る価格

  • 保険者が支払いの基準にする価格

  • 患者が窓口で負担する価格

が、すべて異なる。さらに、薬局で受け取る薬と、病院で投与される薬とでは、お金の流れ自体も違う。

この記事のねらいは、その複雑な構造を解きほぐし、

発表される価格ではなく、結局いくらが企業に残るのか

を読めるようにすることだ。米国薬価で大事なのは「この薬はいくらか」ではなく、「誰にとっての、どの価格なのか」である。



米国には「一つの価格」がない

米国では、同じ薬に複数の価格が併存する——これがこの記事の出発点だ。まず、これから登場する主な価格を、地図として一覧にしておく。一度にすべて覚える必要はない。あとで一つずつ、登場する場面で見ていく。

  • WAC: メーカーが設定する「表の価格」(リスト価格)

  • Net Price: リベートや各種割引を引いた後、メーカーに実質的に残る価格

  • ASP: 販売価格の平均。医療機関で投与する薬の償還基準になる

  • 償還価格: 保険者が薬局・医療機関に支払う際の基準価格

  • 患者負担: 患者が窓口で実際に支払う額

まずは、最も基本となる WACNet Price から見ていく。残る ASP は、後半の「医療給付」のところで登場する。

WAC——表に見える価格

WAC(Wholesale Acquisition Cost)は、メーカーが卸売業者や直接購入者向けに設定する、値引き前のリスト価格である。新薬の上市時に報じられる価格は、WACを基準にしていることが多い。ただし、日本の公定薬価とは異なり、政府が全国一律に決める価格ではない。

Net Price——メーカーに実質的に残る価格

メーカーの売上からは、さまざまな金額が差し引かれる。民間保険やPBMへのリベート、政府向けの割引、医療機関向けのチャージバック、流通手数料、患者負担支援、返品などである。

こうした控除を差し引いた後、メーカーに実質的に残る価格がNet Priceだ。WACからNet Priceに至るまでの調整を、業界ではGross-to-Netと呼ぶ。

ただし、製品別の正確なNet Priceは通常公開されない。そのため投資家は、決算資料に出てくる「Gross-to-Net」「Rebate Pressure」「Net Price Erosion」「Price/Volume」といった表現から、実質価格の変化を読み取ることになる。


二つのお金の流れ——薬局給付と医療給付

米国では、薬の使われ方によって、価格と償還の仕組みが大きく二つに分かれる。

すべての薬がきれいに二分されるわけではないが、投資家にとって「その薬が主に薬局給付か、医療給付か」を確認することは重要だ。給付ルートによって、売上を左右する要因がまるで変わるからである。



薬局給付——WACからリベートが引かれる

薬局給付では、薬は典型的にこう流れる。

製薬企業 → 卸売業者 → 薬局 → 患者

一方、保険会社や雇用主は、薬剤給付の管理をPBMに委託することが多い。PBMは、保険で使いやすい薬のリスト(フォーミュラリー)の管理、製薬企業との価格交渉、薬局ネットワークの管理などを担う。

メーカーは、自社の薬をフォーミュラリーで有利な位置に置くため、PBM・保険者にリベートを提示することがある。

数字で見る薬局給付

ここでは、仕組みを理解するための単純化した例を考える。

薬局での保険上の取引価格が1,000ドルで、患者の自己負担がその20%だと仮定する。

  • 患者が薬局へ200ドルを支払う

  • 保険プラン側が薬局へ800ドルを支払う

  • 薬局は合計1,000ドルを受け取る

ただし、この1,000ドルをメーカーがそのまま受け取るわけではない。

メーカーから卸、卸から薬局への販売は別の取引であり、それぞれに仕入れ価格や流通マージンがある。

仮に、メーカーが卸などへの販売によって950ドルを計上し、その後、保険者・PBM側へのリベートや各種控除として400ドルを負担するとする。

この場合、メーカーに実質的に残るNet Priceは、おおむね550ドルとなる。

メーカーの販売額950ドル − リベート等400ドル = Net Price 550ドル

一方、患者の200ドルは、メーカーのNet Priceではなく、薬局での保険上の取引価格をもとに計算されている。


医療給付——ASPで医療機関に償還する

次に、病院や診療所で投与される薬を見よう。医療給付では、薬はこう流れる。

製薬企業 → 卸売業者 → 医療機関 → 患者に投与

医療機関が薬を購入し、患者に投与した後で保険者に請求するこの仕組みは、Buy and Billと呼ばれる。

Medicare Part Bでは、多くの医療機関投与薬について、**ASP(Average Sales Price:平均販売価格)**をもとに支払額が決まる。

ASPは値引き等を反映した市場全体の平均価格であり、メーカーの実現価格を推測する手掛かりにはなる。

ただし、個別の医療機関の仕入れ値や、特定の投与分についてメーカーに残った金額を直接示すものではない。

Medicareは、多くの別払い対象薬について、原則として**ASP+6%**を医療機関への支払基準としている。

ただし、実際のMedicare支払いにはシークエスターと呼ばれる強制歳出削減が適用されるため、医療機関が受け取る実質的な支払額は、一般にASP+4.3%程度になる。

数字で見る医療給付


ある薬について、ASPが800ドルとする。

Medicareの医療機関への薬剤支払基準を単純化すると、

800ドル × 106% = 848ドル

となる。

Part Bの患者負担を原則20%として計算すれば、患者が約170ドル、Medicareが約678ドルを医療機関へ支払う形になる。ただし、患者が補足保険などに加入していれば、実際の窓口負担は異なる。

ここでは、卸売業者の流通マージンなどを含め、医療機関がこの薬を810ドルで取得したと仮定する。

この場合、医療機関が患者とMedicareから受け取る848ドルと、薬の取得価格810ドルとの差は、38ドルとなる。

848ドル − 810ドル = 38ドル

ただし、ASPは値引き等を反映した市場全体の平均価格であり、医療機関の実際の取得価格そのものではない。

医療機関がASPより安く購入できれば薬剤部分の差額は大きくなり、ASPより高い価格で購入すれば採算は厳しくなる。今回の810ドルという取得価格と、卸売業者の流通差額10ドルは、仕組みを説明するための単純化した仮定である。

また、薬剤の投与や診察などに対する支払いは、薬剤そのものの支払いとは別に算定される場合がある。そのため、この38ドルを医療機関の最終的な利益と考えることはできない。


ローンチ価格はどう決まるか

ローンチ価格は、前回(記事19)見た臨床・経済的価値だけでは決まらない。企業は、

  • QALYやICERから見た薬の価値

  • 競合薬のWACや推定Net Price

  • 保険者が受け入れられる価格と条件

  • 薬局給付か医療給付か

  • 想定されるGross-to-Net

を踏まえて価格を設定する。企業が見ているのは発表するWACだけではなく、最終的にどれだけのNet Priceと販売数量を実現できるかまでである。


IRAが価格構造を変え始めている

2022年に成立したIRA(Inflation Reduction Act)によって、Medicareは一定条件を満たす高支出薬について、メーカーと価格交渉を行えるようになった。

最初の交渉対象は、Part Dの10薬。交渉価格であるMFP(Maximum Fair Price)は2026年1月から適用されている。たとえばEliquis(一般名:アピキサバン)では、CMSが比較基準とした2023年の30日分リスト価格521ドルに対し、2026年のMFPは231ドルとされた(リスト価格比で約56%低い)。

ただしこれはリスト価格とMFPの比較であり、メーカーがそれまで実際に得ていたNet Priceとの比較ではない。この数字をそのまま売上減少率とは読めない点に注意が要る。

さらに、2028年適用分からは、初めてPart B(医療機関投与)薬も交渉対象に含まれるようになった。IRAの影響は、薬局給付だけでなく医療給付にも広がり始めている。

なお、米国の薬価を下げる圧力はIRAだけではない。他国の低い薬価を米国価格の参照に使おうとするMFN(最恵国待遇)の動きもある。IRAとMFNが「米国なら高く売れる」という前提をどう揺らし始めているかは、過去記事で世界市場の構造とあわせて整理している。

そのMFNは、2025年から2026年にかけて製薬大手17社との個別合意という形で具体化した。企業が何を値下げし、何と引き換えにそれを飲んだのかは、「薬価引き下げに合意」の実態——製薬17社が差し出したものと、得たもので扱っている。


投資家が現実に見られること

ここまで見たとおり、米国薬価は複雑だ。

外部の投資家が、製品ごとの正確なNet Priceを把握することは難しい。リベートや各種控除の詳細が通常公開されないからである。

一方、Medicare Part B薬については、CMSが四半期ごとにASPを反映した支払上限額を公表しているため、対象薬のASP動向をある程度追うことができる。

ただし、ASPも個別取引におけるメーカーの最終的な手取り額そのものではない。したがって、ASPはNet Priceの完全な代替指標ではない。

そのため、投資家にとっては、公開されるASPデータに加え、企業が決算で価格と数量をどう説明しているかを読むことが実践的になる。

  • 売上の伸びは「数量」によるものか、「価格」によるものか

  • 「Net Price Erosion」「リベート圧力」といった、実質価格の低下に触れていないか

  • IRAの価格交渉や、競合・バイオシミラーの影響をどう説明しているか

そして、最後に一つだけ覚えておくなら、これだ。

製薬企業の売上は「WAC × 患者数」ではなく、「販売数量 × メーカーの実現Net Price」に近い。

発表されるWACが上がっていても、Net Priceが下がっていれば、収益性は改善していないかもしれない。「表の価格」ではなく「実際に残る価格」の動きを見る——これが米国薬価を読む、投資家にとっての一番の勘どころである。


まとめ——米国薬価は「誰の価格か」で読む

米国では、メーカーが設定するWACから、保険者・PBMとの交渉、リベート、流通取引を経て、実質的な価格が形成される。

そのため、同じ薬についても、

  • メーカーが公表するWAC

  • メーカーに実質的に残るNet Price

  • 薬局や医療機関への償還額

  • 患者の自己負担額

は一致しない。

さらに、薬局給付ではPBM、リベート、フォーミュラリーが、医療給付ではASPと医療機関の取得価格が重要になる。

米国薬価を読むときに必要なのは、次の二つの問いである。

誰にとっての、どの価格なのか。

その薬は、どの給付ルートで患者に届くのか。

次回は、この価格の"裏側"——誰が払い、どうカバーするのかを見ていく。米国では、価格と「市場アクセス(保険でカバーされ、使える薬になること)」は表裏一体だ。保険の地図と、薬のタイプ別の狙い方を整理する。


参考資料

  • 42 U.S.C. §1395w-3a — WACおよびASPの法的定義

  • CMS「Medicare Part B Drug Average Sales Price」

  • CMS「Medicare Part D — Direct and Indirect Remuneration(DIR)」

  • Federal Trade Commission(2024)"Pharmacy Benefit Managers: The Powerful Middlemen Inflating Drug Costs"

  • CMS「Medicare Drug Price Negotiation Program: Negotiated Prices for Initial Price Applicability Year 2026」

  • CMS「Selected Drugs for Initial Price Applicability Year 2028」

  • 米国上場製薬企業のForm 10-K — Net Product Revenue/Gross-to-Net関連開示


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それでは、また次回の記事で。

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