【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第一章 7
第一章 王都の邂逅
7 救出作戦、開始
深更を僅かに過ぎた頃、ハシャルは、そっと寝台から起き出した。ハシャルの部屋は、三階、家の奥側、北東の端にある、こぢんまりとした部屋だった。寝台と小さな木製の卓、二脚の椅子の他、色々な宝物――海賊を模した人形、昔ミルディーが作った熊のぬいぐるみ、奇妙な模様の小石、美しい鳥の羽、種々の鍵、中に様々な液体の入った小瓶が数個、兄からもらった細工物等々――を収めた木箱が一つ、それに衣類等を収めた櫃が二つ置かれているので、少々狭く感じられる。家族は皆、床に着き、眠りの中だろう。寝台に入る前に、家族宛ての置手紙を書いて卓の上に置いてある。計画を実行するとしよう。
手早く着替える。動きやすく、丈夫な、旅装だ。それから、櫃の中を探り、有り金を詰め込んである財布を取り出す。中身を確かめる。ハシャルは、あまり堅実に貯金をする方ではないので、たいしたお金は入っていなかった。が、短い間の旅費くらいは、賄えるだろう。さらに、投擲用の短剣、やや大きめの短剣、様々な用途に用いることのできる小刀を、腰や懐、手首などにつけていく。その後、盗賊としての商売道具の入った丈夫な小袋を、腰のベルトに固定する。その小袋の中に、ハシャルは、木箱の中から役に立ちそうな品を選び、入れた。半透明の液体が詰まった小瓶、それに、兄の細工物を一つ。
兄は、手先が器用で、暇を見つけては、様々な細工物を作る。子供向けの玩具から、泥棒よけの罠まで、実用的なものが主である。時折、おかしなものを拵えることもあるが、それは、ご愛嬌だろう。それに、そうしたおかしなものが、思いがけず役に立つこともある。今回ハシャルが選んで、袋に入れたのも、そうしたおかしなものの一つだった。
小袋の中身を確認してから、最後に、剣帯を締め、小剣を帯びる。
準備万端整うと、ハシャルは、己の寝室の東側、家の裏手の側の窓を開いた。そして、手馴れた動作で、綱の一方の端を寝台の柱に結び付け、もう一方の端を、窓から外へと垂らす。身も軽く、さして大きいともいえぬ窓を抜け、綱を伝って下りる。家の裏手に出た。そのまま、並び合う家と家の裏手を、北側へと抜けていく。
日中の暑気から解放された街を、涼やかな夜風が吹き抜ける。天上には、とりどりに煌めく星々の歌が満ちる。何とも心地よい夜だった。
寝静まった、旧市街の閑静な住宅街を抜け、旧市街と新市街を隔てる街壁へと向かう。夜間、旧市街と新市街を結ぶ門には、衛兵が配される。そのため、昼間通った門を避け、少し離れた場所に出る。そこには、大きな木が街壁のすぐ脇に亭々と聳えていた。ハシャルは、辺りに人がいないことを確かめ、その木に、器用によじ登った。そして、木の枝を伝い、街壁の上に上がり、後はふわりと向こう側へ飛び降りる。飛び降りた先は、芝がたっぷりと生い茂る地面だった。柔らかく受け身を取り、着地する。街壁は、この辺りでは三メートル半程とさして高くなく、また、この木と草のあるお蔭で、ハシャルにとっては、越えることもさして困難ではないのだった。
夏祭を控えているだけに、新市街は、常ならばとうに静寂に包まれているであろう、このような夜分でも、そこかしこの建物から、明かりと、陽気な声が漏れていた。とはいえ、さすがに、外を出歩いている者は殆ど見当たらない。そうして出歩いている僅かな者たちは、夜の巡回を行っているミリィスの警備兵によって、家に、あるいは宿に戻るよう、注意されている。ハシャルのような少年が、このような時分にほっつき歩いているところを見つかったならば、それこそくだくだと説教された上、強制的に家に送り返されてしまうに違いない。巡回兵に見つからぬよう、慎重に物陰と闇を縫うようにして、ハシャルは、歩を進めた。そして、東の市場広場へと出る。軒を連ねていた屋台は片付けられ、昼間の喧騒が信じられぬくらい、しんと静まり返っていた。あの芸人一座の天幕も、今はひっそりと佇んでいる。
あの占い師の少年、フロイは、どこで寝ているのだろう。ハシャルは、フロイに会いに来たのだ。ひとまず、日中彼が占いを行っていた、小さな天幕を覗いてみることにした。気配を押し殺し、物音を立てぬようにして、天幕に近付く。天幕の厚い布に耳を押し当て、中の様子を探る。人の動き回るような音はない。たとえ中に人がいたとしても、少なくとも、その人物は、起きてはいないだろう。そう判断し、勇を鼓して、身を低くしてさっと中に踏み込む。一つ目の小部屋には、誰もいない。が、奥から、もぞもぞと身動ぎするような、布が擦れる微かな音が聞こえた。奥へと進む。すると、暗い隅に、誰かが横たわっていた。小柄な人物――。おそらく、フロイだ。
ハシャルは、フロイを起こさぬよう、そっと近付いた。腰の小袋の中から小さな蝋燭と受け皿を取り出し、火打石を使って、火を点す。それを脇に置こうとして、少年の足元で何かが光を鈍く反射するのに気付いた。そちらに、仄かな明かりを向ける。目にしたものに、ハシャルは、思わず目を剥いた。
鎖だった。フロイの足には太い枷が嵌められており、その足枷から、鎖が伸び、天幕の堅固な支柱へと繋がっていた。
――酷い……!
人をこんなふうに拘束するなど、到底、許されないことだと思った。
――これは、何が何でも、助けてやらないと……。
決意を新たにして、ハシャルは、フロイの傍らに膝をついた。脅かさないよう、静かな声で呼びかけつつ、フロイが大きな声を出しそうになったらすぐに塞げるよう、手を彼の口の近くへと持っていく。
「フロイ、起きてくれよ」
「起きてるよ」
何の前触れもなく返ってきた返事に、ハシャルは、跳び上がりそうになった。数瞬後、激しく胸郭を打つ心臓がようやく静まると、ハシャルは苦情を漏らした。
「あのなあ……。驚かすなよ」
フロイは身体を起こした。ヴェールの中の顔を、ハシャルはこのとき、初めて目にした。小作りで、華奢な輪郭。小さな、すんなりとした鼻、ふっくらとした唇。大きな、謎めいた淡い茶色の瞳は、占い師らしくどこか超然としたところもあるものの、全体として、まだ幼さを残しており、ハシャルのはじめの推測どおり、十二、三歳と見受けられた。
フロイは、ばつが悪そうに謝った。
「ごめんなさい。でも、最初は、誰が入ってきたのか、わからなかったんだよ。だから、強盗だったりしたら怖いから、とりあえず眠っているふりをして、様子を見たんだ」
その説明に、ハシャルは得心がいった。その上は、時間を無駄にするわけにはいかない。単刀直入に、切り出す。
「あのさ、フロイ。あんた、ここから逃げたいんだろ。それで、神殿に逃げ込んで、聖職者になろうって気は、あるのかい」
フロイは俯いて、静かに言った。
「聖職者になる気はないよ。あれば、とっくに逃げてるよ」
「じゃあ、あんたは、酷い扱いを受けてるってことを、当局に証明できるかい?」
蒼白になって、フロイは頭を振った。
「たしかに、暴力をふるわれることはあるけれど、証明は難しいよ。それに、そんなことをしようとしたら、どんな目に遭わされるか……」
「だったら、最後の手段だ。あんた、今すぐに、ここから逃げ出さないか?」
ハシャルは最初から、そうせざるを得ないだろうと覚悟していた。ハシャルの言葉に、フロイの双眸が、希望の光を点した。が、その奥に、暗い不安の澱が沈澱する。
「……無理だよ。鎖で繋がれてるんだ」
「鎖なら、俺が外してやるよ」
言うなり、ハシャルは、フロイの足枷に手を触れようとした。フロイは、ハシャルの瞳を数瞬見詰め、それから目を伏せた。内心の葛藤に苛まれているかのように、唇を震わせ、考え込む。それから、おずおずと、ハシャルを止めた。
「……駄目だよ。たとえ鎖を外してもらって逃げたとしても、すぐに捕まっちゃうよ。捕まったら、きっとまた、酷い目に遭わされる……」
覇気を欠く返事に、ハシャルは、少々気勢をそがれたが、しかし、思い直す。鎖に繋がれているくらいだ。彼が逃げ出そうという気を起こさないように、一座の者たちは、おそらく、彼に酷い仕打ちをしてきたのだろう。そうであればなおのこと、この少年を、早く、無事に逃がさなければ。
ハシャルは、根気強く、言い聞かせた。
「大丈夫だよ。俺が一緒に行って、逃がしてやるから」
フロイは目を見開いた。その瞳に、純粋な喜ばしい驚きと、予め定められていたことが実現したとでもいうような冷静な安堵、それに何か後ろめたいような思いが入り混じった、複雑な、不思議な色が滲んだ。小さな声で、そっと、己の運命を確かめるかのように、問う。
「君が、一緒に……?」
フロイの様子を少々奇妙に思いながらも、ハシャルは、力を込めて、しっかりと頷いた。
「そうだよ。だから、さあ、足枷を外すよ」
今度は、フロイは抵抗しなかった。ハシャルは、足枷の錠を、針金を使って苦もなく外してしまった。
続く
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