【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第一章 1
第一章 王都の邂逅
1 デートの筈が
午前中、どっと降った雨が、あがった。街路に植えられた潅木の緑濃い葉の上に、まだ幾千もの雨粒が残り、その一粒一粒が、陽光に水晶の輝きを宿す中、ハシャルは、新市街の東側の市場へと繰り出すことにした。
ハシャルの家、ラサ家は、王都ミリィスの旧市街の東側、アルタ通りの中程に位置している。三階建ての、あまり大きくはないものの歴史のある石造の建物である。白大理石で化粧張りが施された外装は、簡素ではありながらも、落ち着いた風格を漂わせる。
ハシャルは、北隣のカーク家に寄り、幼馴染みの少女ミルディーを誘った。それから、アルタ通りを北端まで進み、右に折れる。辺りの建物は、全て、ハシャルの家と同様、白大理石に覆われている。雨に洗われた白い石は、天頂近く上った真夏の太陽に照り映え、季節はずれの雪化粧を纏ったかのごとく、眩く輝いている。ハシャルは、思わず少々目を細めた。
大理石の都。それが、このミリスリィ王国の王都、ミリィスの通称だった。また、このミリィスは、聖なる都としても、よく知られている。
都の南、高く聳える山々の中でも、最も高い山の頂付近を占める、天空神サーカーシュの大神殿。東、北の海へと滔々と流れていく大河ミリエルの対岸に接して建立された、海洋神シーオンの大神殿。そして、北西、肥沃な大地に鎮座する、大地神アスウェクの大神殿。それらの三つの大神殿の中心に、王城が構えられている。その王城の周囲に、三神殿に守られるようにして広がっているのが、この都なのだった。
右折してから、二つの辻を通り過ぎると、旧市街の白い街壁が連なっている。街壁沿いの道を十メートル程北に歩くと、街を東西に貫く大通りに出る。その大通りのところに、新市街へと通じる門が設けられている。門を抜けると、そこに広がるのは、これまでとは趣を異にする町並だった。
ミリィスの新市街は、幾星霜を経て都市の人口が増えるに伴い、旧市街をすっぽりと囲むようにして発展してきたもので、旧市街のような、白大理石で統一された荘厳な景観を呈してはいない。道は整然と敷かれているが、建物は、外観も建材も、多様だった。旧市街の建物については、建築様式や建材に関して、法で厳格な基準が定められているのに対し、新市街のそれについての基準は、はるかに緩やかなのだった。
新市街の町並は、格式においては、旧市街に及ぶべくもない。しかし、そこに常に満ちている活気は、旧市街にはない、新市街ならではのものである。
時しも、夏祭を三日後に控え、新市街は、常以上の喧騒に満ちていた。週に二度の定期市に集まるよりもなお多くの商人たち、色とりどりの衣装に身を包んだ芸人たち。夏祭見物にやって来た、あるいは、大神殿に詣でるために訪れた、近隣の、そして遠方の人々。見慣れぬ装束を纏った、一目でそれと知れる異国の旅人の姿もある。物売りの声、客引きの声。値段交渉のやり取り。辻々で演奏される様々な音楽、拍手喝采、賞賛の声、野次。そうした陽気な賑わいに包まれて、都市の住民たちも、楽しげに立ち働いている。
そのような浮かれた空気の横溢する街の雑踏を歩くうちに、ハシャルも、気分が高揚してくるのを感じた。ハシャルは、お祭が大好きなのだった。毎年、夏祭が近付くと、居ても立ってもいられなくなる。浮き立ち、舞い上がりそうな気持。夏の陽光のような、弾けんばかりの生命の力が、満腔に満ちる。けれどもこの夏は、どこか違った。胸に、小さな氷片が、沈んでいる。
そんなハシャルの気持を察してか、隣を歩くミルディーが言った。
「昨日は、惜しかったわね。でも、準決勝まで行ったんだし、負けた相手がグレックだったんだからね。あんた、よくやったわよ」
ばん、と、威勢よく背中を叩く。ハシャルは、つんのめりそうになった。が、転ぶわけにはいかず、意地で持ち堪える。
ミルディーは、相変わらず力が強い。それも当然、彼女は、戦士の卵なのだ。いや、今や、若鳥といった方がよいかもしれない。彼女は、この春、ミリスリィ王国軍の訓練学校の高等部への進学を決めている。来年には、高等部に進むことになる。
常に鍛錬を怠らないその身体は、引き締まった筋肉が配され、伸びやかで、力強く躍動する。女性にしては長身で、背丈は、ハシャルより微かに高い。肩幅も、女性としては幾分広く、がっしりとしている。けれども、彼女の女性らしさは、それで損なわれているわけではない。女性らしい、柔らかな、優しい線も、残している。また、彼女は、目鼻立ちのはっきりとした、端整な顔立ちをしていた。とりわけ、温かな琥珀のような、金色の、大きく生き生きとした瞳は、蠱惑的だった。小麦色に焼けた肌には張りがあり、艶やかな輝きがあった。肩の辺りで切り揃えられた、波打つ赤毛も、すばらしい。晴れた日の夕空の、混じり気のない残照の赤い光を溶かし込んだような、鮮やかな赤色をしている。
幼馴染みのこの少女を、異性として意識するようになったのは、いつ頃だったろうか。
ハシャルは、ミルディーの優しい心遣いに少し慰められながら、苦笑しつつ答えた。
「ありがとう。でも……なあ。へまをやらかしちまったからなあ。やっぱり、悔しいや」
なんであんなに焦ってしまったのだろう。一階の部屋、あそこも、いくら判定基準が厳しいとはいえ、落ち着いてやれば、大丈夫だった筈だ。その後も問題だった。綱を伝って下りるとき、いくら油で手足が滑ったからとて、ああも無様に落ちかけるとは。昨年の盗賊競技会の少年部門を制した己に、あるまじき失態だった。そもそも、一回戦では少しまずいことをしでかしたとはいえ、二回戦では、うまくできたことだった。敗北を喫した相手がグレックで、結局彼が今年も優勝したとて、それでこの失敗、敗北に、納得できるものではなかった。
「そう。でも、今度で終わりってわけじゃないからね。来年、また頑張りなさいよ」
「うん、そうするよ」
もうじき、市場の開かれている広場に着く。五日間に亘る夏祭の期間中、及びその前後三日間は、定期市よりも多くの屋台や露店が並び、大勢の人でごった返す。広場の奥の方には、芸人の演物のために広い空間があけられている。見世物小屋や、占い師の天幕などもある。
市場が近くなるにつれ、人通りが多くなってきた。注意しないと、人波に呑まれ、すぐさま、連れとはぐれてしまいそうだった。真夏の昼時の暑気に人々の熱気が加わり、辺りは、湯気が立ち上りそうな暑さだった。そんな中、一人の小柄な少女が、目敏くハシャルとミルディーを見つけ、元気よく手を振りながら近付いてきた。込み合った道を、機敏に、僅かな隙間を縫うようにして、驚くべき速さで進んでくる。ハシャルは、舌を巻いた。我が妹ながら、たいしたものだ。
「お兄ちゃん! 昼間っから、デート? やるわねー。ミルディー、こんにちは」
ミルディーは、にっこりと笑って、ハシャルによく似た、黒髪を一つに纏めて高く結っている小柄な少女に、挨拶を返した。
「こんにちは、シエラ」
一方ハシャルは、頬を隣のミルディーの髪のように真っ赤に染めて、ひどくどもりながら、どうにか言葉を紡いだ。
「ばっ、ばっ……、馬鹿! な、なっな、何言ってんだよ、お前は。そんなんじゃねえって」
まったく、我が妹は、よくもまあ、こまっしゃくれたことをずけずけと言ってくれるものだ。こんなことを言って、ミルディーの機嫌を損ねたら、どうするのだ。
実のところ、ハシャルとしては、うまい具合に二人で市場見物できそうだということで、ちょっとしたデートの気分を味わっていた。けれども、ミルディーは、そうは思っていないだろう。とりあえず、シエラの無遠慮な揶揄にも、気分を害してはいないようだが。シエラがませたことを言って人をからかうのは、茶飯事であるので、もう今さら、いちいち気にしてはいられない、ということかもしれない。実際、ミルディーとシエラは、案外仲がよいのだった。
ハシャルのいささか過敏な抗議を、二人の少女は、見事に無視した。
「これから、あたしたち、市場を見物しようとしていたのよ。あなたは、もう見物したの?」
ミルディーの問いに、シエラは、首を横に振った。
「ううん、まだ。あたしも、これから行くところだったの」
「じゃ、一緒に行きましょ」
「うん!」
ハシャルを蚊帳の外におき、少女たちは、勝手に話を進めてしまった。これで、二人だけのデートは、泡と消えてしまった。そのようにしたのがミルディーであるからには、ハシャルとしては、文句も言えなかった。
――まあ、俺の妹だし、仕方ないか。あいつじゃなかっただけ、いいってもんだ。
そう考え、気を取り直そうとした、まさにそのときだった。ハシャルの視界に、一番会いたくなかった者の姿が映った。ハシャルは内心、舌打ちした。その少年は、ハシャルらに気付くや、周囲にごった返す人々を突き飛ばさんばかりの勢いで、猛然と近付いてきた。頬が紅潮しているのは、街の熱気のためばかりではないだろう。案の定、ハシャルの眼前に立ちはだかったかと思うや、眉間に深い皺を寄せて、怒声を放った。
「なんだ、ハシャル! 抜け駆けなんて、ずるいじゃないか!」
波打つ豊かな栗色の髪を背まで伸ばした、長身の少年だった。猫科の猛獣のような敏捷さと同時に、その身のこなしには、鍛えられた戦士のみが持つ力強さが備わっていた。年の頃は、ハシャルと同じく、十六、七歳といったところ。甘い、華やかな顔立ちをしている。切れ長の茶色の目は、過剰なまでの自尊心と自負心を湛えている。
ハシャルが口を開くより先に、ミルディーが、おや、というように目をちょっと見開いて、言った。
「エーヴィン、何よ、その、抜け駆けってのは?」
ハシャルを鬼のような形相で睨めつけていた少年、エーヴィンは、ミルディーの問いに、返答に窮した。失言だったと、遅まきながら気付いた。しきりにハシャルに目配せしながら、言い訳を考える。
「いやあ……その……えーと……市場見物を俺より先にしちまおうってのが、気に入らないな、と……。な、そうだよな、ハシャル?」
助け舟を求めるエーヴィンに、げんなりしつつもハシャルは、彼を気の毒に思って、頷いてやった。我ながらなんとお人好しなのだろうと、半ば呆れた。
ミルディーは冷たい眼でエーヴィンを一瞥した。ばかりか、ハシャルにも同様の視線を注いだ。
「ああ、そう」
そっけなく言う。そして、ハシャルの妹、シエラに微笑みかけた。
「じゃあ、お兄ちゃんたちにはお兄ちゃんたちで見物してもらって、シエラ、あたしと二人で見物しましょう」
シエラは顔を輝かせ、同意した。ハシャルらが止める間もあらばこそ、二人の少女は、連れ立って先に市場へと歩み入ってしまった。
続く
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