【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第二章 1
第二章 真夏の逃避行
1 王都脱出
まだ夜の清々しい涼気の残る、早朝。澄んだ鐘の音が、市門の開門を告げる。ミリィスの西の市門は、出立する商人たち、旅人たち、そして反対に、町へと入る順番を待つ人々で、ごった返していた。町へ入る人の方が、出て行く人よりも格段に多い。夏祭の期間だからだ。こんな楽しい時期に出て行かねばならない人々には、名残惜しげな、後ろ髪を引かれるような表情の者も多かった。中には、夏祭で商う商品をさらに仕入れるために町を離れる者もあり、そうした者は、これから得られるであろう利益を思い、楽しげな様子であるが。
ハシャルらは、それぞれストラクティスを騎獣舎から連れ出して、順番を待つ人々の列に並んだ。出て行く人々はそう多くはなく、並ぶのも早かったため、十分程待ったのみで、四人は、町を後にした。
明け初めていく穹窿に、四人は、舞い上がった。大理石で化粧張りを施された街壁、それに旧市街の建物が、純白に、新雪のように煌めく。その周囲には、耕作地が広がる。刈り入れを待つ麦の穂が、黄金の波のように、うねる。その外側には、緑濃い草原が横たわる。
フロイが逃げたことを知れば、芸人一座の者たちは、きっと、南、故郷のあるジディアを目指すと考えるだろう。しかしハシャルらがどちらの方角に飛んでいったかについても、おそらく調べる筈だ。そこで、ハシャルらは、すぐに南へ飛ぶことはしなかった。気休め程度にしかならないかもしれないが、もし飛び去った方向を知られた場合には、追手の混乱を誘えるように、最初のうちしばらくは複雑な経路をとる。
しばし西側へ、ハシャルらは飛び続け、それから、北へと方向を転換し、十キロばかり飛んで、また方向を変えた。今度は、東へ。王都ミリィスの東を流れる大河、ミリエルを越え、数十キロもの距離を行く。そして、ようやく、本来の目的地、フロイの故郷ジディアを目指し、南へ。
ジディア王国は、十一の領地に分かれている。王領と、第一位貴族四家の領地、第二位貴族四家の領地、そして魔導士団領と魔法戦士団領である。第一位貴族の四家は、ラルティウス家、ロディオル家、アスラル家、アスウェリス家であり、第二位貴族の四家は、イエル家、リュアシス家、ルヴェリス家、クレスツス家である。
ミリスリィは、ジディア西部から北部にかけての四領と国境を接している。西から、クレスツス領、ロディオル領、魔法戦士団領、そしてアスラル領である。
フロイの故郷は、ジディアの北部に位置する魔法戦士団領の、西端にある自治区域の民の村だという。そうであるからには、ミリィスからまっすぐ南下し、魔法戦士団領に入るのが最短距離である。しかし、フロイによると、ミリスリィ南部国境付近の、ジディア王国西部のクレスツス領、ロディオル領から魔法戦士団領にかけてと国境を接する辺りで、フロイがいた一座、シュティンク座の仲間である芸人一座が巡回興行を行っているため、そちらに行くと、見つかる可能性があるという。また、ジディアにおいて、自治区域の民は概して賤視されている。アスラル領や魔法戦士団領においてはそのようなことはないが、ロディオル領やクレスツス領においては、迫害が激しい。なお、ジディアは一部の領地を除き、概ね排他的、閉鎖的な国であり、とりわけ、西部のロディオル領とクレスツス領においては、異国の者の来訪は歓迎されない。従って、西側へ行くのは、避けねばならない。
そこでハシャルらは、南東を目指し、国境をなすケリス山脈の山越えの経路を利用することにした。山脈を越え、ジディアのアスラル領に出る。国境を越えたところの、最初の町あるいは村まで、ハシャルらは同行する。そしてそこでフロイと別れ、フロイは、故郷を目指す。アスラル領においては、自治区域の民も迫害されることはない。西へ旅する人々を捜して、ともに行けばよい。
日が高くなる前に、距離を稼ぎたい。四人は、ストラクティスに乗るのに不慣れなフロイに可能な限り急いで、一心に飛び続けた。
夜明けから一時間あまり経った頃、アルタ通りでは、隣り合う三件の家で、それぞれ、一騒動が持ち上がっていた。
最初に騒ぎが生じたのは、ラサ家だった。
小柄な少女が、大急ぎで三階から駆け下り、二階の台所に飛び込んだ。母の姿を見つけるや、慌てた様子で走り寄る。
「お母さん! 大変……ハシャルお兄ちゃんったら、また、勝手にどこかに行っちゃったみたい!」
言うなり、手にした蝋板を、母に差し出す。母、ローナは、それを一瞥した。あまり綺麗とはいえない、けれども肉太で伸びやかな、書いた本人の開豁さがそのまま滲み出たかのような筆跡は、紛れもなく、ハシャルのものだった。ローナは、文面に目を通した。
家族のみんなへ
ちょっと旅をしてきます。しばらく家を留守にしますが、心配しないで下さい。
八九四年第五の月第一の週九日 ハシャル
追伸 シエラへ 俺がいない間、ニックにご飯をあげてほしい。一日二回。忘れずに。
読み進むうちに、ローナの眉間に皺が寄っていた。読み終えるなり、深く嘆息する。
「まったく、あの子は……! 出かけるときは、行き先と、帰りの日時を知らせるようにって、いったい、何回言えばわかるのかねえ?」
シエラは唇を尖らせた。
「そうだよ。ニックの世話は、忘れるわけないじゃない。肝心なのは、お兄ちゃんの旅のことだよ。それなのに、お兄ちゃんったら……」
ニックというのは、ハシャルが数年前に拾ってきた猫だった。拾われたときは毛並みも悪く、痩せていたが、今は太り気味で、薄茶色の毛は、艶々と輝いていた。この猫、普段は少々やんちゃなだけなのだが、ご飯をやり忘れると、途端に凶暴性を発揮し、家族に、誰彼構わず噛み付くのだ。それでも、ハシャルはもちろん、他の家族も、時に文句を言いながらも、目を細めて、ニックを可愛がっている。
シエラが零した矢先、その足に、何かふわふわとした、温かいものが触れた。と思うや、それは、シエラのふくらはぎに、がぶりと噛み付いた。
「いっ、痛っ! やめてよ、ニック。今、ご飯をあげるから」
シエラは大急ぎで戸棚から干し魚を取り、ニックに与えた。ニックは夢中になって食べ始めた。
「どうしたんだい、二人とも?」
騒ぎを聞きつけて起き出してきた父、ハゼルが、二人に近付いた。ローナは肩を竦めた。
「どうしたもこうしたも……。これ、見てちょうだいよ」
ハゼルもハシャルの置手紙を一読した。そして、天を仰ぐ。
「なんとまあ、困った子だな、あの子は。どこに行ったのやら?」
気を取り直し、尋ねる。
「シエラ、何か、心当たりはないかい?」
シエラは頭を振った。
「ううん、何も」
言ってから、ふと思い出した。
「そういえば、お兄ちゃん、昨日、ちょっと変だったなあ」
確かに、と、両親は頷く。
「突然、妙なことを尋いてたわね、あの子」
「ああ。それと何か、関係があるんだろうか?」
シエラは言い募った。
「それも変だったけど、その前にも、おかしなことがあったの」
両親がもの問いたげに、シエラを見つめた。
「どういうことだい?」
「昨日の午後、東の市場広場で芸人一座の演物を見物したって、話したでしょ。その後、あたしとミルディーは、一座の占い師に占いをしてもらったの。そのとき、いつもはそんなのに全然興味のないお兄ちゃんが、占ってもらったんだよ。変だよね」
「じゃあ、その占い師が、何か関係しているのかねえ……?」
妻の問いを受けて、ハゼルは、ううむと唸り、考え込んだ。
続く
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