【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第二章 12
第二章 真夏の逃避行
12 でも捨てたものではない
エーヴィンが入っていったであろう、一階の食堂を無視し、ハシャルは、外へ出た。周囲にそれとなく気を配りながら、通りを歩き出す。既に星が輝き出していたが、夏祭の期間であるため、町の中にはまだ人の姿が多く見られた。辻では芸人たちが陽気な曲を演奏し、それに合わせて人々が歌い、踊っている。町の住人もいれば、旅人や商人など、余所から来た者も交ざっている。表の通りに卓と椅子を持ち出し、心地よい宵の空気を楽しみながら、食事をしている人々もいる。
皆楽しげにしている中、独りハシャルは、憤懣やるかたない思いを抱え、大股に歩き続けた。
――何だよ、エーヴィンの奴!
エーヴィンとしては、自分がいない間に、ハシャルがうまうまとミルディーと語らって過ごすのを、見過ごせなかったのだろう。しかし、ハシャルは、エーヴィンにあんなふうに言われなくとも、情報収集を行うつもりでいたのだ。すぐにやろうとしていたことを、さも言われないとやらないかのように、お節介に、押し付けがましくやれと言われて、不愉快この上なかった。
かてて加えて。
――護衛としては、役に立たないだって? 何なんだよ、その言い種は!
ハシャルは戦士ではない。盗賊なのだ。護衛としての働きなど、もとより求められる立場ではない。護衛として役に立たないのは、言われるまでもなく、当然のことである。
けれども、ハシャルは、ここまでのところ、盗賊としての務めは、充分果たしてきたと思っていた。まず第一に、フロイを一座から連れ出したのは、ハシャルだ。その後、逃避行の間は、常に周囲に警戒を怠らず、立ち寄った町では情報収集を行い、また、休憩した場所では、痕跡を残さぬよう、念入りに後始末をした。エーヴィンとて、ハシャルのその働きに、文句をつけることなど、できない筈だ。
エーヴィンだって盗賊なのに、そうした仕事の大部分をハシャルに押し付け、自分は護衛役を気取っているとは、どういうことだろう。それこそ、非難さるべき職務怠慢ではないのか。何が、一人二役をこなしている、だ。昨日、寝台を譲ってやるのではなかった。
だいたい、エーヴィンは、中途半端なのだ。盗賊でありながら剣術にも手を染めて、そんなことをしているから、盗賊競技会でハシャルに勝てたためしがないのだ。剣術の方だって、本人が自慢するほどのものではないではないか。守ってやりたいと思っているミルディーにだって、負けるのだ。
エーヴィンには、盗賊としての誇りは、ないのだろうか。
そこまで考えて、ハシャルは、思わず深く吐息を漏らした。
――そりゃあ、戦士の方が、目立った活躍ができるし、ミルディーの気も、惹けるのかもしれないけど、なあ。
エーヴィンの言い種には、腹が立った。しかし、それ以上にハシャルの胸に突き刺さっているのは、むしろ、庇ってくれたミルディーのことだった。
エーヴィンの言葉を、彼女は、言い過ぎだと言った。間違っている、ではなく。つまり、彼女は、エーヴィンの言ったことが事実を含んでいると、認めているのだ。そう思うと、酷い脱力感に襲われた。もちろん、自分が護衛としては役に立たないことを、ハシャル自身、否定するつもりはなかった。けれども、ミルディーには、そうした点を庇うのではなくて、自分のよいところを、認めてほしい。盗賊として優れているのだということを、きちんと評価してほしかった。
盗賊の仕事に、やりがいを感じてはいる。戦士に負けないくらい、重要な仕事だと思っている。誇りを、抱いている。けれども、思いを寄せる少女にそれを認めてもらえないのは、振り向いてもらえないのは、身を焦がされるようにもどかしく、やるせなかった。
歩き続けるうちに、町の外れ近くに来ていた。この辺りは、人通りも殆どない。有用な情報も、得られぬだろう。他の道へ行こうと、ハシャルは背を返した。
と、その背に、上の方から、か細い、赤子の声のような鳴き声が、降ってきた。
振り向いて、見上げる。町外れの際に、数本の木が生えている。声は、その木の上から聞こえた。少し近付き、星明かりを頼りに目を凝らし、上の方へと視線を這わせる。すると、枝葉の織り成す黒い網目模様の中に、小さな影が動いているのが見えた。細い枝の上で、そろそろと危なっかしげに行きつ戻りつし、不安げに下を見下ろす。闇の中に、丸い、緑色の光が二つ、点った。もう一度、心細げな鳴き声が耳朶を打つ。
ニャア……。
影の正体が判明した。子猫だ。おそらく、木に登って、下りられなくなってしまったのだろう。そうと見て取るや、ハシャルは、即座に木に取り付いた。
太く、高い木だった。高さは二十メートル近くあり、両腕を用いても、幹の円周に回りきらない。それでもハシャルは、僅かな出っ張りやくぼみを、手がかり、足がかりとして、巧みに登っていった。地上から十二メートルほど登ると、子猫のいる枝の、少し下にある太い枝に、ハシャルは身体を移した。僅かに枝がたわみ、揺れた。揺れが収まるのを待ち、慎重に、枝先の方へと這うようにして進む。そして、足でしっかりと枝を挟んで身体を支え、上の枝に手を伸ばす。子猫を脅かさないように、そっと、静かに。
「さあ、おいで」
子猫は、差し延べられた見慣れぬ人間の手に、びくりとした。訝るように、ハシャルを見る。人を恐れる、警戒心の強い野良猫の子だろうか。そうであれば、ハシャルに身を委ねようとはしないかもしれない。思い切って手を伸ばし、捕まえた方がいいだろうか。だが、そうして子猫を驚かせて、落としてしまったら、たいへんだ。しばしハシャルは、枝の上で手を伸ばしたまま、固まった。
そうして子猫と見詰め合うこと、数十秒。ハシャルの身体の下で、枝が、悲鳴を上げた。これ以上、この枝に留まるわけにはいかない。子猫を、どうにかして、捕まえるしかないか。
そう思った瞬間、子猫がハシャルの手に乗ってきた。
――よし!
ハシャルは子猫を、急いで、しかし優しく懐に入れた。そして、幹の方へと、後退する。あと少しだ――。
突然、乾いた不吉な音が夜空を引き裂いた。ハシャルは息を呑んだ。枝が、付け根付近で折れた。途端、身体を支えるものがなくなり、一瞬、宙に浮いたような、なんとも具合の悪い感覚があった。続いて、身体が地面に引かれて落下する感覚。
無我夢中で、ハシャルは、手を伸ばした。右手が、辛うじて一本の枝を掴んだ。数瞬後、折れた枝が地面に叩きつけられる音が、夜空を伝わってきた。揺れる枝に片手でぶら下がりながら、ハシャルは、乱れた息を整えた。それから、左手も枝に伸ばし、しっかりと枝を掴んで、身体を持ち上げ、枝の上に乗った。素早く、幹へと戻る。そして、後は、懐の子猫を圧し潰さないよう気を配りながら、地上へと下りていった。
芝土の上に下り立つと、ハシャルは、懐から子猫を出し、地面においてやった。星明かりで改めて観察すると、灰色っぽい縞模様の子猫だった。
「さあ、もう大丈夫だぞ。自分で下りられないようなところに、登るんじゃないぞ」
子猫は、ありがとう、というように、ニャーと鳴いて、ハシャルの手に頭を摺り寄せた。それから、町の通りの方へと駆け出す。そちらに目をやり、ハシャルは、人影に気付いた。二人。大人の、ほっそりとした小柄な女性と、小さな子供だ。ハシャルが木に登っている間に、やって来たのだろう。子猫は、二人の方へと駆け寄った。小さな子供が手を差し延べる。その手の中に、子猫は、飛び込んだ。子供が、嬉しそうに子猫を抱き締めた。ズボンを穿いているが、伸ばした髪をお下げにしているところから推して、女の子だろう。
「ああ、ニニィ、よかった! 心配したんだからね」
その子の母親と思われる女性が、ハシャルの方に会釈した。
「うちの猫を助けて下さり、どうもありがとうございます。お怪我は、ありませんか?」
ハシャルは、快く微笑んだ。
「いや、たいしたことじゃありませんので。このとおり、ぴんぴんしていますよ」
ハシャルが元気な様子であるのを見て、女性の瞳に、安堵の色が浮かんだ。枝が折れたときには、心臓が止まるかと思ったのだ。
「いいえ、お蔭様で、たいへん助かりました。ご無事で、よかった。よろしければ、お礼に、ささやかですが、お食事でもご一緒に、いかがでしょう? ……旅のお方、ですよね?」
食事の誘いは、魅力的だった。しかし今は、逃避行中なのだ。あまり人と関わらぬ方がよい。残念そうに、けれども快活に、ハシャルは、言った。
「せっかくのお誘いですが、生憎、夕食はすんじまったもので。旅支度などもありますから、失礼します。……子猫が無事で、よかった。俺の家にも、猫がいるんですよ。それじゃ」
女性は引きとめようとしたが、ハシャルは爽やかな笑みを浮かべ、一礼し、背を返した。足早に、町の通りへと溶け込んでいく。その背に、小さな女の子の、舌足らずな声が届いた。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
盗賊だって、捨てたものではない。ハシャルは、心の中がふわっと温かくなるのを感じながら、町の様子を観察しつつ、宿へと戻った。
続く
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