犬だった君と人間だった私の物語【第3話】中庭
犬になった敏子は、人間だったあの頃を思い出していた。
「おばあちゃん!」
明るく弾むような声がする方を向くと、病室の入り口に娘の博美と孫の紀花が笑顔で立っていた。白い細身のパンツをはきこなし、ショートカットが似合う博美。その笑顔はいつも花が咲いたように明るかった。孫の紀花も母親に似てよく笑う明るい女の子だ。黒目がちな目と小さな鼻、少しクセのある髪の毛を二つに結び、短い前髪もよく似合っていた。
博美は同室の患者に愛想良く会釈をしながら一番奥にある敏子のベッドにやってきた。まだ幼い紀花も、博美の真似をして不器用なお辞儀をしながらやってきた。その愛らしい姿を見て、敏子は眼を細めながらにっこりと笑い、枕元のコントローラーでゆっくりとベッドを起こした。そして、目の前の紀花をふんわりと優しく抱き寄せると、紀花も嬉しそうに敏子に身を委ねた。
「お母さん、体調はどう?」
「そうね、まずまずね」
何か言いたそうな敏子の様子に気が付き、博美は明るく促した。
「なぁに? どうしたの?」
「……もうすぐ個室に移動になるでしょ。この中庭の景色が眺められなくなると思うと、ちょっと寂しくてね」
敏子はおっとりとした口調で答えた。敏子は来月、4人部屋の病室から個室へ移動することが決まっていた。それは自分の余命が残り少ないことを敏子に予感させていた。
「そっか……」
気持ちを察した博美はそう言って間を繋ぐと、敏子にかける言葉を探しながらベッド脇の引き出しにあるブラシを手に取り、敏子の髪の毛を丁寧にとかした。昔から身だしなみに気を配りおしゃれが好きな敏子だったが、入院以来、白髪染めをしておらず今は綺麗なグレーヘアになっていた。博美はブラシを置くと、ベッドの背もたれを倒し、敏子の背中にそっと手をまわしながら、ゆっくりと横に寝かせ布団をかけた。
敏子は天井を眺めながら、まるでそこに風景が見えるかのように話し始めた。
「中庭の大きな木、あれは桜の木なんですって」
病室から見える中庭の中央には、病院のシンボルとして樹齢50年にもなる桜の木が植えられていた。夏のこの時期は新緑の葉がしげり、そよ風に揺れてキラキラと光っている。
「あの木の下のベンチはね、自分が患者であることを忘れさせてくれる特別な場所だと思うの。みんな木漏れ日の中で、お見舞いに来てくれた人と楽しそうに語らっていてね。そんな人たちを眺めていると私も温かい気持ちになるのよ。だからね、あの桜が咲いたらどんなに綺麗だろう、みんなはどんな嬉しい表情を浮かべるだろう、って楽しみにしていたの」
そんな敏子を不憫に思った博美は明るく励ました。
「おかあさん、大丈夫。中庭が見えない部屋に移っても、私と紀花が中庭の様子を報告してあげるからね」
それを聞くと敏子は、ゆっくりと窓の方に目をやり、高い空に流れる浮雲を眺めながら続けた。
「それとね、奥の門の所にね、警備員さんが立っているのが見えるかしら?」
博美は中庭の奥にある病院の門に目をやった。
「あ、見えるよ。小柄な年配のおじさんがいるよ」
敏子は、博美の顔を見てにっこりと頷いた。
「あの人はね、暑い日も風が強い日も、雨の日は雨合羽を着てお仕事を頑張っていてね。車を誘導した後に深々と頭を下げて、とっても礼儀正しいのよ。誠心誠意、一生懸命働いている姿が眩しくて、私は元気をもらっているのよ」
すると、紀花が背伸びをして窓枠に手を掛け外を見た。
「あ、ほんとだ、おじしゃん、こっちにどうぞってやってるよ」
敏子は、紀花がかわいくて仕方ないという表情で、ゆっくりと頷いた。
中庭の桜の木も、そんな敏子の話に優しく相槌を打つかのように、柔らかく風に揺れていた。
秋になり、赤や黄色に染まった桜の葉が散り始めた頃
個室に移った敏子は日に日に弱っていった。中庭も見えず、部屋にたった一人の敏子にとって、博美と紀花に会える面会時間は唯一の癒しだった。自力では起き上がれない敏子を見舞いに、博美は毎日かかさず病室に通っていた。博美が中庭の様子を話すと、紀花も誘導棒を振る仕草を真似して見せた。
「おじしゃん、がんばってたよ」
「まぁ、のんちゃん。ありがとうね」
敏子は愛おしそうに紀花をみつめると、小さな声でゆっくりと答えた。紀花は、満足そうにはにかんだ。
2ヶ月後
朝から静かに雨が降り続く寒い日だった。寝たきりになった敏子は、ただただその雨音に耳を澄ましていた。
「お母さん、来たわよ」
博美は紀花を連れてやって来ると、いつものように明るく話しかけた。冷たい雨でかなり体が冷えているようで、二人とも厚手のコートを着たまま、鼻を赤くして病室に入ってきた。紀花は敏子が編んだ赤い手編みのマフラーを巻いている。博美はその姿を敏子に見せたかったのだが、敏子は目を開けることなく、そのまま静かに呼吸を続けていた。
まつ毛までも白くなった敏子の顔を見て、博美は目頭が熱くなるのを感じ、慌てて視線をそらした。そして、コートを脱ぎながら気持ちを切り替えたように、また明るい声で他愛もない話を始めた。
紀花のワンピースの丈が、いつの間にか短くなっていたこと。夫と二人で寝坊をしてしまい、結局あきらめて二人揃って会社を休んだこと。敏子の佃煮を真似して作ったはずが、全く違う味になってしまったことなど、毎日来ていても敏子に聞いて欲しい話は尽きなかった。博美の声は敏子の耳に届いていたが、弱った敏子は反応することができなかった。
静かに、そして必死に命を維持している敏子。その姿をしばらく見つめると、博美は久しぶりに中庭の話をした。
「ねえ、お母さん。今日は雨だから中庭に人はいなかったけどね、あの警備員のおじさん、今日も寒い中頑張っていたよ」
すると紀花がびっくりした様子で博美の顔を見上げた。なぜなら、あの門には自動のゲートバーが設置され、いつもいたあの警備員さんは、もう2週間も前にいなくなっていたからだ。博美は、敏子から見えないようにこっそり紀花にウインクをした。その目は、今にも涙がこぼれそうなほど潤んでいた。
紀花がベッドに目をやると、敏子が静かに呼吸を繰り返しながら、ほんの少しほほ笑んだように見えた。
その日の夕方
定期的に敏子の容態を確認しに来ていた若い看護師が、担当医を連れて個室に入って来た。医者は敏子の様子を確認すると、静かな口調で博美に告げた。
「ご家族、ご親戚にご連絡をお願いします」
そして、親族が集められ、みんなに見守られながら敏子は天国へ旅立ったのであった。
朝から降り続いていた雨は雪へと変わり、いつの間にか、月夜にたたずむ桜の木の枝を白く覆っていた。
第4話につづく
第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)
