エレナ婦人の教え 第一話「ふしぎな出逢い」第5章~第9章
第1章からの話(あらすじ・目次含む)はこちら
第2章~第4章
つづく第10章~第11章はこちら
第5章 主役
あれから何度そのパン屋を訪れただろうか……。「エレナさんに逢いたい――」その一心だった。だが、あの日以来彼女を見かけることはなかった。
「せめて連絡先くらい聴いておけばよかった……」悔やんでも後の祭り。くる日もくる日も彼女のことを思い出す――その度にカフェに立ち寄った。
どうしてあのタイミングに出逢えたのだろう……? 理由をあれこれ考えてみた。けど、答えは出ない。うまくは説明できないが、たぶんこういうことだろう。
諦めたときに、鉄の扉は開く――、と。
一般的には「諦めなければうまくいく」とか「成功するまで諦めないこと」などという。しかしやってもやってもままならないか、むしろ状況は悪化していくことだってあるからだ。
何もかも諦めたとき、彼女は現れた。
これまで僕は職場を盛り上げることに一所懸命だった。それなりには評価され、場を明るくすることにひと役買っていた。
だがあの上司がきてからというもの、やることなすことすべてがけなされ、空回りする自分がいた。やっかい者扱いされ、「何の役にも立たない」とらく印を押された。「このままじゃつぶれる……。もうダメだ」と思った瞬間、彼女と出逢えたのだ。
評価を手放したせいか、それまで居場所と思っていた職場に対しても違和感が出はじめた。自分だけが浮いている、そんな気がしたのだ。
一時は錯覚か、とも思った。廊下ですれ違う女性といつも通りのたわいもない話をできていたからだ。ただなにかが違う、これまでとは景色が。別の居場所にも観えるのだ。
それはまるで気球に乗せられた気分だ。見慣れた場所が次第に遠のいていく、そんな感覚だった。
どこからきているのだろう……この感覚は。答えはいくら考えても見つからなかった。エレナさんと出逢って半年が過ぎ、記憶も薄れかけた頃、ふと、出逢ったときに話題となった山沿いのカフェを思い出し、立ち寄ってみた。
扉を開けると聴き覚えのある声がした。奥にはワイン色のベレー帽を斜めにかぶった女性がいる。顔が隠れていたせいか、それが誰なのか、すぐにはわからなかった。
「まぁ、あなたじゃない」
「エレナさんじゃないですか! 逢いたかった」
僕は、その声の主がエレナさんとわかり、久しぶりに逢う恋人に話しかけるように、想いの丈をぶつけた。
「ヒロさんちょっと待って。話を急ぎ過ぎよ」
「わ、わかっています。で、ですが……。今度、ご自宅に寄らせてくださいっ」
必死だった。このチャンスを逃すわけにはいかない。断られても押しかける勢いで僕は話した。
「わかったわ、そこまで想ってくれているのなら断れないわね。それじゃ一つ約束してくれないかしら。いまはゆっくりとくつろぐこと。いまこの瞬間を味わうこと。いい?」
「え、えぇ。わかりました」
想いは通じた。次の日曜日、エレナ邸にお邪魔することにした。
第6章 邸宅 海のほとりにて
待ちに待った日曜日の朝、愛車コルベットをガレージから出すことにした。年代もののこの車を動かすのは久し振りだ。ふだん乗ることがないから、ボディにはほこりがかぶり、タイヤ周りにはドロが付いている。そこで朝から洗い流すことにした。お邪魔するのに汚れたままでは失礼だからだ。
エレナ邸は、美しい海岸線の観える、白い崖の上にあるという。シワクチャになった手書きメモを頼りに、僕は車を走らせた。
山肌に沿ったうねるようなカーブ。そこは幅が狭く、道路からタイヤがはみ出さないかとヒヤヒヤした。山頂が近くなるに連れ、道幅はさらに狭くなっていく。そこで少しアクセルを戻し、スピードをゆるめた。すると見渡す限りの美しい砂浜が現れ、白い一軒家が観えてきた。
あ、あれかな……。人里離れたところに、こんなにしゃれた家があるなんて――。覆(おお)い茂る森がカモフラージュの役目をし、目立たないように建っていた。
邸宅に近づくと、一気に森が開け、原っぱに遭遇した。家を取り囲むように、きれいに砂利が敷き詰められてある。周りは亜熱帯植物や果物の木々が覆い茂り、来客を待ち構えるように、ていねいに刈り取られていた。それは取りもなおさず、彼女のセンスの良さを物語っていた。
ヨーロッパ風木造2階建て。白木でできたこの家は、建って50年は過ぎているだろうか。外壁は塗装を塗り直し、きれいに補修されていた。そのせいだろうか、建てられた時よりも風格を漂わせている印象だ。僕は屋根付きガレージに置かれたフィアットの隣に車を停め、扉のベルを押した。白木の枠が美しい。
「カン・コーン」
まるで外国の邸宅のような呼び鈴だ。
「いらっしゃい。お待ちしていたわ。どうぞお入りになって」
毛がフサフサで着心地よさそうなブラウンのガウンを着て、彼女は出迎えてくれた。
僕の人生の、これからを左右する話が聴けるかもしれない。
胸の高鳴りを押さえつつ、静かに中へ入っていった。
第7章 初めての団らん
屋敷内は薄暗かった。ヨーロッパの家は日本のつくりとは違い、それほど明るくはない。それがかえって、いまの僕には心地よく感じられた。
長い廊下を抜けると、キッチン・ダイニングの部屋に出くわした。木彫りの人形、陶器でできた調味料入りのビン、長さが自在に変えられるテーブル、毛先が短めのじゅうたん、白く塗られた牛革のソファ……。ふだん見ることのない調度品が次々と目に飛び込んできた。
「おかけになって。そこでゆっくりしていてね」
彼女は僕にソファに座るよううながし、ランチの仕度をしはじめた。
窓の外には海が観えた。それはどこまでも青く、広かった。波しぶきが一列に並び、塩のかたまりのようだった。遠くの水平線には、うっすらと虹も観えた。
なんて美しい景色だろう……。こんな場所が日本にあったなんて――まるで高画質のパノラマ映画を観させられている感じだ。しばしの間、僕は窓から目を離すことができなかった。しばらくすると奥の部屋から、スリッパの音が近づいてきた。
その音の主は女の子だった。こんな話聴いていなかったぞ。一人暮らしと思っていたのに……。想いを巡らせていると、その子はテーブルの前で立ち止まった。
透き通るような肌、マリンブルーの瞳――。少し長めの髪はこげ茶に近いブラウンで、後ろできれいに束ねてある。この子も外国の血が混じっているのか――僕は勝手な想像ばかりした。
「カレン、この人がこの間出逢ったヒロさんよ。あいさつをなさい」
「はじめまして。カレンです」
彼女とは、ひと言ふた言しかかわさなかった。エレナさんに似て、見た目通りのその美しい声に、僕は聴き惚れていた。
続けてエレナさんが説明してくれた。
彼女はエレナさんの孫に当たる。物心が付く3歳の頃、両親の元を離れ、エレナさんに預けられたそうだ。その後両親は離婚――。それぞれオーストリアで別の家庭を持った。
別れてから一度も両親と逢ったことはなく、顔も覚えていないという。無邪気さの中に時折り見せるさびしげな顔、それが少し気になった。
「カレンの母親が私の娘なの。向こう見ずな私の娘はね、カレンを置いて帰ってはこなかった。もしかすると私のしつけが厳し過ぎたのかもしれない――そう思っていまでも後悔しているの」
エレナさんは、なにか遠くを見るようなまなざしで僕に語った。
第8章 ひととき
「パスタは、お好きかしら?」
カレンの声で我に返った。ちょうど彼女の過去に思いを巡らせていたところだったので、そのあまりの明るく、さわやかな声にハッとした。
カレンの作るパスタは、ねじった形でひと口サイズ。木をくりぬいたボウルに色とりどりの野菜と共に盛ってある。
「えっ、えぇ……そうですねぇ」
なにもかもがはじめてで、まだその場になじめない僕は、なんとも愛想のない返事をした。するとこちらの気持ちを察してくれたのか、エレナさんが続けてくれた。
「これはね、カレン特製のサラダパスタ――。私たちは、南フランスやスペイン、イタリーなど地中海周辺の国々を旅するの。そこで知り合った人の家にお邪魔したり、お気に入りレストランを訪ねるの。
カレンは器用だから、出された料理を見て、作った人にちょこっと尋ねるだけで、同じ料理を再現してしまうのよ」
「それは、すごい」
思わず唸った。ふだん料理には興味を示さない僕でも、およそ人が真似できないことをするのなら話は別だ。
気づくと、いつしか時は流れていた。慣れないことが続き、僕はどこかそわそわした。
「エレナさん、なんだか落ち着きません。ご厚意はありがたいのですが……。なにもせずにいていいのですか?」
「いいのよ。ゆっくりしてて。今日はあなたをもてなす日なんだから。
慣れてないおもてなしが続くとうれしい反面自分にはふさわしくないって思うわよね。一流ホテルに泊まるときなんかは特にそう。おもてなしが心地良過ぎて、逆に違和感があるのね」
慣れていないのだから落ち着かなくてイイ――そう思うと気が楽になった。
山盛りのサラダ、オリーブの実が沢山入ったパスタ、もぎたての果物、荒塩をまぶしたパン。その一つひとつが味わい深かった。エレナさんの食卓では、これがいつもの光景なのだろう。
「なんでもお金をかければいいってわけじゃないわ。和気あいあいとするひととき、それがとっても大事なの」
エレナさんに導かれるように、いまはこのひとときを楽しむことにした。
第9章 知られざる過去~さざなみの砂浜にて
食事がひと段落すると、エレナさんはテーブル上の皿を重ねはじめた。
「少し外の空気を吸っていらっしゃい。ここの潮風はとても心地いいわ」
彼女にうながされ、カレンと僕は外に出た。
人が通ることはめったにないのだろう――山道には草が覆い茂っていた。周りの木々が日差しをさえぎり、あたり一面暗かった。僕はカレンの手を引き足元をたしかめながら山道を下りていった。下りていくにつれ、ザザーッ、ザザーッと押しては引く波の音が、次第に大きくなっていった。
10分ほど歩いただろうか、気がつくと砂浜に立っていた。そこにカレンと二人並んで腰を下ろした。膝上10センチの白いズボンの下からは、スラリと美しい脚が伸びていた。僕はドキッとし、目のやり場に困った。
彼女は履いていたサンダルを脱ぎ捨て、砂浜に素足をうずめた。
「さびしいときは、ここにくるの。波の音を聴いていると、落ち着くのね」
逢ったばかりなのに、彼女はとても自然だ。無理したところが一つも無い。
「私の記憶は、波の音と美しい砂浜の光景だけ。楽しい記憶だけしかないの。住んでいた所、両親の顔は、どうしても思い出せない。思い出そうと記憶をたどるんだけど、途中でいやな感じがして、いつもやめてしまうのね」
「そうなんだ……」
さびしげな、その表情を作っていた理由を見つけた気がして、少しだけ彼女のことがわかった。
「ところで日頃はどんなことをしているんだい?」
少し会話が重くなったので、話題を変えることにした。
「絵を描いたり、詩を書いたり……。ときにはね、波の音をバックに歌を口ずさんだり……」
カレンはクスっと微笑むと、パッと頬に赤みがさした。
「へぇー、そうなんだ。すごいロマンチストだね。僕も絵や音楽は好きだけど、うまくやろうとするとダメだね。なぜかいつもそんな感じなんだ」
「そうね、私だってそう。うまくやろうとするとかえってダメ、いいものができない。やっぱり自分が楽しめているかが大事、それって人に伝わるから……」
エレナさんに育てられたせいか、カレンのことばも僕の胸によく響く。
「私ね、好きな人がいたの」
遠くに流れるちぎれ雲を見つめながら、おもむろに彼女はつぶやいた。
「だけど死んじゃったの。はねられそうになった子どもを助けようとして……。
彼が死んだ後もその子のお母さん、何度もお礼を言いに訪ねてきたわ。その子ももうすぐ11歳――。ずいぶん大きくなっちゃってね、オマセさんなのよ。ずっと私のことを気づかってくれて、まるで彼そっくりのやさしさなの。
その子を見ていると、彼に包まれているようで安心するの。その子が彼の生まれ変わりのような気がして、やさしさにくるまれるのね、きっと……」
話を聴いているうち、僕は黙り込んでしまった。なにかいけないことを聴いた気がして、どうことばをかけていいかわからなくなったのだ。
「ごめん……。なんと言っていいかわからなくて……」
「気にしなくてもいいわ。もう終わったことだから。気持ちの整理をつけるのは大変だったけど……」
波打ち際に置いた彼女の手に、僕はそっと手を重ねた。
第10章 夕暮れ につづく
