(´・ω・`)ショボーンの成り立ち、あるいは独自の遺伝子と経験故の人の内的世界の成り立ち。ポケットに小石をしまうこと。窓を開けること。およびヴァージニアウルフの『波』にみる息づかい。
まえがき
ことの発端はうきよさんの「海辺」がわからない僕。
返信欄でうきよさんとやりとりしながら、うきよさんの「海辺」が僕なりに想像できた。#先端映像音楽表現投稿祭 の意義(意図をあらためて感じた。人間という難解で面倒な存在が関係する。その関係性が変調や祈りであるように。と僕はどこかで思っている。まず僕は僕との関係性において、僕にやさしく。 https://t.co/HKbiaYPClD
— hitoiki/やさしく歩く会(孤立でない孤独支部) (@hitoiki327882) October 13, 2025
そこにbackwaterさんがやってくる。
納得しました、ありがとうございます。
— backwater (@cpi8ow) October 13, 2025
「海辺は、各々で異なる」のなら私にとっては「部屋」における「窓辺」のようなものと捉えています。
「(´・ω・`)ショボーン」で困惑したのは、hitoikiさんが引用したukiyoさんの文章で正に批判していたコピペの文章だったからでは。
そしてここに行き着く。
「(´・ω・`)ショボーンが、絵文字が、象形としてもつ力を感じているから」というのを、私にわかるよう説明してくれれば、あるいは溝は埋まるでしょうね。なぜそこに拘るのか?
— ukiyojingu@10/1POEMLOID論(改訂版)公開 (@ukiyojingu) October 13, 2025
(それはそうと、逆効果とわかってもなお言い方変えないのすごくね…??)
「相手が嫌なことはしない」では済まされない
うきよさんが嫌なことを、僕がしているなら、やめたらいい。やめるべきだ。やめるべきか?
なぜなら、ここに「理解」(なにそれ?)がなければ、どちらかがどちらかに屈する、従う、という構造ができてしまうと感じるからだ。だから「なぜそこに拘るのか?」という言葉は、問いは、重たい。お互いの欲求を知ることで「理解」して、「調停」をするというマーシャル・B・ローゼンバーグさんの非暴力コミュニケーションが、僕の頭にはある。これは僕の「言葉への責任」のあり方の一つのモデルだ。

僕にとって(´・ω・`)ショボーンは小石のようなものなのかもしれない。
↓ここに出てくる小石
コミュニケーションにおける(´・ω・`)ショボーンの価値
「なぜ?」を語るには、伝えるには、経験を語るしかない、と僕は思っている。結局、経験したことが、その人を作る(少なくとも経験しないことはその人を作らない)と思うから。
僕が高校の鬱時代に絵文字のことを嘆いたことがあった。気に食わない。くらいに軽く思っていた。僕は絵文字に傷つけられたことはない。多分そのせいだろう。話を聞いていた人からの返事は「そう?絵文字ってすごいよね。だって、相手が本当に笑ったり泣いたりしていることを、想像できるじゃない」。
言葉、文字だけでは伝わらない情報を絵文字が持つ。僕が(てへぺろ⭐︎)とか(軽口)とか文末に加えるのは、言葉の身体性を僕なりに補完する機能を期待するから。「どう受け取られるかわからない」不安を、僕なりに取り除こうというなけなしの抵抗。僕にとっては発見だった。
(´・ω・`)ショボーンとか|ω・)チラは、(てへぺろ⭐︎)とか(軽口)とはちょっと意味合いが違うだろう。言外の何かを伝えたいという欲望という点では一致するけど。だから「拘る」必要はないように思う。けど、この記事で、もしくはこの記事の外で、うきよさんが「ああ、そういう(´・ω・`)ショボーンもあるのね」と思ってくれたらうれしい。「言外」であることにうきよさんは嫌悪?しているのかな。(映像は文字さえなければ「言外」だから、きっと違うのだろう)。ただ、「言外」に頼ったコミュニケーションで、うきよさんが穿たれた(適切な動詞がわからない)経験を、僕は想像する(初めてDMを送った時にうきよさんの経験に関するとある情報をもらった。他の人には内緒!)。だからこの記事を書きたいと思った。うきよさんの感じ方をなかったことにしたくないと思った。
「知る」ことの原理的困難さは、(うきよさん同様?←これにうきよさんは動揺)言葉の限界、身体性や経験の違いのせいだと思います。「知るってそんな簡単なことじゃない」をお互いにわかった、上で、どんな関係性が作れるのかな。関係性を現実に経験しないと想像できない。だから曲を作って伝えてみる
— hitoiki/やさしく歩く会(孤立でない孤独支部) (@hitoiki327882) October 13, 2025
僕は、(´・ω・`)ショボーンという表現形式に「拘る」ことはないが、(´・ω・`)ショボーンの表現内容にある価値に「拘る」。僕が言葉を文字にして伝えることの不安を和らげる。伝えたいという欲望を補うから。けれどもそれで、うきよさんが「文字」を読むことをやめてしまった、気持ちが削がれた、のなら?そうしてこの記事を書いている。「僕の世界」を僕なりに表現してみよう。
僕の(´・ω・`)ショボーンは「hitoikiの(´・ω・`)ショボーン」であり、うきよさんを穿った?(´・ω・`)ショボーンではないのだと、感じてもらえたら、うれしい。
例え話を思いついた。
男嫌い、女嫌い。アニメなんかでたまにある。男嫌いな女の子が、「男って言っても、いろいろいるのね」と思える出来事が起きる。うきよさんにとって、僕がそれでありうるかどうか。僕は知らない。
象形文字としてのショボン
ここで雰囲気を変えて、象形文字について、文字の歴史について語ることもできる。生きるという文字は、地面から芽が生えたようなものの象形。地面とをとったら、牛になる。なんてこった。


(「生 成り立ち」と検索すると出てくる。気になる感じがあったら調べたら発見があるかも)
象形は象形。所詮、象徴にすぎない。では、いったいなにを象徴しているんだろう?
言葉の「成り立ち」によれば、生から地面をとったら牛、ではない。象徴は「ディティール」を含まない。(もう!)。「ディティール」は経験なのだろうし、経験を共有する困難さを感じながらそれでも共有したい、わかってほしい、伝えたい、という気持ち(いや、そんなものではなくて、ただ自分にやさしくするために他者が必要だという信念)で、僕らはまだ繋がっていられるだろうか。
僕は曲には興味がない。人間に興味がある(ただし人間は曲を含む)。
というのは、こういうことなのだ。
「成り立ち」に興味があるのだ。
ーーーー
僕の(´・ω・`)ショボーンは「hitoikiの(´・ω・`)ショボーン」であり、うきよさんを穿った?(´・ω・`)ショボーンではないのだと、感じてもらえたら、うれしい。
この記事で挙げたうきよさんの曲に出てくる「私」としてのうきよさんを、僕は想像している。「表層的コミュニケーションが深刻な影響を及ぼしている」とうきよさんは書いた。「言外」に頼るコミュニケーションに、「言内」が伝わらないコミュニケーションに深刻な影響を及ぼされたうきよさんを、僕は想像している。(言葉が通じないって、マジで?え?ってなる。その怒りは僕がかつてよく曲に出していたこと)。
それでも、それだからこそ、もう一度伝えたい。
僕の(´・ω・`)ショボーンは「hitoikiの(´・ω・`)ショボーン」であり、うきよさんを穿った?(´・ω・`)ショボーンではないのだと、感じてもらえたら、うれしい。
「海辺」で遊ぶ子どもたちの姿を、僕は想像している。
backwaterさんは「海辺」を「窓辺」と認識した。
納得しました、ありがとうございます。
— backwater (@cpi8ow) October 13, 2025
「海辺は、各々で異なる」のなら私にとっては「部屋」における「窓辺」のようなものと捉えています。
「(´・ω・`)ショボーン」で困惑したのは、hitoikiさんが引用したukiyoさんの文章で正に批判していたコピペの文章だったからでは。
窓を開けて、手を振って。お話ができることが、僕はうれしい。(また遊べるかな?え?遊んでいなかったっけ?)
あ、(てへぺろ⭐︎)とか(軽口)は大丈夫ですか?
(´・ω・`)ショボーン、もううきよさんに向けた文字で使うのはやめた方がいいかな?(うきよさんがこの記事読んだ後でも嫌悪?を感じるなら、マジでやめます。小石をこっそりポケットにしまう感じで)。
(´・ω・`)ショボーンの補完的な意味合いで認識を再構築するなり、「まぁhitoikiの(´・ω・`)ショボーンはいいか」と感じてくれたなら、僕はうれしいけど。
身体は記憶する。
ので。
ヴァージニアウルフの『波』にみる息づかい
借りてきた本。hitoiki劇場の破壊と再構築のために。 pic.twitter.com/MLs6zWuDyp
— hitoiki/やさしく歩く会(孤立でない孤独支部) (@hitoiki327882) September 15, 2025
ヴァージニアウルフが書いた『波』という小説で、「あ」とか「う」とかそういう「息が漏れた音」に関する記述があった気がしたので調べてみたら別の言葉が出てきた。AIによる解説。
「想像力は身体なの」:想像力が身体の枠を超えられないという、自身の内面を表現した言葉です。
「自分の身体が放つ輪を超えては、何も想像できない」:これも同じく、身体に制限された想像力について語っています。
肝心の箇所が出てこないぞおい。
🫧 例1:“Ah,” said Jinny, “I have been waiting all my life for this moment.”
(ジニーが言った。「ああ、私はこの瞬間を、ずっと待っていたのよ。」)
ここでの “Ah” は、単なる感嘆ではなく、身体からこぼれる息のような歓喜の発露として使われています。
ウルフは「声=存在の波紋」として描き、言葉が発せられる前の振動を重視しています。
🪶 解釈的に言うと:
ウルフにとって「息が漏れた音(interjection)」は、言語以前の生命のリズム
意識の波が立ち上がる瞬間の「泡」
人と世界が触れる接点
として描かれています。
『波』は登場人物の独白が音楽的に織り合わされていて、
この「あ」「お」「う」などの呼気のような音が、
人間の存在が世界と呼応する瞬間の証として響いています。
ああ、これだ。確か、あとがきかまえがきに書いてあった?いや、本文にあった気がするのだが。
「言葉になる前の、息のようなものを文学にしたい」
それが『波』という作品の核心です。
(´・ω・`)ショボーンを息遣いの表現として、僕は「拘って」いる。(しかしその表現形式として(´・ω・`)ショボーンに固執する必要はない。代わりに「ふぅー、ふぅー(動揺)」とか出てくるかも)。
そういうことか?
こうして、僕ではない誰かとの関わりが、自分のしてきた経験を意味づける。僕はそのことが、とてもうれしいのだ。
おはなしがハッピーを生むんだッピ(苦手な人がいたらごめんなさい許してああ、そうか。デフォルメにはそういう機能があるのか。 pic.twitter.com/jd4SM73xIQ
— hitoiki/やさしく歩く会(孤立でない孤独支部) (@hitoiki327882) October 13, 2025
ーーー
丹頂さんによると
こんばんはー!
— 丹頂 (@tanncho80632) October 13, 2025
ぎゃぼん!
うきよさんとの文脈は把握していないですけど、そういうのって僕は、相手に合わせてます。
例えば木陰さんに「新曲よかったです!╰(⸝⸝⸝´꒳`⸝⸝⸝)╯」というDMは送りません。
僕は「いや表面的じゃない部分の中にちらっとしょぼん使うだけだからいいだろう」と思っていた節がありました。うきよさん、ごめんなさい。嫌だって言ったのに?、また使うなんて、ひどいことしました。
靴と爪
「うきよさんにとってのしょぼんの深刻さ」を、僕は想像できていなかったし、想像した今でも、実際はわからずにいる。逆効果なのはわかった。嫌な感じがする。けどその「うきよさんにとってのしょぼんの深刻さ」がわからなくて、なかったことにしてしまった。言葉の重さを、感じられていなかった。うきよさんを僕が「読めて」いなかった。それを、うきよさんは「書いた」だろうか?よくわからない。
デジタル空間に特徴的であった「コピペ」と言われるような表層的コミュニケーション、すなわちいい加減な言葉の用法が現実社会にも蔓延することで、あらゆる場面で深刻な影響を与えていると私は考えています。
だから、お話を、したいんだ。(いいでしょう?え?え?怖い?何が?←コミュニケーションを続行
結局、hitoikiは(´・ω・`)ショボンを使い続けているか?
否。である。もっといい?ものを思いついた。もちろん、使いたい時には、(´・ω・)ショボンも使うだろうけれど。
