【備忘録】忘れる予定の64〜69
64「みなさん。窓際の机の上に置かれ、日焼けしてしまった積ん読は、
時々でいいので…
本当に時々でいいので……手にとって……
裏返してあげてください……」
65 混迷深める2026年、ついに爆誕した新政党の名前
『スタバのカップ持ち歩くみたいに黒霧島持ち歩きたい。それもパックのやつ。それがニューワールドオーダーであり、それがお前らが大好きないわゆる多様性だろ?あ?国論割るみたいに芋焼酎を割りたいから、今すぐ炭酸水買ってこいよ。いや、やっぱいい。俺が買ってくるからさ!党』
討論番組や開票速報での党名の略記は『スタ黒あ?』
保守派
あ?
66 ミニクーパー以外の車に「3298」ってナンバーつけるのは勇気がいる。ダイハツの軽とかについているのをたまに見かける。そんな恐ろしいことをするくらいなら、ふんどし一丁でアウトレット行く方がマシ、とさえ言えそう。でもそのくらい傍若無人に振る舞えるなら逆に、彼や彼女はいつか大人物になるかもしれない。緑のダイハツをミニだと思い込む力、その自分の信念を世間に向けて堂々と開陳してみせる度胸。それらは偉人に不可欠な資質であり、何かを成し遂げる人たちは、他人がどう思うかなんて気にしないものなのだ。そういう意味で…
よっ、未来のCEO。よよっ、未来の革命政府統領にして、その”ミニ”でルビコンをひょいと越えてみせる、英雄的な終身独裁官殿。
67 古代人が驚きと畏敬の念を込めて石碑に刻んだ、大宇宙からのメッセージ
「汝ら、我がこれより述べる『気遣いのできない人間の特徴』を聞き、それを石に刻んで永遠に記憶せよ。その手の人間は、だいたい口が半開きで、下唇がデロン。小柄なくせしてでかい声と、自信満々の歩き方をする。そして、そう、無遠慮で知性の欠如した視線を相手に向ける。これら『粗野の宝石』を一身にまとって、彼は何の不安も憂いもなく、堂々たる態度で地上に突っ立っている。まぁ、こうして一般論みたいにして言っているが、もちろん特定の誰かを思い浮かべてこのメッセージを送っているのだよ、ワタシは。おい、特定のソイツ。ワタシがまだトレーニングベンチ使ってるのがわからないのか?ほんの一瞬ダンベルを交換しに席を外した隙に、もうそのベンチに腰掛けてるとはどういう了見なんだ?他の利用者全員はここをジムだと思っているが、オマエはここをイス取りゲーム会場とでも思っているのか?そんな会場ねぇよ!どこにもな!あー、もうやめたやめた!地球全体に文明を授けてやろうと思ったのに、こんなクソが平気なツラして生きてるような星なんかにもう用はねぇよ。ピラミッドだけ残しといて、あとは更地だ!ジムも更地だ!退会手続きしてからな!」
この碑文を見てもわかる通り、やはり、古代人と宇宙人の接触はあったのだ。
68 スポーツや音楽など、何でも生で観たり聴いたりするのはいいものだが、意外なものも、その範疇に入るらしいことが最近わかった。坊さんの読経がそれだ。あの厳かな低音の響きには、生で聴くと「おお」と思うものがある。あの独特の低音でもって我々生者たちの日常に幕が張られ、さらにはその幕で囲われ、そこに非日常の聖なる領域を現出させるような効果が、あの声にはあるように感じる。そしてこれは仏教以外の他の宗教、例えば神道やキリスト教などにおける、祝詞や賛美歌についても同じことが言えるのではないか。つまりそれらのいわば「宗教的な音」は、人間の精神なり脳味噌の中にある、霊魂や死後の世界、永遠性や超越性などを感じる場所を、一言で言えば聖性を感受する場所を、震わせるような周波数を持っているのではないか。ただし、仮に仏教で言えば、現代の坊さん一人一人がそうした特殊能力を、強烈な熱意に突き動かされた果てしない探究の後に、自力で獲得したというわけではないだろう(彼らからはどうしても、「作業」や「ルーティーン」のにおいがするのは否めない)。それは何百何千年という仏教の歴史の中で、数え切れないほど多くの僧侶たちが、修行や研究や試行錯誤をこれでもかというほど繰り返した結果として、その音に辿り着き、獲得されたものなのだと言える。そしてそれを代々伝承してきたのだ。長年にわたる調律の果てに、その空気の振動でもって人間を俗世から少し浮き上がらせるための、人間に埋め込まれた聖なるものに対する感受性のツボを押すための、鍵盤を発見したのだ。ただし、そういう意味では次のようにも言えてしまう。
「仏教における初代である例のお方は、そんな音についてなんて興味の対象外だったかもしれないし、そうした音を鳴らす仰々しい儀式については間違いなく、少しも考えていなかったろう。だとしたら宗教における儀式や衣装や戒律等のものは大体が後付けで、出発点における純粋性と比べると必要以上に装飾的になりすぎていると言えるから、本質を大事にするならむしろ、そんな音や視覚的刺激やお堂に立ち込める香りは、邪魔なものとして退けた方がいいのではないか。もっと言えば、善男善女を宗教団体としての自分たちに取り込もうとする、派手な目くらましに過ぎないのではないか」
こういう風にも言えるので、この宗教的音楽の甘美さや、それと共に行われる儀式の荘厳さを、どこまで持ち上げていいのかわからないわけだが。とはいえやはり、自分の中の宗教性を刺激されると素直に感動するし、宗教的音楽や儀式が仮にすべてこしらえものや技術であったとしても、長い歴史をかけて積み上げられ、磨き上げられてきたものであることはたしかなので、洗練された一つの文化として、これまた素直に感動する。そしてそもそも、無神論者の顔面にへばりついた傲慢やいやらしい嘲笑も、狂信者の頭蓋から今にも飛び出さんばかりの完全にキマっている目の玉も、どちらもともに快さからは程遠い代物なのであってみれば、宗教なるものを一つの伝統や文化として捉え(もっと言えば芸術として捉え)、人生における要所要所で接近して、「おお〜、なるほど」という素朴な感動とともに味わっておくくらいがちょうどいいのかもしれない。少なくとも、己の中の信心と不信を巧みに御すことのできない、危なっかしい凡人にとってはそのくらいがよさそうだ。そうすれば無神論と狂信という両極端の狂気に取り憑かれることなく、理性と感性の間でまあまあの平衡を保つことができるかもしれない。超越に関する感性を失わず、それでいて理性を完全に吹き飛ばしてしまうこともなく。
まあこんな風にして、「かもしれない」とか「ではないだろうか」というような具合に、断言調を避けて曖昧に書き散らかしてきたわけだが、最後に、これだけは「である」や「なのだ」と言い切ってしまってもよさそうだと思えることについて、触れておきたい。それは、葬儀におけるお経の途中に、どうしても現在地についての言及が必要な箇所があるようだが、それが「〇〇メモリードホールぅぅぅぅ」なんていう横文字だと、もうどうやったって滑稽以外の何物でもなくなってしまうので、仏教界の革命家は是非、勇気を持ってアレをやめにした方がいい、ということだ。おそろしく古風な言い回しの連続の途中に、生のお経の周波数にせっかく心地よく酔っている最中に、突然のアレはないではないか!アレを聞くと思わず、口を硬くぎゅっとやってしまう。もちろん、笑ってしまわないようにだ!茶道の大家が催したお茶会で、茶菓子にスニッカーズが出てくるみたいなものだ(先生、袋をちぎる際の作法を教えてください!)。あと、最後の焼香とそれに続く参列者退場のBGMみたいにして、読経と木魚の音を使うのはやめろ、とも仏教界側は言ったほうがいい。会場のおねえさんのアナウンスまで、平気で読経の上にかぶせられちゃったりしてさ。「全員退場するまで無限リピートでお願いします」とかいう具合に、お坊さんたちは発注を受けているのだろうか。
まあ、そういうわけなので、これをまとめようとすれば、全体的に言って、おおむねアーメンなのである。そしてなるべく早く礼服をクリーニングに出しに行きたいので、十字を切って柏手打ったら、お先に失礼します、だ!
69 六月の夜、水が張られた田んぼの中からカエルくんたちの声がとても賑やかに聞こえてきます。水面には月なんか映っちゃったりして。昼間は昼間でツバメさんたちが、チビちゃんたちの口に突っ込んであげるエサを探して、田んぼの上を飛び回っています。みんななんてかわいい子たちでしょう!これがもう何百年も、いや、それ以上の長い時間繰り返されてきたのです。そうなのだということに思いを致すだけでもう、うるっとくるほど感動しますし、実のところ読経や木魚なしでも、その歴史の連続性に耳を澄まし目を凝らすだけで、聖なる感覚にきわめて近いものを感じることができるのです。つまりは「永久」だとちょっと敷居が高いし、想像しづらいというなら、「悠久」がわりと安全かつすんなり腑に落ちる形で、聖なる場所に連れて行ってくれるかもしれない、ということです。
というわけで最後はプレイリスト『私が3兆回リピートした楽曲集』からこちらの曲をどうぞ。このカエルくんたちの声を、一休さんも二休さんも三休さんもみんな聞いたのかななんて思うと、自分も日本の歴史の一部として生まれてきたことがとてもうれしくなってきます。そういう感覚をもしあなたも持っているとしたら、あなたは保守派です。65で言及した保守政党『スタ黒あ?』の立派な党員です。この混迷の時代において、パックの芋焼酎片手に、カエルくんやツバメさんたちのいる日本の風景を、ともに守っていこうではありませんか!それではまた次回、70でお会いしましょう。

