【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第二章 10
第二章 真夏の逃避行
10 暗躍する者たち
真夏の長い日もようやく西の空に沈み、深い藍色のビロードのような空に、色とりどりの宝石を鏤めたように星々が輝き始めた。ハシャルらが旅の一日目の行程を終え、コイズの町で宿を取った頃には、王都の市場広場も、心地よい涼しさに包まれ、静けさが広がり始めていた。その静寂の中、抑えたランプの明かりに照らされた、広い天幕の中央に、卓を前にして、白髪の老人が腰掛けていた。
卓の上には、直系三十センチ程の大きさの水盆が据えられている。その水盆に、老人は手をかざし、精神を集中していた。額に大粒の汗が浮かぶ。
やがて、水の中央に、夜空の星を映したかのように、万色、無数の光の点が生じた。それは次第に回転し、渦を巻き始めた。己も吸い込まれ、光の点の一つとなり、ぐるぐるととめどなく回り続けるような感覚に捕らわれたが、老人は、懸命に己の意識を保った。求める先を、水に命じ続ける。喉元に込み上げる、強烈な嘔吐感。もはや限界だった。そのとき、水の中の光が、回転を止めた。そして、一つの像を結んでいく。
――カルヴェントか。
光が結んだ、やや不鮮明な像が、言葉を紡いだ。カルヴェントよりは少々年下の、黒髪に白髪の交じった男だった。
「……そうじゃ、イグニードよ」
まだ収まらない、吐きそうなほどの不快感を堪えて、カルヴェントは答えた。
――どうしたというのだ? 定期連絡の日でもないのに、わざわざ呼び出したりしおって。それに、お主、首飾りを使っておらぬな。像が不鮮明だ。
苦りきった声で、カルヴェントは事情を説明した。
「実は、少々問題が起こっての。昨夜、我らが占い師、フロイが逃げおった。さらにフロイは、あの首飾りを盗んでいきおったのじゃ」
一瞬の沈黙。それから、水の中で、哄笑が爆発した。
――おいおい、カルヴェントよ。それは、ちょっとした問題どころではないぞ。あの首飾りには、力と、重要な情報が詰まっている。それに占い師は、貴重な人材だぞ。オルヴィエタ様に知れたら、たっぷりと叱責される……どころか、懲罰を受けるかもしれん。
オルヴィエタというのは、カルヴェントとイグニードが仕える女主人の名だった。憔悴した声で、カルヴェントは言った。
「わかっておる。じゃから、お主に連絡したんじゃ。部下からの情報によると、フロイたちは、今日、ダーラムの町に寄り、それから、夕方、コイズの町に宿を取ったようだ。どうも、ジディアに逃げるつもりらしい。じゃから、お主、フロイを捕まえて、首飾りを取り戻してくれぬかの?」
――よかろう。小僧の一人二人、捕まえるのは簡単だ。
カルヴェントは頭を振った。
「お主の力を疑うわけではないが、そう簡単ではないのじゃ。というのも、フロイは、一人で逃げたのではなくてな。あやつは、二人の少年と一人の少女に、助けられておる」
――子供が三人増えたとて、何ら障害にはならぬよ。
凄惨な笑みを浮かべたイグニードに、カルヴェントは、忍耐強く言い聞かせる。
「そう性急に判断を下してはならぬ。話を最後まで聞いてくれ。その三人の子供じゃがな、二人の少年は盗賊組合の幹部の倅、もう一人、少女は、王都防衛団の大隊長の娘じゃ。その親どもは、そやつらがフロイと共に行ったことを、嗅ぎつけておるようじゃ」
不機嫌そうに、イグニードは顔をしかめた。
――ということは……あまり乱暴な真似は、しない方が無難か……。
「そうじゃ。大きな騒ぎが起きては、事じゃからの。この国での活動を、続けられなくなってしまうやもしれぬ。我々が今までこの国で活動を続けてこられたのは、慎重の上にも慎重に、行動してきたからじゃ。そのことを、肝に銘じねばならぬ。さもなくば、オルヴィエタ様の計画をも、危うくしてしまうやもしれぬ」
――そうだな。やむを得まいて。うまい具合に、占い師だけを引き離して、捕らえるようにしよう。だが、その小僧どもが、我らについて、知り過ぎたならば、あるいは、飽くまでも、占い師を取り戻すのを邪魔立てするならば、そのときは……。
「そのときは、致し方あるまい。抹殺するのじゃ。我らの仕業と知られぬよう、巧妙に、な」
イグニードは、たちまち機嫌をなおし、そうあれかしと、酷薄に笑んだ。
――一日のうちに、ミリィスから、コイズの町まで来るとは、随分急いで逃げておるようだな。その調子で来れば、明日か明後日には、国境の方まで辿り着くだろう。……楽しみだ。
再びイグニードの哄笑が、水を介して響き渡った。
イグニードとの水盆を用いた会話が終了してから、カルヴェントは、椅子に深く腰掛け、考えに耽った。
あの首飾りを持ち出し、ジディアへ向かったということは、フロイは、ジディアにおいて、カルヴェントらの悪事を告発するつもりだろう。
何年も前に、一座の芸人に、やはりカルヴェントらが陰で行っている悪行を察して、ミリスリィ当局に密かに訴え出た者がいた。その者は、証拠品を持ち出すまでには至らなかった。だが、彼は、その直後、行方知れずになった。そして彼の訴えは、うやむやになってしまった。
そのときのことを、カルヴェントは思い起こした。
当局に訴え出たその男に対して、カルヴェントは、何らの手も下してはいない。なにしろ、その失踪の後になって、ようやく、彼の行為を知ったのである。
そして、シュティンク座に関する芳しからぬ噂が立ちそうになった際、それが、なんとも巧妙に消滅させられたことも、幾度かあった。無論、カルヴェント自身が手段を講じ、揉み消した事例もあったが、それだけではなかった。
それらのことを考え合わせると、もしかすると、ミリスリィ当局か、あるいはどこか、当局に関わりを持つ機関に、カルヴェントやイグニードが属する組織の関係者が、潜伏しているのかもしれない。
彼らの属する組織には、一人の長を頂点とする、十四人の指導者が存在する。その指導者たちは、各々配下を擁し、様々な活動を行っている。カルヴェントやイグニードが仕えている女主人、オルヴィエタは、その組織の指導者の一人である。
カルヴェントとイグニードは、互いに信頼し合っているとはいえぬものの、旧知の間柄で、定期的に連絡を取っている。また、各自が従える部下とは別に、各地に共通の連絡役を配し、共に利用してもいる。しかし、組織に関係する者たちは、皆が皆、連絡を取り合っているわけではなく、どころか、互いにその存在さえ全く知らないことも、稀ではなかった。ときには、主人を同じくする、即ち同じ指導者の部下である者同士の間でさえも、敵意や反目を抱くこともある。
その正体が何であれ、当局もしくは周辺に潜伏していると思われる者は、今度の件でも、表沙汰にならぬよう、うまく取り計らおうとするだろうか。もしこの件が大きな騒ぎを引き起こさぬよう、協力してくれるのであれば、ありがたい。だが、その者は、場合によっては、フロイを抹殺しようとするかもしれない。その前に、ファーガスなりイグニードなりが、フロイを捕らえてくれればよいのだが。
続く
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