【遊び研究1】遊び場としてのニコニコと"ぼかれびゅ"の教育的意味、あるいは自由主義経済的意味。言葉への責任と自由。

この記事は、僕の失敗の物語です。反省文です。
この記事は、僕が僕自身を顧みるように宛てたものです。


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最近、ぼかれびゅの関係者の人と知り合い、僕の中で大変違和感を感じているぼかれびゅについて書いて気持ちを整えることにした。

この記事は棘が立って聞こえるかも知れないけれど、実際棘が立っているだろうけれど、それは僕の気持ちを整える過程で生まれたものだと思ってほしい。勘弁して!(と思ったのでタイトルを変えました。キャッシュが残っていてサムネが古いままの場合、「こいつ何様だよ」と思われたと思います。「もっと(より)いい」記事にしたつもりです)。

「好き(語彙力)」←てへぺろ♪

てへぺろ♪ じゃない。

曲は言葉である。
では、その言葉(の意味)を視聴者は受け止められているか。

言葉を発した。その返事が、あまりにも、貧弱だ。

多くは、ほとんど、限りなく、換言すればただの「好き」である。

そんな印象を持つ。

それがネットの作法なのか?それとも、本当に「好き」としか感じていないのか?

曲自体に、言葉自体に伝えたいものがないケースもある。

それは「最近、、、、でさぁ」「マジで?凹むわー」「でもさぁ、、、」「それな」のような会話。

会話の目的は、言葉自体ではなく、感情の解消にある。ただ聞いてもらって、反応を返してくれる、反応があること自体で安心する。そんな会話がある。(ニコニコでいうなら、いいねがつけばいい、再生数が稼げればいいという曲のことだ)

けれども、言葉に意味のある会話もある。(意味の意味を、僕らは知っているだろうか?)

言葉に意味を込めた曲がある。けれども、その意味は受け取られない。ただ映像の雰囲気、歌詞の雰囲気、音の雰囲気を味わって「好き」かどうかだけで終わり。想像できるだろうか。小さい子が「ねぇママ、今日こんなことがあったんだよ!」と言って興奮しながら話しかける。その子にとって<意味のある出来事>を話すに違いない。けれどもそこでママはこういう「あ、そう」。受け取らない。

僕はこういう状況に怒りを感じる。虚しい、悲しい、という気持ちも混ざる。どうして、<言葉>に重みを感じ取れないのか?

どうして、<言葉>を感じられないのか?

<言葉>を知らないからだろうか。経験したことがないからだろうか。<言葉>の意味を、重みを、叫びを。

経験しなければ、知ることも、感じることも、考えることもできない。

<言葉>の経験の圧倒的な貧困。それこそが、現実の残酷さ、不条理さを生み出しているのだし、それこそが、仮想世界の貧弱さであると僕は思っている。

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僕は、誰もが自分の行為に対して責任を負わなくてはいけないと思っている。なぜなら、行為によって、人は誰かを教育しているからだ。人は人を参照する。自分の行為の影響、結果を想像して、思慮して、行為しなくてはならない。それを善悪の判断と言ってもいい。

現在、学校でこの判断ができる人はほとんどいない。家庭にもいない。会社にもいない。だから言葉への責任も感じない。自分が残した「好き」のコメントが、誰かの認識に影響を与えること。誰かに発した言葉が、その人にどんな、多大な、影響を与えているのかを、想像すること。

ケーススタディとしてハチさんの『砂の惑星』をどれだけ「正しく」受け取れているか。

間違いどころではない。誤解の暴力性。(言葉に対する僕の敏感性)

こんな記事を書いたことがある。要約すれば、自分の言葉が、誰かに害を与える、と言う可能性があることを僕は実感した。

6−1ー2:この記事よりも大事なこと(誤解について)に書いてあること。これは一例に過ぎない。

言葉を受け取るのは「自由」だ。解釈は「自由」だ。と言う人がいる。本当にそうか。言葉はそもそも、間違って理解される可能性を持っている。その事実を、僕はまず認める。

主体が生成する意味は決して他者には伝達できず、曖昧な形で伝達されると同時に、ときには別のかたちになって伝達されることだってあるだろう。私が今こうして自由連想のように書き連ねている文章も受け手の内部では私とは別のかたちで意味が生成されていくだろう。そうして、私が電波で流す情報——音楽とともに伝達する私の思想や哲学——はきっと、誰かにとって全く別のかたちの情報として生成される。かくして、私の合成音声音楽はきっと組み替えられていく。私の作ったものはいつの間にか、私のものではなくなってしまうのだ。

https://note.com/ukiyojingu/n/n798480f3d90c

しかし。

自由よりも。
先に、責任がある。

なぜなら、言葉は、人に影響を与えるから。言葉は「行為」である。だから、僕らは慎重にならないといけない。他者への影響力に対して「責任」を感じなければならない。言い換えれば、少なくとも、自分の発した言葉が他者に与える影響力を、「想像」しなくてはならない。

「好き(語彙力)」←てへぺろ♪

てへぺろ♪ じゃない。

自由主義経済は責任を問わない。それが教育にまで浸透している。僕は善悪の判断は「もっといい」世界に寄与するかであり、その世界の姿(「大人」の姿)を別の記事に書いた。この理想、「もっといい」姿を、多くの人は想像しない。経験しなければ、知ることも、想像することも、感じることも、考えることもできない。

悪態を吐きたくもなる。

大きな子どもたちが、本当に悪いことをしてすみません。大人気なくてすみません。大人じゃないので、すみません。

だから僕は

「好き(語彙力)」←てへぺろ♪

しか言えない人を責めたりしない。ただ、僕たちがしている行為が、誰かを殺していることを想像してみてほしい。想像できないか?そうか。


現代をてへぺろ♪時代、と呼ぼうか?(←これは毒です。ごめんなさい。)


誤魔化さないでほしい。(←僕自身へのセリフ)

「好きなことを喋っても何も問題がないからいいんじゃないか」と思わないでほしい。なぜなら、言葉が、誰かの人格の形成に寄与しているからだ。少なくとも、初めてニコニコを訪れた人は、あなたの使った言葉から、「ニコニコ」のイメージを固める。

あなたの言葉は、感染する。(正確に言えば、影響する)。

あなたの言葉が誰かを教育している、人格の形成に寄与していると想像してほしい。

想像してほしい。

その重要性を伝えようとして書いた記事が、この2つの記事だ。

「大人」になってほしい。と言うことだ。今やっていることで、満足して欲しくないと言うことだ。「もっといい世界」がある。僕はそれが見たい。

という強い気持ちがあることをこうして記事にしているのかも知れない。

「好き」で曲を形容して終わるレビュー

ニコニコ運営代表の栗田穣崇さんを部長として、
ボカロ曲が大好きなユーザーたち「ぼかれびゅ部員」がボカロ曲への"好き"を「レビュー」で発信しています。

このサイトの他、ぼかれびゅ公式ツイッターでも発信中!!
ハッシュタグ #ぼかれびゅ で皆の"好き!"の気持ちもたくさん共有してください!

https://vocareview.jp/recommendation/

2つの記事では「好き」と言う言葉が根ざしている欲求について書いた。孤独、寂しさ、仲間といたい。ホモ・サピエンスのデフォルトの欲求を満たすように、「好き」を言い合う。ボカロを互いに盛り上げる。盛り上げる?布教する。

先に言っておくと、僕はぼかれびゅで曲を聴いて新しい発見をすることもある。けれどもレビューには、関心したことがない。

レビューとは何か。文脈によって違う。学術的には、「精査」の意味があり、学術的な文章として適っているか審査する行為をいう(正確ではないかも!)。書評、という意味で使われるなら、「何が書いてあったか」を要約すると同時に、その文章が持つ「意味」を浮き彫りにする<批評>を含む。

ぼかれびゅ、においてはどうか。「好き」か「嫌い」かで判断する。それも、「音」の良し悪し。つまり、ドラッグとしての有用性が基準になっていないか。気持ちいい!が基準になっていないか。その基準で「曲」を表す。それは曲を「好き」になってもらいたいだけの作者には悪くないだろう。けれども、「伝えたい」内容がある作者にとっては、「暴力」に近いものだと僕は感じる。少なくても、僕にとってはそうだ。

僕は想像できる。「褒める」「綺麗な」言葉しか、書けない、レビュアーの「思考」がレビューに表現されていないのは、レビュアーの人間性の表れであり、レビュアーが「思考」を表現できないのは、レビュアーの精神性の未熟さによるものであると。同時にそれがニコニコの文化であり、僕がニコニコに投稿される、そして多くの再生数やいいねをもつ曲のほとんどが「子どもの歌」であると感じる理由だ。


ボカロ文化は広がる創作の輪で成り立っています。
では、曲しか聞かない我々はその輪に入れていないのか?
…いいえ。そんな事はありません。
創作する人が居て、それを享受する人がいる。
そして受けた感動を自分の中で噛み砕いたり、また人と共有してみたり。そうしてドンドンと多数の人へと自分の好きが繋がっていくのです。
「たくさんの点は線になって
いくつもの線は円になって
全て繋げてく どこにだって」
もし自分の好きを広めたい…!という気持ちがあれば、感想をつぶやいてみるのはいかがでしょうか…!
一言でも、感情を思いのままに乗せてみても…。
自分は皆さまの感想を楽しみにお待ちしております。

思想(コトバ)とあるが、結局、感情のことを言っている。

「伝えたい」ものは音であり、感情であり、気持ちよさだけであるなら、それはあまりにも曲をレビューする(みる)という言葉に対して無礼ではないか。みていないではないか。思考を。作者が込めた熱を。思いを。

この言葉は、あなたにどう影響するだろう?

僕は厳しく書いた。なぜなら、「ぼかれびゅ」の自由さに、責任のなさを感じるからだ。

無責任な「大きな子ども」で溢れたこの残酷な世界で、ぼかれびゅが、「大人」になることを、僕は想像している。

(反省文を書いた後、今、見直している。「子ども」だからこそ「子ども」が遊びに来る。その価値を、今なら、想像できる)。

音楽とは、そもそも何であったか?


こんな話をして、あなたが興味を持つかどうか僕にはわからない。あなたを知らないから。それでも話したいと思った。

気持ちよくなる音楽、ドラッグとしての音楽がいつからあるのか?

気持ちよくなる効果を音に持たせる仕組みを「音楽」と言っていいかもしれない。音楽という表現形式は、音によって気持ちを変える効果がある。

けれどそれ以上に、僕が<ドラッグとしての音楽>と強く表現する理由は、その効果を、薬のように常用していることに対する懸念だ。人間性への配慮だ。

「いいじゃないか、好きな音楽を聴いて」

現代、音楽が溢れかえっている。好きに音楽が聴ける。それでいいのか?好きな音楽を聴いていいのか?考えてみてほしい。

もしあなたに子供がいたとしたら、スマホを、何歳から持たせるか?
子供をあやすのに、スマホを渡すか。

スマホを渡すという行為の影響を、想像してみてほしい。

同じことで、音楽の作り手にも、レビュアーにも、人の人格を形成する力を持つ。その集合的な言い回しが文化である。人は、文化に寄与する。では、どんな文化なのか。ニコニコの「子どもの文化」か。

ニコニコに喜びを感じる。一方で、現実の残酷さに嫌気を感じる。ニコニコに逃げる。僕はその問題性、ホモ・サピエンスの脆弱性を2つの記事で表現した。ニコニコが、「もっといい」世界の、到達地点なのかと。


「そうだ!」

という声が聞こえる。僕はその声に、「そうだよな!」と答える。だって、その声の主には、その世界しか想像できていないのだから。

「大人」になるためには、「大人」が必要だ。「大人」のいない世界で、どうして「もっといい」世界を、想像できるだろう?

だから僕は、何をしよう。

僕は何をしたいのか、思い出そうとしている。

きっと、「もっといい」別の世界を、想像してほしいんだ。

自己批判:子どもの遊び場としてのニコニコ、ぼかれびゅ

僕の言っていることは、間違っていないか?
そもそも、こう考えたらどうだろう。

ニコニコもぼかれびゅも、子どもの遊び場であって、その中で何かしら子どもたちは学び取っていく。現実の「遊び」が子どもたちの精神的肉体的成長に関与していることを、僕は知っている。その現実の「遊び」が、現在、とても弱くなっているのも、知っている。

精神的成熟(「大人」になること)に寄与しない、享楽としての遊び。(そんなものがあるか知らないけれど)

だとしたら、ニコニコもぼかれびゅも、「遊びたい人が勝手に遊んでいたらいい」場所であって、「大人」になること、言葉に責任を持つことを学ぶ場所になったらいいという僕の思い自体が、見当違い、お門違い、勘違いだと思うこともできる。

僕は僕で、「大人の遊び場」を作ったらいいじゃないか!

そうやって、僕らは離れていくのでしょうか。

なんか寂しいな。


ところで、「大人」の姿を、想像できましたか?
あなたは「大人」になりたいですか?

その姿は、「もっといい」あなたの姿だと、僕は思うのです。もしかしたらそれは、ずっともっと仲間と楽しくワイワイしている、子どもの姿かもしれないけれど。(それはもう、果たせているのではないのかな?)。出会い系としてのぼかれびゅを、僕は想像している。(僕は出会い系という言葉を否定的に使っていない。人は出会いを求めている。人恋しい。)

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「大人のニコニコ」を作る?それも、いいかもね!それはもう、ニコニコではないかも知れないけれど。

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僕はこの記事であなたを否定していない。あなたのことがわからないから、知りたい。という気持ちを、言葉にしたつもりだ。

あなたがほしいものは何ですか?

あなたは、現実に、どんな風に生きているのですか?


僕は僕で、何ができるか、何をしたいのか、想像しよう。
何度も、何度でも。


戸惑とまどい憂い怒り狂い たどり着いた祈り
君の心死なずいるなら 応答せよ早急に

ハチさんの『砂の惑星』

君が何を祈っているのか、教えてほしい。


僕はニコニコを通じていろんな人と出会った。「場所」としてのニコニコの可能性を僕は知っている。だから僕は想像したい。「もっといい」世界を。

(反省文を書いた後、このセクションを読み直すと、「キモい」と思われても仕方がないよなと思う。ごめんなさい)

ぼかれびゅ通信を見た(反省文)20250818加筆

ぼかれびゅが文字媒体で、ぼかれびゅは生放送。僕はぼかれびゅ通信の動画を見つけられなかった。この記事を書いて、猛省した後に、僕はこの章を書いている。

ぼかれびゅ

ぼかれびゅ通信

この二つの違いに、僕は驚いた。僕は反省した。僕が見ている世界は、僕が見ている他者は、僕の理解と不理解が前提になっている。その不理解の度合いが、僕の「ぼかれびゅ」への不理解が、あまりにも大きすぎた。

猛省している。

本当にごめんなさい。

ぼかれびゅ通信には、言葉がある。その言葉は?定位置(なんていうの?司会者?)の二人の言葉は基本、「好き」だった。

音楽の何を語るのか?

音楽を語る人がいる。それだけでも、意味があるだろうか。

(ゲストの存在の大きさを感じた。ゲストを通じて、司会者は何を感じ、何を考えているのか。気になった。)

音楽を語る人がいる。それだけでも、意味があるだろうか。
「音楽」への関心があることに意味があるのだろうか。
「製作者」への関心があることに意味があるのだろうか。

その関心は、どんな言葉で表現されているだろうか?

ぼかれびゅ通信の存在を教えてくれた人とメッセージをやり取りしていた。こんなことを教えてくれた。

僕は、ぼかれびゅ公式やぼかれびゅ通信の存在は、ハードルを下げる行為だと考えています。 批評や、考えることへの入り口を視聴者層に開くものだと思っています。 最初は「好き」でもいい。 これは、作品を見て考えることを、ぼくにとってすごく入りやすい場所にしてくれました。 昔の自分の「ぼかれびゅ」を見てみると、一言で済ませていたり、曲を説明しているだけのものもあります。ですが、それを続けているうちに、noteが書けるまで成長させてくれました。

入り口を開く。

最初は「好き」でもいい。

という言葉に目を止める。


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ぼかれびゅを再評価する。再認識する。全く、僕は、間違ってばかりだ。
悔しいな。ごめんなさい。

僕は思い出した。ぼかれびゅでレビューされている曲は、「日の目を見ない」曲が多いと。

僕は思い出した。僕は全曲聞こうとするけど、そうでない人にとっては、ボカロの何を聞いたらいいかわからない。

ランキング以外の指標で曲を紹介する価値を、僕は想像した。

僕がこの反省文を書く前に書き出していた言葉は、すべてレビューの内容についてだった。僕が見ていなかったのは、レビューの内容の外だった。見えていなかった。

全人格を知らずに、性格の一つを見ていた。
そんな失礼を、無礼を、不躾を、暴力を、僕はしていたことになる。

知らないことを、僕は恥じる。なぜこの記事を公開したのか?不理解を僕はもっと想像できたはずだったのに。そんな感じで、僕は反省している。

実際にぼかれびゅで「何が起こっているのか」僕はDMのメッセージを見て想像することができた。ぼかれびゅを知らない状態で僕はぼかれびゅを語るべきではなかった。この記事は、少なくとも前半は<知らない人の情報の一部を得て評価判断を下すSNS>のような悍ましさがある。おぞましさがある。

また、傷つけてしまった。

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DMでもらったメッセージ。それが僕の学習の回路に流れ込んだ。

感謝しかない。感謝以上だ。

その上で、改めて、遊び場としてのぼかれびゅ、ぼかれびゅ通信について話したい。

気持ちが落ち着いた。あ、そうか。今日僕は疲れているのか。

10年後、20年後、30年後を僕は想像する。ぼかれびゅはどうなっているだろう?ぼかれびゅ通信はどうなっているだろう?ジヲさんとぴちさんは、ボカロへの気持ちをまだ持っているだろうか?生配信を続けているだろうか?それとも?二人の言葉は変わっているだろうか?曲を聞いた時に、感じるものが、考えるものが変わるだろうか?

曲も、生配信も同じで、僕は、その行為者がずっと同じことをやり続けるのか、その人が(人間的に)変化するのか。気になっている。同じことを繰り返すことは、繰り返し続ける限り、ボカロの入り口になったとしても、「もっといい世界」には近づけないと僕は思うからだ。

そう思いながら、僕は自分の曲を思い出す。

勝手に生きて勝手に死ぬのが生命。
「もっといい世界」など大それたことを言ってるんじゃねぇ。

と。

僕は、ぼかれびゅ(通信)という一つの自然に、一つの場所で人が曲と出会い、言葉と出会い、一人一人が<勝手に>進化していく姿を、おっさんらしく、眺めて、ほそ笑むくらいがちょうどいいのかな、と思った。

僕が思うより、僕らは、きっと、ゆっくりと生きて、ゆっくり死んでいくのだから。


僕は曲には興味がない。人間に興味があるんだ。(ただし人間は曲を含む)。
作者と言葉で向き合いたい。僕のそんな気持ちを、ぼかれびゅに強く押し付けながら始まったこの記事は、こうして「現在の自分」を意味付けし価値づけし直すことに成功したのでした。と思える。「好き」を知らない、と僕は思っていた。けれども、「好き」はやっぱり、ただの好ましさであって、自然な衝動であって、それは「入り口」だったんだな。と思う。気が付く。

誰かの言葉で。気が付く。思い出す。僕はきっとそれを知っていたけど。あまりの孤独に、息苦しさに、僕はたくさんのことを忘れているんだろうな。きっと、思い出したいんだろうな。音楽を聴いて。言葉に触れて。お話をして。

誰かの言葉にすくいとられた記憶が、感情が、欲望が、誰かの言葉が結びつける思考が、認識が、僕らは「もっといい」僕らにしていく。入り口になる。そんなことを、僕は想像した。

僕は誰かからの貰い物でできている。

ぴちさん、ジヲさん。こんな僕ですが。お話できたら嬉しいです。

僕は今、ぼかれびゅが生んだ熱が、誰かに伝わって、その人が「もっとよく」なった姿を、想像している。

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