エリック 優雅なる生活 第一話 『チョコレート工場にて』第6章~第8章
・第一話『チョコレート工場にて』第1章(あらすじ含む)~はこちら
・第2章~第5章
第6章 情熱
「組織が大きくなると、意思の疎通が難しくなります。面と向かうことはなくなり連絡はもっぱらメールやSNS。あ・うんの呼吸で話が飛び交い盛り上がっているときはいいのですが、ふとしたことからスレちがいが生じます。文字だけじゃ本当のところはわかりませんからね。いらぬ妄想から次第に亀裂が大きくなり、収拾が付かなくなることもある。
かと言って面と向かって話すのもリスクがある。プラスの話なら聴いてもらえてもマイナスの話は相手を傷つけかねない。思わぬ反撃を食らうことだってある。
それなら言わないほうがマシ。しかし言わないでいると、次第に自分の想いが言えなくなる。不満を溜め込み、働く喜びを失ってしまう。ひいては自分の居場所さえも失っていく。
ただ辞めてどうこうなる話でもありません。僕自身辞めてはみたものの、これからどうしていけばいいか、いまだにわかりません。
第一やりたいことがわからない。仮にやりたいことがわかっても、どう仕事につなげればいいかわからない。はたしてそれでお金になるのか。
しかし何も考えずにまたどこかの会社に入ってしまうと、それはそれで別のしがらみがある。もちろんむやみに辞めたら何の保証もないことは百も承知です。けどだからと言って、やみくもに再就職しても元の木阿弥でしょう」
そこまで話したところで、さきほどの仕給係の女性がやってきた。足りなくなったのを見計らい、紅茶をつぎ足してくれた。ジャムとスコーンもテーブルに並べてくれた。小腹がすいてきた僕はスコーンにジャムを付け、かじりつきながら話を続けた。
「いままでは“辞めたい、辞めたい”って思っていました。毎日くすぶっていたし、職場の雰囲気にホトホト嫌気がさしていた。それでも辞めることはできず、何年も居続けた。辞めて路頭に迷うのが怖かったんです。
ただいまになって考えてみると、もう少し早く辞めてもよかったような気もします。イヤイヤ居残ったところで、意味なかったんじゃないかって……」
「いや、むしろそれがよかったのだ。そこで踏ん張ったからこそいまがある。そこで辞めなかったから得るものも多かったし、強くもなれたのだから……」
「もちろん最後はみんな祝福してはくれました。それはよかった。でも早く辞めなかったせいで心身共にボロボロになったんですよ。その意味では無駄な時間を過ごした気がします」
「罵倒される毎日、最悪とも言える状況にきみは遭遇した。傷つき、つぶれそうになりながらも踏ん張った。だからこそいまのきみがあるんじゃないかな。真剣に人生を考える、いいきっかけになった。優しくも強いきみが生まれた。そのときの経験が生きているんだ」
「そうでしょうか。僕にはそんなふうには思えません。自分のやりたいこともまだ見つけられないなんて……。こんなことで悩まされる優柔不断な自分の性格も嫌いです。一刻も早く性格を直したいし自信も付けたい。だけど一筋縄ではいかない。そんな自分にイライラするし、ヤキモキするんです」
「性格を直そうなんて考えなくていい。そんなことをしたところでますます気になるだけだ。自分を否定したところで発展はない」
「そうかもしれません。でも直したいじゃないですか、気にする性格を――。繊細過ぎる自分の性格じゃ女性にもナメられます。嫌ですそんなの」
正論ばかり振りかざすエリックさんにイラ付きはじめた僕は食ってかかるように言った。
「ハハハ、その調子だ。若者らしくていい。ではちょっとした息抜きにたとえ話をしよう。あるオフィスのドアが開いている。そのドアには“中を覗かないでください”と貼り紙がしてある。その文字を見た途端、気になって中を覗きたくなるんじゃないかな?」
「えぇ、まぁそうですね」
「別のたとえで話そうか。ファッションショーで、下着姿でさっそうと歩くスレンダーなトップモデルより、パーティーで、ヒザ上15センチのミニを履いた女の子のほうがドキッとしないかな。見てはいけないものを見てしまった気がして……」
そう言われた瞬間、あるブランドショップでの光景を思い出した。そこで働く女の子たちは、やたら短くていまにも見えそうなミニを履いていたからだ。
「人は“○○しちゃいけない”と言われれば言われるほど、かえって気になるものだ。“気にしちゃいけない”と言われれば逆に気になる。“前向きになれ”と言われれば、反対に後ろ向きな自分が気になる。
ヒロくんは感受性が強そうだ。ちょっとしたことで気にするんじゃないかな。まあ、それがいい方向に転ぶこともある。人の気持ちをくみ取れるという利点もあるからね」
「う~ん、わからないこともないですが……。でも繊細な人は傷つきやすいんじゃないですか。言われたことをイチイチ気にするわけだから。現に僕がそうです」
エリックさんはスプーンでジャムをひとすくいすると、スコーンに乗せひと口ほおばった。口の中で香ばしい味を楽しむそぶりを見せこう言った。
「きみには“何を言ってもこの人は受け止めてくれる”というどこか安心を感じさせるところがある。悪く言えば“ナメてもいい”という感じかな。どちらにしても相手はきみに気を許している。だから文句もぶつけてくる」
「ええそうです。不平不満や文句ばっかし言われます」
「そうだろう。だが相手も悪気があってしているわけじゃない。何かイラ立ちをぶつけている。それは相手の問題。それに対しこちらがどう反応し、対応するかだ」
「損な役回りですね。僕だって生身の人間です。言われれば心が痛むし傷つきます」
「もちろん最初はそうだろう。きみの傷に触れるからね。
批判された気がしてムキになる。だがそれもじきに慣れる」
「ホントですか? でもどうやって」
「自分のせいにし過ぎないこと。傷つきやすい人は何でも自分のせい、自分が悪者だと思うところがある。そう思いはじめると身動きが取れなくなる」
「たしかにそういうところがあります」
「なぜ痛むのか、相手のどんな言葉が傷に触れるのか、ときには立ち止まり、自分を振り返るといい。痛みから逃げず、そのまま染み入るように味わう。そのうち痛みは消えてゆく」
第7章 嫌なことの意味
彼はエレナ婦人や源三さんとも違うタイプの人だ。一言ひと言、言葉のはしばしにエレガントさがある。話しているうちこちらの才能や可能性を見つけてくれる。何がそうさせるのか。
「エリックさん、こんな感じのやり取りでいいんですか。これだけでわかってくるんですか、やりたいことが」
「そうだよ。あせる必要はない。ここオーストリアでは時の流れるまま身を任せればいい」
“カラン、カラン”
その言葉を聞いた瞬間、鈴を鳴らし、たづなを引く馬車が目の前を通り過ぎた。
「へえー、いまどき馬車が残っているんですか」
「ああ、意外に思えたかな。いまは車社会だから馬車なんて要らない、そんなふうに言う人も多い。だが好きで馬車に乗る人もいまだにいるんだ。
何でも早ければいいとは限らない。ゆっくり走るほうがいい場合もある。
ヨーロッパには古くからの伝統や文化がある。馬車もそのひとつ。永く続いている文化なんだ。日本にも歌舞伎や相撲、お祭りなどの伝統や文化ががあるだろう。多くを語らず静かな情熱を秘めた“サムライ・スピリット”を持つ日本人は、いまでもいるんじゃないかな」
「まさか! 伝統芸能や国技と言えるものはあります。けどいまどきサムライ・スピリットのある人なんていませんよ。あ、でも強いて言えば屋久島で会った源三さん、あの人なら男気あるからサムライと呼べるかも知れません」
「まだ日本人も捨てたものではないだろう。その源三さんとやらに共感するのなら、きみにもサムライ・スピリットがあるってことだね」
「ええっ、この僕がですか! そんな」
「いや、母から聴いたよ。きみが毎日上司に罵倒され、どんなに苦しくても逃げなかったと。それこそサムライと呼べるものだ」
「そんなこと考えてもみませんでした。ただ、負けるものか! っていう気持ちと、何とかこの場をしのぎ、少しでも状況を良くしていきたい、その想いだけでふんばりました。
強いて言えば、さきほどエリックさんもおっしゃったように、後でこの経験が役に立つはずだ、という淡い期待があったかもしれません」
「苦しい環境は時として人を強くする。嫌な人、苦手なことがきみに足りない何かを教えてくれたのだろう。ふつうはすぐに逃げたくなるものだ。だがきみは逃げなかった。真正面からぶつかった。だからここまで来れたんだよ」
「えっ? どういう意味ですか」
「真剣に自分の人生と向き合う、いいきっかけになったんじゃないかな。悩んだり苦しんだからこそものごとを突きつめて考えた。そのせいかある種の落ち着きがいまのきみにはある」
「そんなものですかね」
ふだん言われ慣れないことを言われたせいか、まるで実感が湧かなかった。
「ああ、成功する人は大きな失敗や何らかの挫折を経験していることが多い。だから強いのだ。その意味ではきみにも成功者の素質があると言える」
「えーっ、ぼ、僕がですか? そんなバカな……。かいかぶっているんじゃないですか? でもそう言われてみれば、少々のことでは動じなくなった気はたしかにします」
「準備は整っているんだよ」
エリックさんは意味深なことばを吐き、僕を次の場所へと連れていった。
第8章 観えない扉
メイン通りに視線を移した。するとさっきの馬車が停まっている。まだお客は乗せていないようだ。
「行こうか」
エリックさんはそう言うと、背中を向け、馬車のほうにスタスタと歩き出した。そのまま馬車のステップから乗り込み僕もそれに続いた。馬主が手綱を引くと、二頭の馬はゆっくりと歩き出した。パッコパッコという音が心地良い。走り出すと色とりどりに飾り付けられている家々が観えた。
「あの飾りつけは何ですか」
「今年はモーツァルト生誕250周年なんだ。それでザルツブルグやウィーンはもとより、オーストリアの街全体が賑わっているんだよ」
「そうなんですか」
男臭く威勢のいい日本の祭りとはまるで違う。エレガントな落ち着きが街の表情から見てとれる。ヨーロッパ風情を感じさせるこうした上品な風景もいいものだ。
「思う存分この地、オーストリアを味わってくれたまえ」
街の景色を眺めながら、エリックさんとのこれまでを振り返った。彼の言いたいことは、こういうことだろうか。
――ひとりで意気込んでも空回りする。日本とは勝手も違うし無理しても続かない、と。
「ここに来た意味はいずれわかる。オーストリアで吸収したものを日本へ持ち帰った後は、思い切りやりたいようにやればいい。まずはこの地に慣れることだ。
そろそろいいだろう。常日頃私が信条としていることを話そうか。ビジネスとは戦いではなく調和だと私は考えている。戦いには多くの犠牲や苦痛を伴うからね。もちろん勝つことにもそれなりの意味はある。だが勝つことばかりにとらわれれば何かを失う。
これからはクラシックのオーケストラのように、一人ひとりが周りと調和しながら最高の演奏という名の商品やサービスを世の中に送り出していく――そんな姿勢が必要になってくる」
エリックさんはシガーケースから葉巻をひとつ手にすると、年代モノと思われるジッポーのライターで火を付けた。火が消えぬよう2、3回吹かし煙とともに言葉を吐いた。
「いまは感じるままここに居たらいい。それが観えない扉を開くことになる」
意味ありげなそのことばは馬の足音にかき消された。馬車は街の中心を駆け抜け、しばらくすると中世ヨーロッパを思わせる白いお城の前で止まった。
「面白いものを見せてあげよう」
エリックさんはそう言うと、僕に馬車から降りるよう促した。
第二話『ビアホール・マインツ』につづく~
