エリック 優雅なる生活 第一話 『チョコレート工場にて』第2章~第5章
・第一話『チョコレート工場にて』第1章(あらすじ含む)はこちら
第2章 ライン川のほとりにて
ライン川のほとりにあるカフェ『ボンヌ』―-待ち合わせのその場所に、遅れないようにと約束より1時間早く着いておいた。テラスのイスに座り、カプチーノを飲みながら撮りためた写真を一つひとつ眺めていると、記憶が一気によみがえってきた。
時計の針を観た。約束の時間だ。視線を外に向けたちょうどそのとき、黒塗りの車が目の前で止まった。ダックスフントみたくずん胴なボンネットを構えたその車は、1950年代あたりに作られたクラシックカーだろうか。
「お待たせ」
品のいい紳士が後部座席から窓越しに声をかけてきた。エリックさんだ。目印にオレンジの帽子をかぶり、黒のバッグを肩からななめがけしておくと伝えていたので、すぐに気づいてくれた。
「ありがとう」
エリックさんは車から降りると運転手に礼を言い、後部座席のドアを閉めた。古い車のせいか“バン”という大きな音がする。僕はエリックさんを、でっぷりと太った資産家だと勝手にイメージしていた。ところがその予想は大きくはずれた。
カーキ色のスーツ、よく手入された芝生のようにきれいに揃えられた口ヒゲ、見るからにダンディーそうだ。粗削りな源三さんとはまるで違う。何とも言えない品の良さがある。これまで逢った誰とも違う。どこか違う世界にいる――そんな雰囲気を漂わせる人だ。
「ようこそ、オーストリアへ」
落ち着きはらった声はカフェのヴァイオリン弾きの奏でる音と重なった。美しく響く音色が彼との出逢いを一層引き立ててくれた。エリックさんは『ボンヌ』の常連客らしい。そのせいか、エリックさんが入り口に立つと、店長らしき人が小走りで近づき、奥へと案内してくれた。そこは窓からライン川を臨める特別席――眺めが最高の場所だった。
「長旅だったろう? 疲れはないかな」
エリックさんは、旅の疲れを気づかってくれた。
「いえ、大丈夫です。ここに来るまで時間に余裕がありました。おかげで旅の途中、いろんな所に立ち寄ることができました。休み休み来たせいか、初めての場所で少し緊張しているせいで感じないのか、疲れはそれほどでもないです。ご心配なく。
それよりお逢いできるのがうれしくて――。この日が待ち遠しかったです。日本にいたときはエリックさんのことを、どんな人かと想いを巡らしていました。ちょっと太った金持ちそうな人をイメージしていました。それにしても流暢な日本語ですね」
「おほめの言葉ありがとう。そう言ってくれてうれしいよ。ヒロくんの言う“金持ち”とはどういうイメージなのかな? 太ったイメージを持っていたのなら少々期待外れだったようだね。
もちろん太っていたときもあったよ。ぶくぶくとしていてね、わけもわからずバカ高いアクセサリーをジャラジャラ身につけていた。それがあるときからピッタリ止めてね、なんだかカッコ悪い気がしてね。
元々身なりを着飾るのは好きじゃない。どうかしていたんだ、あのときは。いまとなっては着こなしも質素なものでね。ちなみに日本語がうまくなったのは母が教えてくれたからだよ。少しなまってはいるがね」
「そんなことないです。お上手です。インターネット社会では誰でもむやみやたらと投稿できるようになって、言いっ放しの無責任な発言や汚い言葉が目立つようになりました。だからかえって日本語の美しさに触れた気がします」
エリックさんはヨーロッパ貴族を感じさせる雰囲気がある。何ごともスマートで品がある――そんな人に出逢えたことに感謝し、これからの日々に想いをはせた。
第3章 チョコレート工場にて
ライン川を眺めながらとりとめのない話をしていると、少し間が空いたところでエリックさんが切り出した。
「じゃあそろそろ出よう。きみに見せたいものがある」
エリックさんは飲みかけのカプチーノを一気に飲み干すと、口ひげに付いた泡を紙ナプキンできれいに拭き取った。
店の窓ガラスの向こうにはエリックさんを乗せてきたクラシックカーが止まっている。ふと我に返ると、エリックさんは消え、レジで会計を済ませていた。慌てて自分も彼の後を追うようにして外に出た。
ピカピカに磨かれたボディが建物の影を美しく映し出す。車に近づくにつれ、ワックスの香りがそよ風に乗って鼻の奥を突いてくる。
近くまで来ると、運転手はさっと外に出てドアを開けてくれた。僕はエリックさんに続く形でスルリとそこに乗り込んだ。
“バム”
外側から閉められたドアの音はさっきの音とは違ってどこかやさしげだった。運転手はハンドルを握ると、静かにアクセルを踏み込んだ。石畳の継ぎ目を拾いつつ、ソロソロと車は走り出す。外の景色はウインドウ越しに流れた。
車の窓から眺める“絵”はそのどれもが新鮮。まるでルーブル美術館に飾られた絵画やフランス映画を眺めているようだ。なんて絵になる光景だろう……。ここに住む人たちの日常は、毎日がこんな感じなのか。
10分ほど走っただろうか、突然“それ”は現れた。線路沿いの広い敷地に大きな建物――エリックさんの『チョコレート工場』はあった。レンガ色の“それ”は日本の倉庫のような味気ないものではない。中世から数百年続くお城のような建物だ。ここでは高級チョコレートを原材料からこだわって作り、詰め合わせまでを一貫しておこなっていた。
チョコレートはヨーロッパ全土に出荷されるという。チョコだけでなく、向こうの棟では素材感を生かす一風変わったパンも焼いていた。
工場の側面にある入り口の扉が少し開いていた。ぶ厚いウッド製の扉に吸い込まれるように中へ入ると、そこで働く人たちは作業の手を止め挨拶をしてくれた。日本の工場で働く無表情な人たちとは違う――どこか穏やかで楽しそうだ。笑みを絶やさない彼らを観ているとこっちまでうれしくなる。
第4章 初めてのレッスン
30代後半から40代前半くらいのチーフという男性に、ひと通り工場を案内してもらった。その後再び外に出て、従業員たちがくつろぐ場所へと移った。そこにはテーブルを囲む形で丸太のイスが4つ置いてある。実に日当たりが良く、ポカポカとした陽気が気持ちいい。
しばらくそこに座っていると、さっき入口で逢ったでっぷりと太った中年女性が、入れたての紅茶とでき立てのパン、それに小ぶりのチョコを運んできてくれた。こんなことを言っちゃ失礼かも知れないが、女性のサイズが大きい分、チョコのサイズは余計に小さく映った。その差があまりにもアンバランスで、つい含み笑いをしてしまったのだ。
小腹も空いていたし、手持ち無沙汰でもあったので、チョコを2・3個ポイと口に入れほおばっていると、エリックさんがおもむろに尋ねてきた。
「ところでヒロくん。一つ聴いておきたいことがある。どうしてわざわざこんな遠い所まで来たのかな。おおかたは母から聴いているが、きみの口から直接聴きたいと思ってね」
「正直よくわからないんです。ここに来れば何かわかるんじゃないか、変わるんじゃないかと思って……。正直これと言ってやりたいこともなかったし、何がモノになるのかもわからない。でもエリックさんに逢えば、何かヒントが得られるんじゃないかと思って来た、それだけなんです」
「なるほど。旅の目的はわかった。ただきみは将来を約束された会社を辞めたそうじゃないか。なぜそんなことまでしたのかな? 聴けば日本ではいったん辞めてしまうと、転職の道は厳しいというじゃないか。
次のアテも無く前途ある会社を辞めてしまうより、定年まで勤め上げ、退職金をもらってからでも遅くないのではないかな。自分の好きなことをし、やりたいことをするのは――。まずは収入を確保し人生設計を確立するほうが先決だ」
「ちょっと意外です、エリックさんからそんな話を聴かされるのは。僕の周りの視野の狭い人たちならともかく、まさか海の向こうのオーストリアで、自ら事業を立ち上げたエリックさんにまでそんなことを言われるとは思いも寄りませんでした。
でももうがまんできなかったんです。僕はこれまで、父や周りの人たちに合わせて生きてきました。言いなりだった。やりたいことなんてこれっぽっちもやれなかった。周りの目・評価を気にして遠慮ばかりしていた。そんな人生はもうコリゴリ。これ以上くすぶっていたくないんです」
そう答えると、エリックさんは僕の話をさえぎるように工場の窓へ視線を移した。しばし沈黙があり、こちらを思いやるように口を開いた。
「あせらなくていいんだよ」
そんなことを言われたところで、精一杯やってきた自分には響くはずもなく、余計なアドバイスにさえ聴こえてしまう。
「どこがいけないんですか!」
ムッとした。否定された気がしたからだ。
エリックさんは湯気の立つ紅茶をうまそうにとすすると、胸ポケットから革のシガーケースを取り出した。ケースから葉巻を一本手にし、ライターで火をつける。なんとも言えない香ばしい匂いが僕の鼻をつついてくる。
「ビジネスは基本が大切――足元をすくわれないようにね。
一刻も早く成功したい、精神的にも経済的にも豊かになりたい、そう思っているだろう。いまのきみにはあせりが観える。だが、ビジネス・人生には「時期」や「タイミング」というものがある。言ってみれば、それはワイン造りに似ている。熟成する時間が必要だ。手間ヒマを惜しみ、見切り発車すると痛い目に遭ってしまう。いともカンタンにつぶれてしまう。
一方ヨーロッパには1世紀以上続く企業がいくつもある。そういった企業は案外地味だ。ニュースや話題になることもない。目立たないのだ。
片やアメリカのシリコンバレーには急成長する企業がある。最近では中国、インドなど東アジア諸国も成長著しい。だがいつまでも成長できるとは限らない。土台がしっかりしてなければもろくも崩れるからね。彼らを見てごらん」
そう言ってエリックさんは工場で働く人たちを指差した。年配の男性、若い女性、さまざまな年代の人たちがいた。足が悪くてうまく歩けない人もいる。みんなに共通しているのはその表情が穏やかなこと。温かみがあるのだ。
「たしかにとても楽しそうです。日本じゃこういう光景はあまり見たことがありません。しかめっ面で仕事している人が多いです」
「それがふつうだ。仕事を楽しんではいけないという風潮はどの国にもあるからね。大切なのはその仕事をしながらそこになにかしら喜びがあることだ。どんなにお金があり有名になれても、そこに喜びがなければ苦痛だ。すればするほど仕事は辛いものになる。
いつかはこの世とおさらばする。そのとき人はこれまでの人生を振り返る。あれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかったと、後になってそう想う。ただ、いまの仕事がイヤだからと辞めたところでうまくいくとは限らない。
そうではなくいまいる場所でやってみる。むずかしい場所であってもやりたいことが少しでもやれれば本望じゃないかな。仮に失敗したところで大したダメージはない。逆にそれがいい思い出になることだってある。
ところできみはどんなことがやりたいのかな」
「そんなの、考えたこともなかったです。いまがよければいい……そう思っていました。毎日おいしいものを食べ、思い切り遊ぶ。欲しい物を買い、たまに旅行もする。気の置けない仲間と過ごし、彼女もいてくれたら最高ですね。
いや、彼女らしい子なら一応いるかな。あとお金もあるに越したことはないです。それくらいかな、思いつくのは」
「大概そんなものだ。私だってきみとそう変わらない。ただそういった欲求はじきに飽きる。満たされない想いを埋めているだけだからね。それよりももっと深い喜びがある。それは何だと思うかい?」
「何でしょう? 仕事でお金を稼ぐことでしょうか?」
「たしかにお金を稼ぐことも大事だ。企業であれば利益を出すのは最低限必要なことだからね。でなければ存続は危うい。
だがただお金を稼ぐことが目的じゃ味気ない。そこに何かしら喜びが無ければ。仕事を通じて何がしかの社会貢献――誰かの役に立っていなければやりがいは感じないし続かないだろう。
私の会社ではそれぞれが皆、自分の仕事を楽しんでいる。誰かに強制され、やらされているわけじゃない。仕事が心底好きなんだ。思う存分やりたいようにやってそれが誰かの役に立つ――これほど喜びを感じることは無い。
何年も前のことだ。私も彼らと同じ仕事をしていた。父の家業を継ぎ、気の合う仲間と会社を興した。父の名前を借りてね。ま、会社と言ってもちっちゃなものでね。最初は自分の家や仲間の家で菓子を作り、その場で売っていたんだ。
そのうちまとまった注文が入り出した。それで正式に店を出すことにした。
手はじめに中古の物件を借り、店舗に改造した。その後売れ行きがよくなると、専用の製造工場を建て、店舗も増やした。当時は工場のマネジメントを任されていたんだが、いつかは誰かが社長にならなければならない。そんなときだ、みんなが私を推薦してくれたのは。だから社長をやっているんだよ。
ふつうは誰が昇進するか、誰がトップに立つかは決められている。あらかじめレールが敷かれ、どのポジションになるかは決まっているんだ。特に会社のトップともなれば――。従業員が口をはさむ余地はない。財力か社会的影響力のある者が推薦し、それがまかり通る。従業員は単なる歯車でしかない。だがここでは違う。すべてが合意のもとに話が進められているんだ」
第5章 働く意味
工場の人たちは談笑しながら働いていた。彼らを観ていると、日本で入社した頃の記憶がよみがえってきた。
当時、僕は小さな営業所に勤務していた。そこには家族的なつながりがあった。はじめてづくしのわからないことだらけ。仕事は大変だったけど、それなりに楽しく充実した時間だった。
3年後、本社に異動した。そびえ立つビルの一角にその場所はあった。雰囲気は最悪だった。場の空気は異様に重たく、どこかピリついていた。みんな自分のことで一杯一杯。表情はこわばっていた。人のことなど構っておれなかったのだ。
僕は湧いてきた疑問をぶつけた。
「エリックさんの会社には大勢の社員がいるのに、なぜあんなにも和気合い合いと働いているのですか」
「きみの目にもそう観えるかい? 一般の常識からすれば、不思議な光景に思えるだろう。組織は大きくなればなるほど硬直し、動かしにくくなるからね。できるだけ早く、効率的に動いてくれればそれでいい――これが使う側の論理。そのためには言うことを聞く人間がいればいい。ひと昔前のロボットや軍隊のように、黙って動く人間が一人でも多くいればいいんだ。
災害や犯罪から人の命や安全を守るレスキュー隊や警察隊ならそれでもいい。一刻を争う場面が多いからね。だがここは軍隊ではない。指示命令系統で動いているわけじゃないんだ」
「でも、組織が大きくなると、まとめるのも難しくないですか」
「ふつうはそうなる。どうだね、少しここで歴史を振り返りながら説明するとしようか。
昔は奴隷制度が当り前だった。王がいて側近がいてその下に兵士、市民、奴隷の順だった。階級制度を作って民(たみ)を統制してきたのだ。
こうした制度は産業革命以降も形を変えながら続いた。資本を持つ経営者はものすごく安い賃金で労働者を雇い、ボロ雑巾のように使った。ケガや疾病に倒れたところで代わりはいくらでもいるから困らないわけだ。
大量生産することでコストを抑え、大量に売って儲ける。より多く儲けるにはできるだけ早く、少ないコストで作らなければならない。当然人も効率的に動かす必要がある。それも文句を言わせずに。軍隊のように従わせる組織が必要だったのだ、当時はね。
しかし徐々に弊害が出てきた。人を機械のように扱うわけだからね。そんなことをし続ければ従業員は疲弊し、働く喜びを失う。最後にはストライキや暴動が起き、工場の機能はストップしてしまう」
「そうですね。それっていまの時代にも言えませんか? 日本でも企業で働く人たちは心身共に疲れ切った人が多いです。飲んでストレスを発散し、その場はごまかすことができても、翌日にはしらふに戻ります。一度失ってしまった情熱はなかなか取り戻せません」
「どうしてだと思う? いつ情熱を失ってしまうのだろう。どこの国でも似たようなことが起きていやしないかい」
