鈍色の浸蝕者 第一話
あらすじ
恋も仕事も順風満帆な私、篠田早妃。
心優しき上司と同僚。そして最愛の恋人がいて、私は幸せな毎日を送っていた。
そして私は、同僚と食事に出掛けたその晩、不快な夢を見る。
それは一面真白な世界で、不快なノイズ音が鳴り響き、誰かの囁きと叫び声が、私の鼓膜を蹂躙する。
その声を私は断固拒否する。
そして目を覚ませば、目に映る世界は色彩を失い、更に傍らにいた恋人の姿が……
その夢を皮切りに、私の日常は徐々に綻び始め、そして一気呵成に壊れていく……
プロローグ
私は何故、生かされた?
私は何故、この世界に戻されたのか?
奴らは何も言わない。
だけど奴らは私をずっと監視している。
その証拠に私の視界の隅には、何かの黒い点が常に映り込んでいる。それがいつからそこに居たのか分からない。そもそもずっと居続けていて、それに私が今頃になって気が付いたのか、或いは、あの日を境に視界に潜り込んだのか、今となっては知る由もない。
澄み渡る青空、肌にそよぐ優しい風。どんなに心地よい陽射しが大地を包んでも、それは私にとってはただのまやかし。この現実にとって、私は『現実』ではない。あくまで異端。
その優しさは私へ向けられたものではない。
柔らかな風と共に、不意に下腹部に傷みが走る。その痛みに私は戦慄する。
薄れ行く記憶の狭間に、確かに存在する不安と恐怖。それはきっと永遠に晴れる事は無い。
私は独り、その恐怖に唇を噛みしめる……
一話
「ね、篠田さん、仕事終わったらご飯行かない? 駅前に新しく出来たパスタ屋さん、気になってて……」
お昼休み開けに声を掛けてきたのは、先輩の芳野さん。私より三年先輩で、歳もちょうど三つ上。穏やかで優しくて少し天然で、新し物好きの可愛いお姉さん。
「了解! 早くチャッチャと終わらせて、素敵なディナーにしましょ」
私は見積書に数値を打ち込みながら、背中越し彼女に答える。
「うん……でも早く仕事終わらないかなあ」
芳野さんはぼそぼそと呟く。
「みんな! 今日は何の日か知っているだろうな!」
そんな芳野さんに答えるように、課長が急に声を上げた。その声に一斉にざわつく社内。
いつも重箱の隅を突くお姑さんのように、ねちっこくて口うるさい課長。そんなんだから、五十を過ぎても左手の薬指に光るものは無い。だけど今日の課長の声は少し違っていた。どことなく快活というか、類を見ない爽やかさがその声に満ち溢れていた。
「今日はハーフタイムデー! 勤務時間はいつもの半分! 九時から出勤したスタッフは十三時、十時から出勤したスタッフは十四時までの勤務! いつも頑張ってくれてるから、今日は自宅でゆっくりするなり、どこかで羽を伸ばすなり、この後は好きにしていいぞ!」
細面の顔からずれ落ちそうな眼鏡を持ち上げて、更に声を張り上げる課長。私はそんな制度がこの会社にあったのか? と、過去の記憶を振り返る。
「ああ! もう、終わり終わり! 課長、ちょっと早いですけど、私たちあがります! お疲れさまでした!」
記憶にない制度に戸惑う私を他所に、デスクの上を片付け始める芳野さん。
「おう! お疲れさん!」
「さ、篠田さん、行きましょ!」
私たちは十時出勤だから、十四時までの勤務。帰るまで、まだ三十分あるというのに、芳野さんはパソコンをシャットダウンして、私の前に躍り出た。
「でも、見積書、明日の午前中までなんで、十四時には終わらせますのでそれまで続けてもいいですか?」
私は少しだけ強く、彼女に尋ねた。いくら福利厚生とは言え、流石に仕事を放ってまで遊びに行くのは忍びない。正直言って、芳野さんからのお誘いが多すぎて、片付いていない仕事も少なくはない。
「その見積もりは先方から連絡があって、来週に回して欲しいとの事だ。篠田、頑張り過ぎるのも身体に毒だぞ! ささ、楽しんで来い!」
課長が私たちの会話に割って入った。
「来週に持ち越しって……もしかして他社が参入してきたんじゃないんですか? だったら尚更早く仕上げないと!」
今回の契約はチーフの沖田さんが新規で勝ち取ってきた、大手企業の案件。正確かつ迅速に提出することで、より信頼を勝ち取れるはず。
「篠田さん、本当に来週でいいですよ」
打ち合わせから戻ってきたチーフが、飛び込むように会話に入ってきた。その声を聞いた私は、胸の奥に熱く高鳴る鼓動を感じた。
「チーフ! 本当ですか?」
綻ぶ顔を悟られないように、努めて冷静に問い正したが、沖田チーフの顔を見るとその努力も水の泡。瞬く間にとろけてしまう。
「先方は明日から慰安旅行らしいです。明日送ってもらっても逆に迷惑らしいので、篠田さん、明日以降に僕に提出してください」
課長同様に、沖田チーフは満面の笑みで私に答える。
「はい……」
私はその目に見つめられ、顔が赤くなるのを抑えきれなかった。
「夜はこれから……」
そう雄叫びをあげるとともに、芳野さんはテーブルに突っ伏した。
時計の針は二十三時を迎えようとしていた。
私は結局彼女の要望を断り切れずに、退社後そのまま恋愛映画を見せられ、そしてお目当てのパスタ屋、更にはショットバーまで付き合わされることになった。芳野さんは浴びるように酒をあおり、そして限界が来てしまったようだ。
私たちが飲んでるその間、数人の男達が声を掛けてきたが、泥酔した芳野さんの煩わしさに根負けしたのか、連絡先も交換しないままに皆、撤収していった。
「篠田さん……だいすき……」
芳野さんは子供のように寝言を漏らす。
「私もですよ。芳野さん……」
私はそう言って彼女の頭を撫でた。
それは嘘では無い。確かに天然で能天気、よく言えば無邪気、強いて悪く言えばマイペース。そんな芳野さんは、素直な分嘘が無い。私を後輩として、そして職場の同志として、何の偏見も無くまっすぐに接してくれる。だからある程度のわがままやしつこさは、そんなに気にはならなかった。現に一緒に居て楽しいし飽きない。それが私の彼女への率直な感想。
きっとこれからも、私はこの人とこんなやり取りが続くのだろう。その未来には疑いの余地など無かった。
『今どこに居る? 芳野さんと一緒なんでしょ? 遅いから迎えに行くよ。お店の名前と場所、教えてください』
スマートフォンに届いたメッセージは沖田チーフ、否、宗佑からだった。私はその優しさに溢れたメッセージに、また胸の高鳴りを覚えた。
そう、私と宗佑は先月から付き合い始めたのだ。
「ね……少しだけ、うち、寄ってく?」
桃色に上気した沈黙を破ったのは私だった。
私と宗佑は、芳野さんを自宅のマンションに無事送り届けると、一路、私のアパートを目指す。
宗佑はハンドルを握る手に一度力を入れると、
「いいの?」
とだけ、呟いた。
『いいの?』
に込められた意味を私は察して、ゆっくりと無言で呟いた。
私たちはまだいわゆる体の関係には至っていない。私自身、正直を言えば結婚を決めた人としか、そういうことをしないと心に決めている。でも、きっと宗助となら……
「うおっしゃああ!」
私の思惑をそっちのけで子供のようにはしゃぐ宗佑。思わずハンドルを手放してガッツポーズを取る。
「ちょっと! 危ないって!」
「ごめん、ごめん! つい嬉しくなって……ほんと、ごめん」
素直に力強くハンドルを握る宗佑を見て、私は笑いを堪えきれなかった。ずっとおあずけを喰らい続けていただけに、余程嬉しかったのか、満面の笑みで喜びを嚙みしめる宗佑。本当は結婚初夜が望ましいけど、万が一そっちの相性が合わなければ後々面倒にもなりかねない。きっと他の恋人たちも、何気ないタイミングでその一線を越えているはず。
お酒のせいか、少しだけはすっぱな女になっちゃったのかな? 私も宗佑と一緒だ。そう思うと、また顔がにやけて来るのを、私は抑えきれなかった。
「ちょ、何? なに笑ってんの?」
笑みを噛み殺す私を見て、宗佑がツッコむ。
「うんうん……何でもない……」
私は笑って誤魔化して、助手席の窓から見える景色に視線を逸らした。
少しずつ冬の訪れを見せる十月頭の夜。街にはもうハロウインとクリスマスが同時に押し寄せ、オレンジと赤と緑の煌めきが溢れ返っていた。その華やかな彩は、まるで私と宗佑を祝福しているかのように見えて、私の胸のときめきは一層高鳴るのだった。
「乾杯」
二十四時を迎えると同時に私と宗佑は、コンビニで買った缶ビールで祝杯を交わす。特別に祝う事なんてなかったけど、今、この状況に居られることを、私は祝わずにはいられなかった。そしておつまみに買った、チーかまやあたりめを口に運びながら、宗佑と憩いの時間を満喫する。正直、さっきまでそこそこいいお酒と、それなりの食事をしていたのに、宗佑と飲み食いするコンビニのお酒とおつまみの方が数倍、否、最高に美味しかった。
まさに今、私の人生は順風満帆。やりがいのある仕事に、優しい先輩や同僚、そして最愛の恋人だっている。更に少しでも不安や不満を感じると、それを察したかのように、周囲がそのわだかまりを排除してくれる。あくまで偶然ではあるのだろうけど、そのタイミングがあまりにもちょうど良すぎて、怖いくらい。
私は幸せ……
そんな言葉が今の私にはしっくり来る。こんな日々がずっと続けばいいのに……そう願わずにはいられない。
徐々に会話が減り、宗佑の視線が私の脚や胸元、そして唇付近を泳ぎ始めた。
「どうしたの?」
悪戯に聞いてみる。
「分かってるくせに……」
宗佑はそう言うと私の肩に手を回し、半ば強引に私を抱き寄せた。それに抗わず、成すがままに私は彼に身体を預ける。程なくして彼の唇が私のそれを塞ぎ、彼の手のひらは私の身体を縦横無尽に彷徨い始める。その往来が私の中の芯に火を灯し、内部からむせ返るような熱が迸る。宗佑の唇は私の唇から旅立つと、首や耳、胸元、腹部と、巧みに纏う布を滑らせながら、私の中心を目指していく。その芯に近づくにつれ、彼の吐息は荒々しさと熱さを増し、それに呼応するように、私という湿原は潤いに溢れていく。
その刹那……
「いや!」
私は大声をあげて宗佑を弾き飛ばし、ベッドの隅に逃げ込んだ。
それは恥じらう否定ではなかった。、その後の流れに突如、生理的に深い嫌悪感が私の中に沸き起こり、私はそれを抑えきれなかった。
こんなにも身体は彼を受け入れようと潤っているにも関わらず、最期の最期で私は拒否してしまった。
どうしてもそこからの行為を、まるで大罪か、越えてはいけない一線のように感じてしまい、それに興じようとする自分を非難し、結果的にそれを拒絶した。
それが何故なのかは、自分にも分からない。他の恋人たちは躊躇することなく結ばれ合っているというのに……
正直な所、私は宗佑以外の男性とも、身体の関係を持ったことは無い。
それは決してそういう行為を毛嫌いしているからではなく、みだりにやるべきではない、そう思っているだけ。だから結婚を決めた人としかしない、そう決めているだけ。だからこそ宗佑とは心の絆を深め、何度も頭の中でシュミレートしてきたというのに……
「大丈夫? ごめん……飛ばしすぎたかな?」
宗佑も驚きを隠せず、その声は震えていた。
「違う……違うの……でも、ごめん、ごめんなさい……」
私は悔しさのあまり身体が震えだし、涙を零した。
「うんうん……大丈夫。焦らなくていいよ。ゆっくりお互いを大切にしよう」
宗佑はベッドに戻ると、震える私を優しく柔らかく抱きしめた。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいよ。僕はちゃんと待てるから」
その言葉に私の心は安堵し、少しずつ心と身体の震えが緩やかになっていくのが分かった。
ごめん……じゃなくて、ありがとう……
私は彼の腕の中で、何度も何度もそう感謝した。そして、その温かい腕の中で緩やかに微睡みへと堕ちていった。
気が付けば私は一面、真白な世界に横たわっていた。前後左右、上下などの感覚も皆無。
本当に横たわっているのか、それとも立っているのかさえも分からない、そんな曖昧な空間に私は居た。辛うじてその背中にすがる感触がある事で、自分が横になっていることを認識する。
「!」
そして急に脳内に響くノイズ音。私はその不快さに顔をしかめた。それはキリキリと細くて高い、例えるなら虫歯を削る時のドリルのような、あの不快音。
それに伴い、右耳の後ろ側と右足のくるぶしの下に、鋭く激しい痛みが走った。
その痛みにのけ反ろうとするも、身体の自由が利かず、身動きが出来ぬままその痛みに私は晒される。そしてその二カ所から、何やら混濁した、雑多でそれでいて上からねじ伏せるような『感覚』、『気配』のような、形容し難い『何か』が流れ込んできた。それは私から身体と思考を占拠するかのように、体内を縦横無尽に駆け巡り、増殖を始める。見えなくともその感触があまりにも不快で、抵抗するように私は自我を死守する。
『……自由に……』
ノイズが急に言語の輪郭を伴い始めた。
『……れるままに……』
『……と一つになれ……』
言葉の真意は分からない。だけど、私の内なる声は、それを真っ向から否定し、そして叫んだ。
「嫌!」
私は自分の叫び声で目を覚ました。
夢? を見ていたのか? 私は慌てて周囲を見渡した。
その目に映るのはいつもと同じ部屋……いや、それは少しだけその色彩を落とし、くすんで見えた。そして今しがた感じた痛み、右耳の後ろと右足のくるぶしの下に手を伸ばす。
「……」
そこには小さな傷跡があり、わずかだけど硬い何かが入っている感触と隆起があった。
背筋に悪寒が走り、私は戦慄した。更に私を抱きしめる誰かの腕は、つい今しがたまでの温もりは抜け落ち、重く冷たくなっていた。
私はその腕を払い、ベッドからそっと立ち上がった。
そしてその誰かに振り返る。
「!」
私は目に映ったその光景に絶句する。
「何これ? どういう事?」
その光景に私は後ずさり、それを必死に否定する。しかし私の『眼』は、それを焼き付けろ! と言わんばかりに私に凝視を強いるのだった……
つづく
