【遊び研究2】」「言葉への責任」ってどうやってとるの?とれるの?「好き」という誉め言葉の無責任さと「ただ生きる」こと。祈りの有効範囲と「他人は変えられない」

重要なことです。褒めると誉めるは違います。(言葉は、できるだけ正しいく使いたいですね!!!)

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この記事は誰かを怖がらせたり、不快にさせたり、嫌な気持ちにさせたりしないだろうか?

この記事はかなり話がぶっ飛んだりしています。僕の頭を整えるために書いています。読みにくいと思います。すみません。


言葉への責任ってなに?

言葉で人を呪ってはいないか。

言葉が毒にも薬にもなっていないか。

祈れているか。僕はちゃんと。

昨夜はこの言葉に出会ってうわー!となった。本当に、気をつけなくちゃいけない。そういう心の構えを、僕は「責任」と言っている。責任は、背負うものではなく、使命であり、命の使い方のことだ。(これはもちろん、僕にとっての「責任」のあり方)。

Canaxiさんの曲を聴いて、僕は僕にないものを感じている。僕が探している祈りの姿を、この曲を聴いて僕は想像する。

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誰かからメッセージが来る。→「うわー!メッセージが来た!」という興奮がおさまるまで待つ。→傘村トータさんの靴と爪を聴く。その人のことを思い出しながら、言葉を選ぶ。。。まずは、落ち着こう。ね。僕よ。繰り返さずに、やり直そう。ね。言葉をちゃんと、使おうね。間違えないように、間違えないように・・・・

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責任という言葉には2つの意味があるように思う。一つは、よくつかわれている「与えられるもの」としての責任。罰ゲーム。もう一つは、「自分で勝手に背負う」もの。積極的に自ら負う責任。使命、ともいいかえられる。大きな子供たちからおそわる意味は前者である。

これは僕が昔、責任という言葉の指し示すものを知ろうとして考えたこと。最近、うきよじんぐさんが責任という言葉を使っていて、親しみを覚えた。そして、使ってみた。なかなか、激しいな。厳しいな。と、感じている。責任という言葉は、重い。

ukiyojinguさん

「言葉への責任」という言葉はスペースで聞いた。ノートで見つけようとしたけれど、膨大さを前にして諦めた。

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ぼくは「言葉への責任」と言う言葉を使ったことがなかった。最近使ってみた。使って気づいた。責任って、なんだろう。どうすれば責任をとったことになるんだろう。責任、がさし示しているものは何なんだろう。うきよじんぐうさんは「言葉を使う覚悟があるか」とも表現していた。責任、という言葉になると、とたんに意味があやふやになる。覚悟であれば、何がしかの危険性、暴力性を想像する必要性を訴えているとわかるが。責任、とはなんなのか。もしかしたら、とでもなく大きすぎて僕たちホモ・サピエンスには到底背負える代物ではないのではないか。そんなことを想像している。



最近、僕は、とある人をきずつけた。もう何人も傷つけてきた。もう責任をおうなら、辞職、がいいだろうか。ホモ・サピエンスをやめて、土塊に戻る。少なくともネットからはデータを消し去ることが責任だろうか。僕が誰かを傷つけないように。言葉を使わないことが、もしくは「てへぺろ」とだけ言っていたらいいだろうか。それは、無責任か。僕らは言葉を使わざるを得ないから。


責任、とはなんだろう。罰のことだろうか。罰は、与えられたら、罰を受けたら責任をとったことになる便利なもののように思う。(日本の皆さんは組織の誰かが悪い事をして頭がすげ替えられたら組織が責任をとったことになるのを、みなさんも何度もみてきているとおもう。いや、ただ謝って終わり、ほとばしりが覚めたら元通り、なかったことにされることが多いか)。


いなくなる。

やめる。


それで責任をとることになるだろうか。だとしたら、だれも責任なんてとりたくない。やめることなんてできない。いなくなることなんてできない。そんな荒廃した(僕もその一因となっている)ネットという世界において、「言葉の責任」などといっても、寝耳に水、馬の耳に念仏、棚からぼたもちである(かぴかぴに乾いたぼたもちを想像して欲しい)。



では、意味がなかったか。「言葉に責任」を、もしくは「言葉の責任」を想像したり感じる人が、少なくとも一人いるではないか誰か一人に意味があったなら、いいじゃないか。と思ってみる。(曲に対しても、僕はこんなふうに感じたらいいのかもしれない)。

いろんな人がうきよさんを知っている。記憶している。思い出せる。その凄みを僕は感じている。

脱線した。例えば、うきよじんぐさんは「言葉の責任」をとっているか。

そう問いかけるこの記事は、「言葉の責任」を取れているか。責任を取るとは、なんなのか。責任という言葉を、自分自身に向けた時、この言葉の激しさを、厳しさを、重みを、僕は感じる。

誰かが言っていたな。「切先を自分に向ける」のだと。

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「言葉への責任」を負う過程で生じる被害者

僕の答えは残酷だ。責任とは、学習のことだからだ。つまり、僕たちは、言葉について学び続けなくてはいけない。という言い方が、責任の意味ではないかと、僕はおもう。だから、残酷だ。なぜなら、失敗が前提だからだ。残酷にして残虐だ。(初めから、生まれてから一度も言葉を「間違わずに」使っている人がいるだろうか?少なくとも僕は、「間違って」きた)。

「言葉への責任」=「言葉を学び続ける意志」

言葉が与える影響。僕はそれを想像できないまま,  言葉で、思慮が及ばず、誰かを怖がらせたり不快にさせたり不安にさせたりする。僕は未熟だ。だから僕の犠牲者、被害者がでる。許してくれるだろうか?僕が成功するまで。何度も、何度でも、やり直させてくれるか?(傷口をさらにえぐられることを想像してみて欲しい)。他者が学習の機会を、与えてくれるか?学習、コミュニケーションという概念は、他者が必要であって、自己完結しない。つまり、学習する責任といった場合、他者も責任をおう必要があるということだ。なんということだ。


なんてこった。


もしそれが「言葉への責任」の意味であるなら、責任を取るためにいなくなることなどもってのほかだし、逃げてはいけないことになる。責任が、つきまとう。重い。誰かが言葉への責任を負おうとする(学習により責任を果たそうとする)なら、一人では無理だ。だれかと背負わなくてはならない。


誰と?

コミュニケーションとはそもそも失敗が前提にあり、それを埋め合わせるプロセス、互いに互いを学習することが、コミュニケーションだと、安冨歩さんは言った。僕はこの言葉を知るまで、コミュニケーションが何かわからなかった。それはただの情報伝達ではない。ただの情報伝達、命令、指示に溢れた、もしくは「ただのお喋り」で溢れた<知る>だけの世界で、<理解>に至る経験が希薄な世界で、コミュニケーションの経験を与えられなかった世界で、一体、誰が「言葉の責任」という言葉の重みをきちんと抱きしめているだろうか。

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そんな世界はいやだ!自由に使いたい!だってほら、今までも自由だったでしょ?

僕たちはまだ、経験したことがないだろうか?無責任な言葉に、心をすり減らされたことが。もしくは言葉で誰かを傷つけたことが。ないか?そうか。そうなのか?そんなはずは?でも、やっぱり、経験したことがないのかもしれない。


ずっと一人だった。

今でも孤独だ。

だから、責任の必要性を感じた事がない

だとすれば「責任」をとれるようにするには、まずは、孤独から、なんとかしなきゃいけないのだろうか。

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もしくは、誰かと一緒にいるけれど、コミュニケーションが怖いのかもしれない。相手が不快にならないか、相手が何を感じるかわからない恐怖、失敗の恐怖が、言葉を軽くしていったのかもしれない。

コミュニケーションの失敗=ホモ・サピエンスとしての生命の危機

そんな状況下にいたのだろう。失敗ができない。失敗すれば、村八分。だから「綺麗な言葉」を使ったり、上下関係を利用して命令指示する。

だとすれば「責任」をとれるようにするには、まずは、安心しなくちゃいけない。安心して失敗できる、一緒に言葉を学べる人と関係を作らなくちゃいけないのだろうか。


「言葉への責任」という重みある言葉を、どうも、あまり人は感じたことがないように思う。僕が学校で出会ってきた大きなこどもたちは、特にそうだった。言葉が通じない。決められた言葉だけを繰り返すだけの機械。感じないし想像もしないのか。学習の必要性を感じないのか。ぼくはもっと、もし「言葉への責任」という言葉をつかうなら、人の、一人の人間のもつ文脈に、肉薄しなくては、届かないのだろうなと、想像している。「言葉の責任」があるなら、言葉を届ける責任も僕は感じたい。(そもそも、届くのか?届かないなら、責任は、はたせないのではないか?命への責任が、産み落としてから、生きていく前プロセスにあるように。言葉にも命があるとしたら)。


言葉を届ける旅。



チラシお断り。



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責任放棄としての沈黙

最後に、語らないことについて。沈黙。責任をとらない。言葉を語らなければ?行為しなければ?それは全体主義を、ナチズムを、いじめを、肯定することにならないか。ぼくは心配だ。大丈夫か?


え?それとこれとは別の話ですって!?

そ、そうなんですか!?


ある人はこういった。


「言葉なんて。大事な時に、役に立たないよ」



わかりみが深い。


てへぺろ

↑言葉を蔑ろ(ないがしろ)に使う例

(20251106追記。蔑ろではなかった。https://note.com/hitoiki4105/n/n89c5f2ffffde


「言葉なんて。大事な時に、役に立たないよ」

この言葉を僕に贈ってくれた人は、まさにそのような経験をしていた。経験は、誰にだって重たい。そこで言葉から距離を置くか、言葉に近づこうとするか。その違いは、どこから来るのだろう?

「言葉なんて。大事な時に、役に立たないよ」

ではどうするか?この言葉を僕に贈ってくれた人の答えは、「行為する」ことだった。どういうことか?その人にはその人の文脈があって、その人はすでに自分を安定させる人がいて、それ以外の人との「いざこざ」や何かへの「苛立ち」を言葉でなんとかするのではなく、「なかったことにする」ことで解決するアプローチを取ったのだ、と僕は理解している。「邪気を吐き出す」と、その人は言った。吸い込まざるを得ない、コミュニケーションなどできない、ある種の諦めざるを得ない関係性を「なかったことにする」というのは、とても現実的だと思う。

悩んでいる人がいたら、一緒に歩くとか、夕陽を見に行くとか、朝日を浴びるとか、そういう行為によって、言葉の代わりに体を介して関わる。僕はその効果を知っているつもりだ。それはとても「やさしい」ことだと思う。それでも、僕はやっぱり言葉を大事にしたいと思う。

もう一度、この投稿を引用。

言葉は恐ろしい。最も簡単に相手を殺す。苦しめてしまう。言葉が通じない人たちもたくさんいる。こっちが責任を(背負わされるのではなく)背負いながら、つまりコミュニケーションのつもりで、失敗前提で言葉を使っても、相手は勝手に理不尽に感じ、ただ被害者ぶるだけで終わることもある。

言葉には「正しい使い方」がある。

僕は誰も抑圧しない言葉のあり方を、まだよく知らないのだ。

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被害者を出さない言葉の一様式としての祈り

ヨルムンガンドというアニメがある。「もっといい世界」のために多くの人を殺すかどうか。主人公?の少年はそのやり方を否定する。ホモ・サピエンスの人口からすれば少ない数だが。多くの人が、死ぬ。そんなとき、主人公の男の子は嫌だといった。言葉にしても、誰かを傷つける可能性があるなら、使わないほうがいいのだろうか?武器と同じで、誰かを傷つけもすれば助けもするだろうか。

武器商人は責任という言葉を考えない、思いつきもしないだろうか。(どうなんだろう。アニメの中では、なんていってたっけ?)。自由主義経済でお金儲けとしているだけ。とずっと思っていた。武器商人が、いなくなればいいのに。僕はそう思っていた。僕には武器以外の代わりの用意がある。と思っている。言葉だ。けれども言葉を、少なくても僕は、まだうまくつかえていない。

そもそも「大人」って何?「精神的成熟」って何? という章に「武器の代わり」となる言葉のあり方を書いたことがある。読んでみてほしい。

「言葉を扱う覚悟はあるか」うきよじんぐさんは書いた。今はどう思っているんだろう。言葉を使わないにしても、覚悟がいるような気がする。もし、言葉を使わないことで責任を果たす、ということもあり得る気がする。

だからもしかしたら、責任、という言葉は、僕らが扱うにはちょっと難しくて、他者として相手のかんじかた、考え方を想像して、想像しながら関わって、お金ではなく互いの学習への貢献のためにつながって、失敗して、ごめんなさいして、反省文書いて、誰かに失敗を一緒にふりかえってもらって、やり直して、また失敗して。また失敗したと泣いて、それでも少しずつ、少しずつ「もっとよく」なること。よくなれると信じること。少なくとも、自分自身が。

そう思うと、「子どもの遊び場」に子どもだけしかいなかったら、一体どこで、言葉の重みを経験できるだろう?という問いが頭を擡げる(もたげるって、こんな漢字だったんだ!)。

言葉が軽い世界、遊び場についての記事↓


学習は、学習を共にする仲間がいなければ成立しない。

僕は間違っていたんだろう。

間違った。

不理解による誤解。誤解による不理解。

相手の感じ方、考え方、欲望、認識をもっと知ってからでないと、言葉をえらべない。チャイムを鳴らしてこんにちはして。それからそれから・・・仲良くなって、一緒にご飯も食べて?・・・・それからそれから・・・そんなふうに、学習関係?をつくるプロセスを、僕はもっと、ずっと、想像しなくちゃいけない。と思う。



僕はぼくの言葉で傷つけてきた人の分だけ人を助けないといけないというルールを作ろうと思った。死ぬ前にクリアできるかしらん。


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僕は「責任」という言葉を「学習」に帰結させた。僕にとって「学習」がどうして大事なのか。思い出してみよう。

僕は大事な人を言葉で傷つけた。苦しめた。もう、嫌だと思った。いつかまた出会う大事な人を、傷つけたり、苦しめたくない。信頼を、裏切りたくない。僕自身が、傷つきたくない。とも言える。そんなリスクを負ってでも、僕は人を関わりたいし、言葉を使いたい。

多分僕は間違っていて、本当は僕は孤独になりたくて、けど孤独でいられる何かがたりていないのだと思う。それが何かを、今、間違いながら、探しているのだと思う。


「好きなことをしてほしい」


この言葉をまだ覚えている。僕にとって大事な人、僕が傷つけてしまった人だ。もしそれで僕が楽になれるなら、「好きなこと」を、僕は思い出したい。知りたい。そこに言葉は、<一体どんな姿で>うごめいているだろう。


「ごはん、おいしいね」


綺麗なこと、いいこと、元気になること。

僕はそれがいけないことだと思ってはいない。

それだけではいけないとおもっている。

きみはネットとのつながりを切った。

人とのつながりをかぎりなくへらした。

それは間違っていない。

人が多すぎて、僕だってめまいを覚える。

ことばではないかかわりかたがあることを、君は僕に、行為で、教えてくれたんだな。


ごめんね。

ありがとう。



ごめん。


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僕は先に喫茶店でまつていた。あの子がやってきた。最初に目が合った時、あ互いに笑顔で、手を振り合った。「ひさしぶり。もう何年も会っていなかったね。5、6年?」

言葉は次々と生まれては消えていった。僕らは音を発しながら、互いを思い出したり、感じ直したりした。

無害な、綺麗な、ただなんとなく人の口から飛び出すその人の何かだった。ただ消費され、消えて、なくなる。とはいえないような気がする。人が人を思い出しては無くなっていく言葉。人に何かを思い出させては言葉が消えていく。残ったものは、少しだけ、互いの何かを取り戻した僕とあの子。同じジュースを飲んだ。というかあの子は僕と同じじゅーすを頼んだ。美味しかった。それからあの子が僕を銭湯に連れていってくれた。行きすがら、気功の話をしてくれた。悪いものを外に出すことが大事なんだと、あの子はいった。邪気を吐き出すのに、あの子はよく銭湯に行くらしい。「邪気を誰かに頼って誰かに出してもらいたくて作った関係は、うまくいかなかったよ」あの子はいった。僕には思い当たる節がある。過去形。現在形。もしあの子が、ひとりでもへいきになったら、もっと誰かと、もっといい関係を、つくれたのかな。つくれるのかな。

僕はただその言葉を聞いて、祈ればよかったのかな。

僕ではない君と、僕が、こうして一緒に笑いながらジュースを飲んだり、隣を歩けることを、よろこべばよかったんだ。

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実家に帰る。

家はひどいことになっていた。

人は変わっていなかった。


僕と親は、歳を重ねた。ふたりして、歳をとった。笑って誤魔化す、笑って濁す、笑って平和裡に会話を終わらせられるようになった。そのリズム、トーン、呼吸は、もう昔のそれらではない。僕は、真面目すぎたのだろう。切羽詰まっていたのだろう。


ごっめーん!また間違っちゃった⭐️てへぺろっ!


ぼくがもっとよくなったら、もっといい世界になるんだろうか

少なくとも僕の周りは。

ぼくがずっとこのままだったら、世界はもっとよくなるんだろうか。

僕がいなくなったら?

もっと世界は、よくなるんだろうか。

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言葉に力がなかったら、言葉が軽かったら、助けたい人を助けられないかもしれない。そんなことを、この投稿を見て思った。言葉は、その声は、音は、行為、表情と同じくらい、「語る」。責任というのは、言葉だけの話ではない。

なりたい自分。

なににちからをもとめるか。

ぼくはだれかをまもれるか。(一人の人間として)

ぼくはよわすぎたから、間違ってばっかりだから、強くなりたいと思った。正しくありたいとおもった。そのために、そのために?失敗をしてたくさんの人を傷つけてきた。僕が許されるなら、やっぱり、僕が傷つけた以上の人を、僕の言葉で、助けることしかないんじゃあないか。(そんなことが、できるのであれば)。

これが、ぼくの、贖罪。

これが、ぼくの、責任。

かっこ悪いけど、結構マジで言っている。(そんなことが、できるのできたらいいね!)。

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言葉の無力さを経験した僕たちは二手に別れた。言葉と離れる人。言葉を強くしようとする人。ある人はこう言った。言葉は力を持っている。ナイフとおなじで、使い方次第じゃないか。知らないだけなんだ。言葉の使い方を。教わってこなかったんだ。だから、学べばいい。だって、言葉は、強くすることができる。言葉は、やさしくすることができる(その一様式としての祈りを僕は想像する)。

言葉から離れている人は、その人の文脈を持っている。僕はその文脈を、一人の人間の経験を想像する。そうして<理解>しようとする。僕とは違う認識(それは感じ方も含む)を持つ他者と笑いあう。そのための敬意を、僕は忘れてはいけない。マジで。そして、凌辱者からは、離れなくてはならない。(僕が凌辱者認定されることも、自然なことだ。そうして僕らは互いに背を向けるのだろうか。仕方ないことなのだろうか)。


どちらも、それぞれの「もっといいせかい」を作り出すための言葉への認識がある。言葉を暴力に使う人もいる(立場主義!上下関係!)。


「自由」へのカウンターパンチとして「責任」という言葉を一緒に使うことが、小さい子どもの時に「自由」と「責任」を「教わる」「経験する」ことが、大事なんじゃないか(学校が壊れているので実現不可能)。「自由」という言葉が強調される、自由主義経済の大きな流れで「責任」が個人の「自由」の範疇に収まっているこの世界で、僕は「責任」という言葉の佇む姿を、想像している。

「他人を変えることはできない」

結局、「言葉への責任」も主義主張であって、「自由」で溢れたこの世界で、僕は僕が間違わないように生きたいのかもしれない。少なくとも、僕が間違わないように。「もっといい」世界は、僕の周りにしか作れない。ホモ・サピエンスの有限性を、僕は改めて認識しなくちゃいけないと思う。

仲間を、大事にしたい。(人恋しいから)。

「他人を変えることはできない」

もし祈りに手順があって、助かりたいと思っている人がいるなら。もしその人が僕を信頼(信用ではない、言葉はできるだけ、正しく!)してくれているなら、僕はその人を助けようとしているその人を助けることができるんじゃないか。忍野メメの言葉を思い出す。

「変わろうとしているなら、その技術を伝えることはできる」

「他人」よりももっと近い関係にあるなら。もしかしたら。

Canaxiさんは、赤の他人、関係性のない他者をして「他人」と言っているのかもしれない。

だとしたら、僕の曲を最初に聴いた人は、「なんだこいつ?」って思ったに違いない。反省。(音楽性は人間性である)。

「生きるって難しい」?精神構造(認識)の話。

大人になるって、難しい。

「ずっと子どものまま」死んでいくかもしれない。だとしたら、僕は

責任をとれずに死んでいく。「なんだ、結局、みんな大きな子どもじゃん」。

凌辱、ハラスメント、ネグレクト、スポイル。無抵抗。不服従。そんなことを、誰かが言っていたな。あ、非暴力か。無抵抗ではない。非暴力不服従は、抵抗の形式だ。ハラスメントに対する、暴力に対する、抵抗の一様式だ。

カントの定言命法が頭をよぎる。「汝の格率が普遍的な法則となることを、同時に意欲できるような格率に従って行為せよ」。あれは、仲間のうちでは通用しても、仲間の外には、通用しないケースがあるんだよな。普遍的って、難しいよな。けどその共通項が見つけられたら、いいんだよな。などとおもう。

抵抗している。お薬も、ケーキも、難しい本も、祈りも。(しかし、不服従かどうかは気になるところ。相手が「システム」だとしたら。厄介だ。厄介か?)

「行為」の普遍性を、僕はいま、想像している。

誰かが、祈っている。

言葉ではない、行為で。生きている。それが祈る姿であるように、あまりにも普遍的に、祈る。

「祈りってなんだろう」↓

笑いあう言葉。

笑って別れるための言葉。

笑い合ったことを記憶するための言葉。

コンビニの前、影の下で休んでいる人がいた。声をかけた。

最初の日ところで、なるべく僕が無害認定されるように。

そしてこんな会話になった。

「暑いですね」

「まだまだ、暑いですね」

制服、作業服を着ていたから聞いてみた。「どんなお仕事なんですか?」

「設備です」

「この暑さじゃ、機械もいうことききませんね」

僕は笑いながら言った。その人も、笑った。

息抜き。詰まってしまった息を吐き出す。「邪気」を吐き出すための、おまじないとしての言葉。お呪いとしての言葉。

「好き」を言い合うことも、お互いに「邪気」を吐き出すことなのかもしれない。その言葉で現実はかわらない。暑さは変わらない。ただ、笑った。わらえた。詰まっていたいきが吐き出せた。それだけでも、「いい」。そんな関係性を想像する。

同時に想像する。本当に、「邪気」は抜けたのか?詰まっていた息が一瞬ほどけだだけで、邪気は、残り続けているのではないのか。それは「お薬」と同じではないのか。同時に思う。人が空腹になって、食べて、また空腹になるように、邪気は出たり入ったりするものではないのか?同時に思う。邪気がもし人の心的状態、構造、アルゴリズムにくみこまれているとしたら、その構造を変えていくことで、その人は「もっとよく」ならないだろうか?それとも、「気晴らし」によってしか、人は「よく」ならないのだろうか?


空腹は決定づけられている。しかし、心的構造は、まだ、「自由」の余地がある。そんなふうに、僕はおもった。その「自由」を使いたい。とぼくは思っているのだろう。それは僕が、であって、この「自由」を望まない人に、僕は僕の「自由」を押し付けてはならない。ちゃんと相手を知らなくては。きっとまたまちがえてしまう。僕は決して自由ではない。自由になりたい。自由でありたい。(「責任」と結びつけられた「自由」は、もはや勝手きまま、ではない

ストレスフリー、という言葉がある。ストレスが、ない。である。自由になりたい?一体、何から?

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僕は誰かの前に立ちはだかりたくない。こわがらせたくない。もしそうしてしまったのなら、僕は間違えたことになる。なぜなら僕はそうしたくなかったから。僕はまだこどもだ。これは、僕が大人になれない物語なのかもしれない。そんな物語の中で、僕はどう生きているんだろう。どう祈っているだろう。僕にはまだ、想像できない。

おーん。

「好き」

「好き」

僕はその幸せ?な世界で、一人、なにも好きになれない孤独を、呪っているのだとしたら。ぼくはまず、ぼくに祈った方がいいのかもしれなない。

人が好きなのかしらん。

うーん。うーん。うーん???

ごはんをたべよう。

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自分の曲にも、言葉と同じように、僕は責任を感じている。ちゃんと見てもらえるような格好をしているか。聞いてもらえるような工夫はしているか。それでいて、本質は損なわれていないか。僕の曲が誰かを苦しめていないか。怖がらせていないか。うーん。

新しい曲が僕の頭の中に2つある。それを産み落とす責任はあるだろうか。責任。そうせねばならないこと、のような響きがする。義務。責務。逆に作らないことで果たせる責任があるのだろうか。表現してはならないこと。

勝手気ままな「自由」の代償

今、たまたま「殺人事件」の記事をネットで見かけた。金銭が目当てではない、殺人。その孤独を、邪気を、紛らわすことで、僕らはこの世界に貢献する。そのくらい僕らは、何の責任も負えない、小さな、小さな子どもなのだろうか。僕らは、スマホを手渡され、言葉を奪われなかったか。その代わりに手にしたものは、一体なんだったか。ナイフだったんじゃないか。

もうみんな忘れているかもしれない。ふわっちの配信者、最上あいさんが殺された。「じぶんごと」ではない。「自分とは関係ない」と思うなら、そう認識しているなら、ただの事故だと思っているなら、福島の原発事故を「事故」だというのと同じ。戦争を「事故」だと思うのと同じ。それは人災であって、偶発的なアクシデントではない。

僕はそんなことを、想像している。

責任が負えるほど、僕らは強くない。だから強くなりたいとおもう僕は、狂っているのかしらん。


言葉により至る認識(理解)。そして精神的成熟を阻害する言葉としての「好き」。


「好き」としか言えない理由があると僕は思う。言葉を教わってこなかったし、コミュニケーションも教わってこなかった。だけど人と繋がりたい。人恋しい。その表現が「好き」であるし「乖離系」であるし、「きれい」「かわいい」であると僕は思っている。

 

tiktokで見つけた動画のスクショ。引用元がわからない。

何もない。他に方法がない。こうするしかない。その状況を、僕は想像する。

「好き」という言葉がある。「死にたい」という言葉がある。SNSで「死にたい」という言葉がそえられたイラストがよく回ってくる。その言葉の背景に、生まれ出た文脈に、僕は興味を持つ。「死にたい」という言葉はそれ自体、「死にたい」けど死に方がわからない。のか、「死にたい」と思うほど苦しい、生きたい。のか。

僕はこういう自傷行為のイラストを目にするたびに、この絵を描き続けて、いいねたくさんもらって、認められて、見てもらえて、好きになってもらたなら、その人は、それ以上精神的に成熟しなくなる、成長できなくなるのではないかと思っている。人は人からの贈り物によって作られる。世界を作る。だから「言葉への責任」を感じる。言葉が、自己を、他者を作る。「尾崎豊は、尾崎豊のファンが殺した」。(ん?そんなこと別のどこかの記事で書いたな)。

みんなで死にに行っていないか。それが、生きるということなのか。

言葉がある。僕はその言葉に興味があるのではない。言葉を発した人間に興味がある。文脈、という言葉が頭に浮かんだ。

言葉の一つが、その人の存在を誰かに知らせる役割をもつなら、その人の認識や欲望にたどり着くための文脈を進んでいく暗がりに灯るぼんやりとした光が、僕の言葉であって欲しい。いきなり原爆のような光を投入したらダメじゃないか。僕はその道をいけない。間違ってはいけない。ただ僕は、その暗がりを、足元を、ぼんやりと照らす言葉でありたい。(言い方がカッコつけているようで違和感を持つ)。サーチライトで照らしたら、トータさんに怒られてしまう。「め⭐️」されてしまう。その時は、叱ってください。

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「言葉」がいらない世界と、「ただ生きる」世界。

こんな考える暇もないくらい「働いて」「食べて」「寝る」暮らしをしたことがある。いわゆる肉体労働だけど。その気持ちよさを、僕は今でも覚えている。僕らホモ・サピエンスがもつ前頭葉は元々、集団を生み出すための<虚構>を生み出すためのシステムだった。150というダンパー数を超えるために最適化されていると言ってもいいのかもしれない。(詳しく知りたい人はハラリさん?の『ホモ・サピエンス全史』を読んでください)。

集団でいつづけることを可能にする神の存在をささえるために、僕らの前頭葉が最適化されているとしたら?「言葉の責任」という言葉なんて「いわれてもよくわからない」で終わるのが自然だとも思える。

考える暇がないほど働いて、動いて、集団で居続ける。しあわせなんてことばももっといいせかいなんて言葉もない。それでいいのだろうか。なんて考えること自体が、ホモ・サピエンスとしての僕の生きづらさを表してはいないか。

暇。

暇であることの苦しみ。

考えてしまうことの苦しみ。

「今日の狩、さんざんだったわー」「まじで?たべるものないんだけどー」「どうする?あ、そういえば隣に(ネアンデルタール人の)村があったよね。明日襲いにいくかー!」

どんなに残酷に思えても、ホモ・サピエンスはそうやって生きてきた。「ただ生きる」。『葬送のフリーレン』で、悪魔は命乞いをする。言葉で。言葉は、「ただ生きる」ためにあるとしたら?「言葉への責任」は「生きることの責任」に言い換えられるのかもしれない。生きることの責任?なんだそれは?

生きる?って何?

「ただ生きる」。そのくらいの無邪気さが、僕らホモ・サピエンスにとって<自然>であることを、僕は想像している。(凌辱社会という自然さの中で、僕は、不自然に生きている。不自然に生きる。なんだそりゃ?)。

あー、死にてー

と思った

昨日

夜暑さに目覚めて

xを開いた自分の弱さが

恥ずかしくて


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