【小説】〈隻翼の竜の書〉赤目の盗賊 第二章 3
第二章 真夏の逃避行
3 逃亡発覚
新市街にある市場広場は、夜が明けると、その日の商売や興行の準備のため、多くの人々が動き出し、活気に満ちてくる。夏祭の期間は、市場や演物の開始時刻が通常より一時間あまり早くなる。それに間に合わせようと、人々は、きりきり舞いを演じていた。夜間畳まれていた屋台を再び組み立てる者。さらなる商品を店に運び込む者。商品の陳列に余念のない者。天幕の裏で、芸の最後の調整を行う者。仕事におおわらわで朝食の準備もままならない人々に、弁当を売って儲けようという者。皆、忙しそうにしながらも、気分が浮き立ち、楽しげだった。
そうした空気の中、一人、不機嫌な男がいた。広場の奥に陣取る、シュティンク座の主たる演物の会場となる大型の天幕の脇の、こぢんまりとした紫色の天幕に、男は、足を踏み入れた。手には鍵束と、パンとミルクの載った、小さな盆を持っている。
天幕の中は、静まり返っていた。衣擦れの音さえ、しない。明かりも灯されていない。フロイは、まだ眠っているのだろうか。いや、もう夜明けから一時間は経っている。いつもなら、とうに起きて、その日の準備を始めている時間だ。
ひしゃげた鼻の上の額に皺を寄せ、えらの張った顔を歪めて、男、ファーガスは、怒鳴った。
「おい、フロイ! 起きろ、飯だぞ」
乱暴に、天幕の中を仕切る垂れ幕を引き開ける。薄暗さに目が慣れると、隅の方に、黒っぽい塊が毛布を被り、横たわっているのが見えた。ファーガスはそれを容赦なく蹴った。が、常のような呻き声、あるいは悲鳴は、上がらなかった。全くのなしのつぶてだ。そして、蹴った際の感触に、違和感があった。盆を卓の上に置き、手荒く毛布を引き剥ぐ。すると、出てきたのは、敷布を人の形に似せて丸めたものだった。そして、その塊の下には、錠の外れた足枷が転がっていた。
――逃げやがったか!
ファーガスは、舌打ちして、天幕を出た。半ば駆けるようにして、座長の天幕へと向かっていく。
座長の天幕には、先客がいた。いや、客とはいえまい。というのも、その者は、座長の前に跪き、尋問を受けている最中だったから。二人は、広い天幕の中央辺りにいた。
座長、白髪で、白く長い髭をたくわえた中背の老人は、ファーガスの入室に気付くと、そちらへと視線を向けた。その視線に、ファーガスの肝が、縮み上がった。一見静かな湖面のような、だが、その奥底には、光も照らすことのできぬ、形状し難い暗黒の澱が湛えられた、目。
座長は、不穏な静けさを含む声で、言った。
「何じゃ、ファーガス。何の用じゃ? 儂は、見てのとおり、忙しいのじゃ。後にしてほしいのじゃがの」
背筋に悪寒が走ったが、しかし、ファーガスは引き下がらず、用件を伝えた。
「カルヴェント様、大変です! フロイが、夜のうちに逃げ出したようです」
座長、カルヴェントは、眉を吊り上げた。
「何、それは、本当か?」
ファーガスは頷き、続けた。
「本当です。足枷が外されていました。フロイには、外すことなどできませんから、何者かが手引きしたのではないかと思われます」
カルヴェントの眉間に、深い皺が刻まれた。忌々しげに、吐き捨てる。
「なんと! あの小僧、やってくれおる……!」
カルヴェントのあまりの怒りように、ファーガスは、訝しげに問うた。
「フロイが、何かしたのですか?」
カルヴェントは、深く息を吐いてから、事情を説明した。
「先程、宝物箱の中を見たところ、あの首飾りが失くなっておっての」
ファーガスは目を剥いた。
「あの首飾り……例の、あれですか?」
「そうじゃ。それで、昨晩の不寝番をしておったこの男に、事情を訊いておったのじゃ。こやつが申すには、深更を過ぎた頃に、何者かがこの付近にやって来たのじゃと。そしてその者が、こやつを眠らせたという。おそらくこやつが眠っておる隙に、その者は、大胆にも儂の天幕に侵入して、よりにもよって、儂のすぐ側にあった宝物箱から、あの首飾りを盗んでいったに違いなかろうて」
「その者の人相風体は、わからないのですか?」
ファーガスの問いに、カルヴェントは苦々しい口調で答えた。
「いや、こやつはそやつの姿をろくに見ぬうちに、眠りに落ちたのじゃ」
座長の前に跪いた男は、蒼白になって頭を垂れた。男に構わず、ファーガスは、疑問を口にした。
「他に、盗られたものは、あるんですか?」
カルヴェントは、言下に答えた。
「いや、ない」
では、首飾りを盗んだ者は、単なる物取りではないということになる。まさに、あの首飾りが狙いだったに違いない。あの首飾りは、確かに高価なものではあるが、しかし、宝物箱には、他に、よりよい品も収められていたのだ。あの首飾りのことを、何も知らぬ外部の者が、わざわざ狙う筈もない。
座長カルヴェントは既に察している、いや、確信している、一つの可能性が、ようやくファーガスの脳裏にも、浮かび上がる。
「まさか、あの小僧、例の首飾りを盗んでいったんじゃ……!」
首飾りのことを知るフロイが、何者かを唆し、盗み出させ、それを持って逃亡したのではないか。フロイを逃がした者と、首飾りを盗み出した者とは、同一ではないか。
座長の天幕には、魔法がかけられていた。内部で何か物音がすれば、警報が鳴るようになっていた。無論、風の音やら寝息やら身動ぎの音やら何やらでいちいち警報が鳴るようでは、問題である。従って、小さな音では、鳴らないようにしてあった。だが、フロイのような隠密の素人が天幕に入り、盗みを働こうとすれば、その物音で警報が鳴った筈だ。それに、宝物箱の錠も、フロイではとても解除し得なかっただろう。
やはり、別の者、隠密行動に長けた者がフロイの足枷を外し、フロイの指示で首飾りを盗んだと考えるのが妥当だろう。
では、その者は、何者なのだろう。
「昨日、あやつは、自ら占いを申し出たな」
カルヴェントの唐突な言葉に、ファーガスは面食らった。
「そうでした。あの少女たちと、少年たちですな。ですが、それが、何か?」
「あのとき、二人の少年は、少女たちに便乗する形で占いを所望した。どうも、本当のところ、占いには興味がなさそうじゃったがな。一緒にいた他の者たちが、驚いた様子をしておったからの」
ファーガスは、ようやく、座長の言わんとしていることを理解した。
「では、フロイが何か仕組んだとお考えで?」
案の定、カルヴェントは首肯した。
「そうじゃ。……お前は知らぬようじゃがの、儂が小耳に挟んだところでは、あの二人の少年は、未来の大盗賊との評判じゃ」
話が、くっきりと見えてきた。
「ということは、フロイは、その少年たちに目をつけて、うまい具合に利用したということですか」
そういえば、一昨日、フロイは、買い物を言いつけられた後、市場から姿を消し、盗賊競技会を見物していた。気分転換などと吐かしていたが、本当は、自分に協力してくれそうな、適当な人材を物色していたのではないか。
「そういうことであるから、ファーガスよ、急いで昨日の少年たちの行方を探れ。そして、見つけたら、うまく儂のところに連れてこい。いいな。儂は、各地の仲間に連絡を取る」
「わかりました」
言うなり、ファーガスは、早速、二人の少年を捜すため、街に出ていった。
一方、カルヴェントは、独り天幕に残り、卓の上に水を張った水盆を用意した。そして、両手で印を結び、古代竜語の呪文を唱える。仲間への連絡を行うのだ。あの首飾りがないため、骨が折れる。あの首飾りは、なんとしても取り戻さなければならない。そして、あの少年、フロイも、逃がすわけにはいかなかった。
続く
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