【遊び研究3】スケボー少年たちと話したこと。<仮想>でも<現実>でもない<遊び>という世界観。そしてボカクラとUTAUグッズ販売会に行った話。「民族音楽」の意味。

ボカクラとは、ファンメイドイベント、ボカロが好きな個人が企画し仲間を集めてボカロを聴いたり踊ったりとにかく関わるイベントのうち、クラブ、音楽があるイベントのこと。

この記事で傷ついた人がいたらごめんなさい。

もし嫌な思いをしたならこの曲を聴いてください。(さらに嫌な思いをするかも!?)



「もっといい」世界って、何だろう。


<現実>って、厳しい。痛い。辛い。もうやだ。

これは僕が現実に東京のとある学校の先生になるべく試験を受けに行った時の話。

ひーふーひーふー

僕は間違っているのだろう。

伝わらない相手に言葉をかけていたなんて。

なんて間抜けなんだ。これが<現実>だ。

逃避もしたくなる。残酷すぎる。ぼくが、弱すぎる。(<仮想>は、まだなんとかできそうな、可能性を感じる。間違ってばかりだけれど。。。。)

<現実>の僕が弱すぎる。苦しすぎる。理解し合えなさ、言葉に頼りすぎる。声に頼りすぎる。今日と同じくらい、言葉なんて、声なんて、受け手の状態でいくらでも歪められてしまうというのに。

だからぼくは選ばなくてはならない。よくやった。自分を、僕は表明した。ただ気がかりなのは。帰りがけにその学校の生徒と話したこと。その子は開き直っていた。つまり、助からない自分を受容していた。解決していた。僕はそれがどうしても強さに感じてしまう。それでも生きている、笑っている。という強さに。模擬授業で生徒役の大人がこういった「先生、とにかく授業を進めてください。他のクラスは先に進んでいます」この言葉をぼくは過去に聞いたことがある。不安で仕方がないのだ。そんなものは学びではない。学びたりえない。不健全だ。それは仕事に追われる労働者だ。

けれども、その生徒は授業の外では、幸せそうにしているかも知れない。けれども、僕はそれを言い訳にしたくない。しない。その子は、大事なことを教わっていないから。むしろ抑圧を強化しています。

大事なことが、少なくとも僕にとっては大事なことが、この学校ではだいじにされていなかった。

自由主義経済の文脈で言えば、この学校は間違っていない。保護者が望みを叶えるためにお金で学校を買っている。望んでいるのだから、成立する取引。せいりつしているのだから、まちがっていない。善悪の判断を、自分でしていない。責任の放棄だ。それが自由主義経済の、あり方。(お金になるなら、「自由」だ)。

保護者から与えられた命令を遂行するロボット。ロボットは、命令に従うようにできている。命令に対して、問いを立てない。(僕の狭窄的な世界の見方だろうか?)

僕はもっとうまくやれただろうか?

僕は彼らに、面接官に「有効性」の話をした(ドラッカーの話はしなかった)。組織の目的は何?それに対して、有効なことを僕は考えると。組織の目的が、親の言うことを聞く。なら、話にならない。その話も、できなかった。「面接だから」と。いや、履歴書にコミュニケーションを望みますって書いただろう。みていないなら、知らないよな。コミュニケーションをするつもりがなかったんだな。履歴書を読まずに第二次選考に招いたのかよ。あまりにも、失礼だ。(言葉が大事ではないから、仕方がないとも言える)。

言葉に対する無責任、命に対する非礼。暴力。

しかしそれが普通なのだろう。<現実>の世界は。

ネットでは何が起きているだろう。もしかしたら<現実>と同じくらい、殺伐としていないか。どうなんだろう。「僕は」ネットで、何ができるだろう。実験中である。冒険中である。

遊びの無責任さ?、無目的さ、自由、そして学習

今僕の目の前で、子供達があそんでいる。大人のあそびに付き合わされている彼らは、彼らの遊びに没頭する。と言えるだろうか。学校という、大人が遊んでいるのに付き合わされる彼ら。という認識で僕は彼らを眺めた。かれらは15人でスケボーをしている。ただ、遊んでいる。大人の遊びのように、お金は絡んでいない。お金とは関係なく。心から、何かを欲して。


誰かがニコニコを作った。ニコニコという遊び場を作った。そこで遊んでいる人たちがいる。そこにお金が絡んでいないだけ、純粋性がある。人恋しさでそこにいる人も居るだろう。(え?僕のこと?)<仮想>でもない。<現実>でもない、<遊び>の中にみんないる。としたら。

僕はもっと、遊ぶことを学んだらいいのかもしれない。

「君は、ちゃんと空に浮いてるの?」

<遊び>には責任がない。と言えるだろうか。僕は責任という言葉から離れて、あっけらかんと<遊ぶ>しかない。のだろうか。そんな気がしている。大きな子どもたちの世界で。ドラッグで遊ぶ。開き直って遊ぶ。悠々自適、茫然自若。老子は戦国の時代に「水」を説いた。水のように、流れるのが、上善だと。そこでは善悪が想定されていない。そんなものはないのだと、それこそ<仮想>なのだと、僕は、言われているようだった。(老師の思想はち中国の戦国の時代に、善悪もない時代に、どうやって「よりよく」生きるかを考えて出した答えだ。文脈上、今の現代社会にも言えるだろう。今僕らは、戦争をしている。奪い合っている。と僕は想像する)。

ニコニコの価値は何か。まさしく<遊び>の実践ではないか。

この世界で「子どものまま」できる価値を、僕は今、創造しようとしている。それほどまでに、この世界は、壊れている。もしくは、僕自身が。

<遊び>には目的がない。それ自体が、目的と言ってもいい。(もちろん色々な効果、働きはある。人との出会い、知識、身体機能の向上、集団としての人間の在り方。それらは精神的成熟に少なからず寄与する可能性を持つ)。

そして<遊び>続けて、死んでいく僕の姿を、僕は想像しようとしている。ああ、辛かった。悲しかった。もしくは、楽しかった。

ただ、生きる。ただ、燃えて消えるだけ。

それが命だとしたら。

やっぱり僕は間違っていたんだろう。

ごめんなさい。

あー、死にてー(生きてーの意)

ーーーー

そう思えば。乖離という現象は、<現実>と<仮想>を分けるものではなく、それらを<遊び>に統合しようとする構造であるのかもしれない。「お薬」も、生きることそれ自体を無目的化することが、その役割ではないのか。

無目的?違うな。楽になりたい。それが楽しいかはともかく。

それほどに、<現実>は辛い。

勝手に生きて勝手に死ぬ。

誰にも迷惑をかけない誉め言葉(褒め言葉ではない)とうぽつと888で溢れた世界。それは「ただ一緒に遊んでいる」ことを確認し合うサインなのかも知れない。

言葉への責任?何それ美味しいの?それも<遊び>なの?<遊び>なら、もっと楽しい言葉を使おうよ!

そんな声が、した。

思い出す。

『宝石の国』のラストシーンのセリフは、<現実>に苦しんだ、孤独であり続けた主人公の言葉だった。「あそぼう」。作者の答えの意味を、僕は改めて感じ直したいと思う。

「もっといい世界」なんて、<仮想>だった。そんなものはなかった。

だとしたら?

僕は一緒に<遊ぶ>だれかと、遊んだらいんんだろう。な。

誰と?

「大人」になったら、それはそれで別の苦しみが待っている。精神的成熟とは、楽になることではない。それならずっと「子ども」のままでいたほうがいい。なんて思ったりする。

それでも僕は「大人」になりたいか?

「遊んでたら、いいんじゃない?」

うっひゃーーー!!!!

ーーー

「もっといい」世界とは、なんだろう。

ーーー

目の前で、しょうねんたちがすけぼーをしてあそんでいる。ある子は何度も技に挑戦する。ある子はそれを見ている。それぞれが別々の欲求をみたしながら、同じ場所にいる。遊んでいる。

楽しいのだろうか?

誰かと一緒にいる。それだけでも、僕らは楽になるのだろう。

楽に、なるのだろう。か。

もし、学校運営が保護者(株主)と学校(会社)の<遊び>だとしたら、生徒はおもちゃか。製品か。

ふざけんなこのやろう。(悪態もつきたくなる。だがこの悪態は、有効ではない。)



スケボー少年に、声をかけて、お話をした。

スケボーをしている少年に声をかけた。話した。結論。彼らはスケボーでこうやって集まるみたいに学校で勉強をしたい。やらなきゃいけないなって空気も欲しい。この場所みたいな遊びのような自由さ、安心感、張り詰めなさ、共にいる感じ。学び<取れる>感じ。このスケボー場にあるものが自由だとすれば、彼らは学校に自由を求めているのではないか。(いや、自由という言葉にしてしまうと、誤解を生むかもしれない)。自分で決められる。やろうと思うまで休める。目の前では仲間が練習している。

目の前で誰かの技が成功した

やったね!

別の誰かが言った。

ああいうのいいよね!僕が言った。

僕も好きです!

一人の少年が言った。

誰かの成長を喜べる。成長する余地がある。それが〈遊び〉の一要素である気がした。だとしたら学校は大人にとって遊び場なのか知らん。むしろアウシュビッツだろうか。ただ生き残るために、お金のために、決められた作業をする。ご褒美(お金)がたくさんもらえるアウシュビッツだろう。

誰かがいる。何かをしている。目の前でスケボーの練習をしている仲間がいる。それをみて、やりたい、やってみたい、と思う。動く。遊ぶように自由でいる。自由にして学べる。自由にしてもっといい自分に、自分のペースで近づける。近づけなくても近づかなくてもそこにいていいと安心できる。そんな学校を彼らは求めているのだろう。「やらなければいけない」からの、「自由」だ。

君は学校に何を求める?

卒業証明書です。

それじゃ僕がやることなくなるじゃん笑

あ、置いていかないで欲しいですね。バカだからわかんないだろって言われるとイライラするんで

そんな話をしながら、僕は少し前向きになれた。気がする。


さて、この場所に、責任という言葉が入る余地があるだろうか?

ーーーー

僕は久しく〈現実〉にいなかった。この学習の強度が〈現実〉なのか。。。僕は正直頭がいっぱいで彼らに声をかけることをためらっていた。その時、ある人の言葉が僕の中で光った。僕は彼らに近づいた。それが始まりだった。

まず初めに、言葉があった。

僕は誰かからの貰い物でできている。

ありがとう。

泣く。

ーーーー

僕はスケボー少年たちの姿を見て思う。

ニコニコ、ぼかれびゅ、はたまたKiite world。Vtuberでもオンラインゲームでもなんでも。 そこに「大人」、「頑張っている仲間」の姿があるだろうか。あるだろう。か。(もしくは、そこにいて、自分の<命>が、燃えるだろうか。それは本当に自分の<命>か、それとも、ただの扁桃体の暴走か)。そもそも、<遊び>の文脈に「大人」は必要なのだろうか。

少なくともニコニコは、作り手が別の作り手の曲を聴いて「こんな曲を作りたい」とか思うだろう。新しい動き。<遊び>。

<遊び場>としてのファンメイドイベント

ボカクラ with you VOCALOID

ボカクラに行った。ウィズボカ、というイベントだ。リーシャさんが企画しているらしい。こじんまりとした(僕にはそう感じた)空間で、何が起こっているのか。

ボカロのリスナーがDJをする。VJ(映像を音に同期させて再生する人)もリスナーだ。

好きな曲、上手い繋ぎがあると「いいいぞ!」「えらいぞ!」「それだよ!」と声がかかる。DJ自身もノリノリだ。真剣だ。「私を殺したいの?」嬉しすぎて死んでしまうという表現らしい。その曲に、その人は、何を感じるんだろう。その喜びは、どこから出てくるんだろう。その人はこの曲と、どんな経験をしたんだろう。

チーンという音がする。テキーラがDJに振る舞われる。

ワンフレーズの斉唱。

僕はDJというものがよくわからなかった。ただ「選曲して曲をプレイする人」くらいにしか思っていなかった。それは機械でもいけるんじゃないか?けれどもこの場所では、DJは人だった。曲を繋げる、場の雰囲気を見て、曲を変えたり(たまにするらしい)、とにかく観客とのつながりを感じた。その場で、人がいて、曲を繋げる。手動。

人が動いている。曲を繋げてくれている。ボカロ曲を流しているのは、スピーカーでもなく、音源を読み取る機械でもなく、人間であるという強い感覚。

「選曲変えますね」。

僕と話していたDJさんがそういった。ん?名前を忘れ・・・ああ、たんさんだ。

ここには「もっといい」何かがある。「もっといい」何かを人が想像して動く余地がある。

<余地>がある。

(思えば、休日は、僕らにとっての<余地>であって、僕らはそれに甘んじることに満足しなくてはいけないのだろうか)。

薬師寺さんという人とも話した。今日はDJをするらしい。僕が曲を作っていることを知って、聴いてくれた。「配信していますか?」。つまり曲を買えるか、という話だった。しています、と答えた。薬師寺さんにとって、曲を買うことは、作り手への感謝の気持ちなのだそうだ。

そんなことが!

僕は衝撃を受けた。伝えられない感謝を、数字で伝える。ああ、ジョニさんが言っていたな。「ニコニコで広告するって、どんな気持ちからなんですか?」と、僕はジョニさんに聴いたことがある。「そのまま頑張ってほしいっていう応援の気持ち」を、数字にする。そういうことらしい。

そして薬師寺さん、3年目にしてイベントに参加するだけでなく、DJをしたり企画をする側になったらしい。ここにも<余地>がある。何かが起きる余地が。命の衝動を動きにする、余地が。(思えば、<余地>はいろんなところにある。ある、と思えば。ブラック企業でもどこかで眠る余地がある。だから<余地>という言葉は、あまり役に立ちそうにない)。

別の人にも声をかけた。青春時代を共に過ごしたボカロ曲。思い入れがある曲を通じて誰かと出会う。言葉をかわす。ニコニコする。その刺激は、リアルイベントでしか味わえない、リアリティーがある。

(ニコニコで映像がなぜ大事なのか、分かった気がした。クラブイベントで、映像を使うからだ!という説を唱えたい)。

「いいね!」の声がかかる。

そしてまた観客は談笑する。

DJは存在している。


ーーーー

僕や、(僕と似ている、というと本人が嫌な顔をするのを想像してしまうが)うきよさんとか、もしくは「祈り」系(何それ?)の人の曲(踊れない踊らない曲)がリアルイベントで流れるのだろうか。「そういうテーマで企画をする時もある」らしい。ヤメボカ、というキーワードをもらった。

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年齢は聞いていなかったが、20代後半の人が多いようだった。彼ら彼女らは10年後、20年後、30年後どうしているのだろう。ボカロには老人会というものがあるらしい。もしかしたら、歳を取ってもクラブイベントをしているのかもしれない。

「最近、耳が遠くなってきてさぁ」

「俺なんか、高血圧だよ」

歳を重ねたら、話題が変わるだろうか。話ができる仲間がいる。仲間と出会う。それだけでも、このイベントには価値があるのかもしれない。そう思った。少なくとも、ここに集まっている人にとっては、大事な場所なのだ。

ーーー

VJをしている人と話した。「VJ、見てて大変そうなんですけど、顔が楽しんでいるというよりか真剣そのものだったんですけど、やってて楽しいんですか?」と聞いた。亜憐さん。

「噛み合った時、気持ちがいいんです」

曲と映像が合わさる。もしそれで観客が沸いたなら、ドーパミンどぱどぱだろう。

息を合わせる。

息があう。

その経験を、僕らはしてきただろうか?

重たい空気の中で呼吸を止めて淡々と機械のように決められた手順をこなすだけになっていないか。「労働歌」というものを思い出す。あれは、息を合わせて労働を効率化する歌といってもいい、労働の苦痛を減らす工夫と言ってもいい。

息が合う。息を感じる。

それは「えらいぞ!」「いいね!」「それだよ!」かもしれない。誰かの呼吸をもらう。それはとても、嬉しいことだし、「楽」なことだ。

人が人間であろうとする欲望。

ーーー

お店に投影されている光を見ていた。
光それ自体に意味はない。ただ、それは刺激になる。
ボカロ曲も、この場所では、この光と変わらないのかな?
だとしたら、音の力というのは、すごいなと思う。

ーーー

薬師寺さんが僕の曲を聴いて言った。「しっぽり聞く曲ですね」。
その副詞は初めて聞いた。

ーーー

みんなが知らない曲を流してもいいのか?場が冷めないか?それもDJに任されているらしい。とにかく「観客」の意識がある。その上で、任されているらしい。特定のジャンルを流すDJは、そのジャンルのイベントに呼ばれることもある。らしい。

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UTAって創る君の声


うぃずぼかでだいぶ時間を使った。というか下北沢から浅草までの移動時間を見誤った。会場到着後、1時間もなかった。さて。どうしよう・・・

とりあえずびびった。

机の上に並べられたグッズ。知らないキャラ。そして売り子さん。

うううう。。。。。

とりあえずうろうろした。

そこで目が合った人がいた。声をかけた。

「いやぁ、僕、こういうの初めてで・・・」
「私もです」

話を聞くと、からるど(calarud)さんという方で、王縄ムカデというUTAU音源の中の人らしい。

「私のキャラのグッズを置いてくれた人がいて、声をかけてもらって、来ました」

なんてこった!!!!!!!

ああああああ!!!!!!!!!

そんなことが、起きている。僕の知らない世界で。

嬉しいだろうな。

からるどさんに聞いてみた。

「これだけ色んなキャラがいて、買ってくれたりみてくれる人、少ないんじゃないですかね?悲しくならないのかな、どうなんでしょう」

「受付の人がいるから、その人に聞いてみたらどうですか?多分、販売した経験があると思いますよ」

そうした。

声をかけた。

話をした。

話しかけた人曰く(個人の見解です)「グッズにすること」が大事なことらしい。自分の想像していたものが、<現実>にあることが、嬉しいらしい。考えていたものが形になること。ああ、曲を作るのと同じなのかな。なんて思う。みてもらうこと、買ってもらうことはおまけで、「何かあったらいいな」くらいの気持ちらしい。その人は。(今思うと、UTAUの世界をもっと知りたいという人が、どんなキャラがいるのかな・・・という気持ちでこの会場に来て「探している」可能性がある気がした。出会に行く。会わないかもしれないけれど。僕が配信で人を待つように。来なくても、悲しまないように。なるほどお!!!!!)。

なるほど。

ーーー

からるどさんと喋っている時に、売り子の人と目が合った。話をしに行った。

ひばりさんとあんてな。さん、の二人がいた。(目が合ったのはあんてな。さん)

話を聞くと。(間違ってたらごめんなさい)

あんてな。さんはDTMをやっていて、UTAUを知っていた。ひばりさんはイラストをXにあげていた。そこで二人は繋がった。あんてな。さんはひばりさんのイラストを見て、Xに投稿するだけじゃもったいないと思った。UTAUの存在を教えた。ひばりさんはUTAU音源を作り、「サーカス団」として複数のUTAUキャラを作った。そうして二人は今、ここにいる。

つまり、中の人が自分のキャラを「お披露目」するためにイベントに参加しているケースがあるようだ。(その割合はわからないけど)。

なんだって!!!?????

(この記事を書きながら思う。「自分」ではなく、「自分が作ったキャラ」をお披露目する。「自分が作ったキャラ」を・・・・一体、どういうことだろう?尾粥さんにしてもそうだけど)。

あんてな。さんの曲を一曲。

UTAU音源ではなく、肉声で曲を作っていた。肉声を選ぶ、その気持ちを知りたいと思った。(ん?UTAUじゃないよね?ん???)

ーー

ダメ押しでもう一人に声をかける。

本が置いてあったから、気になったのだ。

寄縫酔花というキャラ。よりぬいすいかとよむ。

名刺、透明素材で綺麗に作られていた。熱量・・・・

寄縫酔花というキャラへのインタビューの形式をとった紹介文章があったのでいただいた。キャラを知ってもらうこと。(ん?自分ではなく?)

その本は。。。。

寄縫酔花という死体人形がアイドルになった姿を書いたのだという。(別の世界線では、別の物語があるのだろう)。自分で二次創作する!!!?????

なんだって!!!!??????

なんで死体人形なのか聞いた。机の上に置いてあった人形を指して「元々はこれだったんです」。あーるさんは、フランケンシュタインだとか、縫い目だとかに興味があって、なぜか関心があって、それをキャラに反映させたのだという。不思議なことに。

自分のキャラを作る、という熱がどこから生まれるのか???

わからなかった。が、時間が来た。

1時間・・・・でびびっている時間が長かったけど、お話が聞けて良かったと思う。

ちなみにこの会場はフルでも3時間しかいられない。その3時間のために、人が集まった。イベント。凄みを感じる。ここに集まった人たちのエネルギーの源を、少しだけ想像できるようになった。

最後に、このイベントの主催者である水戸瀬さんと話をした。後片付けをしているところで、少しだけ時間をもらった。

「私は昔、参加者としてUTAって創る君の声に行きたかったけど、コロナでなくなってしまった。だからやりたいなーみたいに思っていて声上げたらできちゃった」みたいな感じだ(正確に水戸瀬さんの言葉ではない)。

<遊び>


<遊び>


あーそーぼー!

ーーーーー

Virtual Voice Harmony / ボイハモ


http://www.raizeen.com/

秋葉原のeイヤホンで鬼視聴をした後に会場に向かう。辿り着く。ビビる。

音が、、、、大きい。。。。低音が、、うう、心臓が・・・

一応入って、尻込む。

あ、これ、無理かも。

近くにいた人が声をかけてくれる。「受付あっちですよ」。受付してくれる人のところに行った。事情を話した。「あのう、ちょっと音が怖くて・・」笑顔で、入りたくなったら、入ってください!と言ってくれた。一階のお店でモニターしていて、そこで休みながらイベントを見ることもできます。と。
おやさしい。

結局、何度か行ったり来たりしながら、「やっぱ無理ー!」となった。廊下(階段)で人と出会う。ちょっと話す。あとで知ることになるが、百花蜜さんという人だった。

結局、一階のお店でドリンクを頼んで、そこで人とお話しすることにした。イベント会場だと、みんな踊っていたり、音が大きかったりと、僕が気が気じゃない・・・(むしろ言葉を捨て去って踊るために人がいるような気がした)。共鳴。あの箱、共鳴しちゃってるんじゃね?と思うような、不安感があった。「それを味わいに来ている」という人もいるだろう。実際、そうなのかもしれない。(僕らは死を忘れているから、ああいう驚異的な音を、味わいたくなる、なんてしょうもないことは言わないでおこう)。

百花蜜さんとはこんなお話をした。
https://x.com/dtm_honey_music

耳栓を持っているといい。どうしてもこういうイベントでは音が強い場所に行ったりもするし、難聴にならないために。と言って、耳栓を紹介してくれた。

まじか・・・・耳栓してライブハウス行くって、そんな発想があったのか・・・(もしかして全員耳栓してたりして)。

百花蜜さんは、ウナちゃんが好きで、手元にあったカバンから、ウナちゃんを出して見せてくれた。

な、なんだって!!????

推し活としてのボカロP。ボカロに自分を映していた時代から、キャラを出す時代に。なんて話になった。その「好き」の気持ちを聞いてみた。

「うちの子最強」
「よそちのウナちゃんもいいね〜ってなる」

ヴィジュアル、声質が同じだから、パラレルワールドのウナちゃん、別人格のウナちゃん(人は、関係性、状況によって人格を変える)がいる、というような認識らしい。

なるほどぉ

なるほどのすけ。

ーーー


のぞみさんという人とも出会った。穂ノ川のぞみ。

名刺をもらった。名刺には、小説サークルとか、ボイペンとか、なんかたくさんやっているらしいことが書かれている。話を聞くと。

ボイハモをやっていて、流れで、作ったらしい。

なんだって!!?????

ボイハモのイベントに出会ったきっかけを聞くのを、忘れた。

聞いたが、忘れたのかもしれないけれど。


ーーーー

最後のまとめ

<現実>も<仮想>もなく、<遊ぶ>。

「言葉への責任」なんて考えられないほどに。

ホモ・サピエンスとしてのデフォルト。

彼らは、<現実>の世界から離れられるこの場所に集まる。黒人奴隷がプランテーションで働き、夜に集い、歌を歌ったりするように。ブルースのように。黒人霊歌のように。都市におけるそれは、クラブの中にあるのかもしれない。イベント会場に、人が集まる。<遊び場>を、欲している。

人と出会うために。自由になるために?

人は、どこにいる?

ホモ・ルーデンス v.s. ホモ・エコノミクス

これは対立構造ではなく、一人の人間の中にあるものなのかもしれない。だからこそ、とある心理学者が「近代社会は誰もが分裂病か神経症を患っている」と言ったのだろう。誰が言ったかは忘れた。

自由主義経済。この言葉はどこか、やはり、非人間性を帯びている。(ところで僕は、何をしようというんだい?)。僕は不器用なので、スイッチがうまく効かない。(言い訳だね!)




「言葉への責任」なんてものを忘れて、残酷な世界で、仲間と笑いながら、仲間の笑顔の外にいる人たちを、見殺しにする。<遊び>の世界の残酷さを、僕は想像した。どうしても、想像してしまう。


你们大概从未想象过,你们那些为了自我满足的行为让我多么痛苦吧 あなたたちがあなたたちを満足させるためのあなたたちの振る舞いに、どれだけ私が苦しめられてきたのか、あなたたちが想像することはないでしょう 在你们停止思考只顾自我救赎的时候,被你们扭曲笑容撕裂的我,你们根本看不见吧 あなたたちが思考を停止してあなたたちを救っている間に、あなたたちの引き攣った笑顔に引きちぎられる私が、あなたには見えないのでしょう 还是说,你们正在惩罚我,惩罚我没有被你们洗脑呢? それともあなたたちは、私があなたたちに洗脳されなかった罰を、私に与えているのですか? 这份痛苦,就是我没能变成、也无法变成你们那样的惩罚吗? この苦しみは、私があなたたちにならなかった、なれなかった、罰なのですか? 是惩罚吗? 罰なのですか?


いじめは構造であり、行為はその表象に過ぎないのです。

僕のあまりの無力さに、この<遊び>の熱量に、頭がこんがらがっている。

残酷な世界から離れることで、僕らはかろうじて生きているのかもしれない。


あーそーぼ!


「ねぇ、君の友達が、いじめられていたら、君はどうする?」乖離系のように、笑いながら、言葉を軽くして、なかったことにするのだろうか。

川上 未映子さんの小説、『ヘヴン』を思い出す。


わからない。知りたいと思った。


「大事な時に、言葉は役に立たない」

自分のことは自分でなんとかする。他人は変えられない。

そうして僕らは残酷な世界を維持して強化する、世代を超えて継承させる力の強大さを、大きな子どもたちが自由であろうともがく姿を、奪われたものを取り戻そうとする切実さを、僕は感じたのだった。(多分それは僕の勘違いで、学校で、凌辱が「普通」のことだと教わってきたから、何かを奪われているとは感じていないだろう。ただただ「正常」であり、「普通」なのだろう。「ただ生きている」のだろう)。

うー。

非乖離系、乖離系の音楽制作者との話20250826追記(クリエイターとアーティストの違い)


僕の造語?である乖離系という言葉がある。noteに【乖離研究】とあるのでちらっと読んでみてほしい。

あの日、スペースで自曲を持ち込んでもらって、お話ししていた。僕が知っている人たちの曲を聞いた。お話しした。「ボカコレ」という僕の知らない世界のことを、少しでも知したいと思った。(リスナーとして他の人のスペースにもチラチラお邪魔していた)。結局、ボカコレ、というイベントの話とは関係のない、僕の(雑)談配信の日常の一コマみたいになった。ただ、ニコニコの生配信と違って、Xのスペースは相手も「声」を出せるので、リアリティーが増す。(言葉への責任を、重く感じる)。

僕は何度か、僕の願いを、思いを、祈り?を、口にした。

「僕は曲の話をしているんじゃなくて、言葉の話をしている。言葉も知らないと選べないし、選べなかったら、大事なことが伝えられない。音は言葉を伝えるもので、言葉を支えるもので、それが「言語」でなかったとしても、音は語る。僕は技術の話をしているけれど、それは人間性のために話している。僕は音楽性は人間性だと思っている。」

「今僕は、もしこの曲に別の可能性があるとしたら何かを考えている。それはあなた自身の人間としての「もっといい」姿を想像すること。今のあなたがこの曲に出ている。僕はそれを感じて、何か「いいもの」を持ち帰ってもらいたい、この話が、僕の言葉があなたにとって価値を持つとしたら、こういう語り口しかないと思っている。あなたの人間性に貢献できる何かを、お話をしながら、探している」。

こんな感じのこと。

最初に知り合いの二人と話した。二人とは、ニコニコの生配信でも話したことがある。クラネさんは海の音。「海」として世界を見ている。クラネさんが見る世界を、感じた世界を曲にしている。ここには、クラネさんの独自性がある。丹頂さんは言葉を大事にしている。言葉が自分と繋がっている。本音を探して、言葉にして、その言葉を壊さないように、支えるように、音を選ぶ。

二人とも、言葉を受け取ってくれた。と僕は感じた。

その後、相葉さんと話した。相葉さんの曲を聞くのは初めてだった。相葉さんとは一度スペースで話をしたことがあって、シェエラザードという曲が「小学生を殺す」曲のリファレンスであるという話を聞いていた。僕は安易に殺すという言葉は使いたくないけど。まぁいいか。本人の言葉である。

相葉さんの曲を聞いた。言葉を交わした。

ん?言葉を、、交わした?

言葉が、受け取られていない感じ。

ん?今の相葉さんの言葉は、僕の言葉を弾いた?

言葉が、受け取られていない感じ。

長い間、違和感を感じながら、相葉さんを想像するために話を続けた。

この違和感を埋めるために、僕の気持ちを話すことになる。

乖離系の話をした。結局、相葉さんの音楽は、乖離がデフォルトであった。表現したいことはない。伝えたいことはない。自分と曲の「中身」に繋がりはない。それは多分、最初の曲を聞いた時のミックスが「音」が前面にあって歌声がその後ろにあったことにも現れているのかもしれない。(その曲は、相葉さんがとある歌い手に頼まれて作ったのだという。演奏をDTMで作って、肉声の歌録音してもらって、ミックスした感じ?)。

相葉さんの話。「スライムを倒しまくる」こと、レベルアップすること?が効率的にできるものが音楽だった。という話だった。初めから、相葉さんに音楽の中身はなかった。技術を得ていく、「上手に」なっていくことが、その効率の良さが相葉さんにとって音楽を続ける動機になったらしい。ああ、いたな、そういうイラストレーターが。誰か忘れたけど。「自分は好きで趣味で絵を描くのではない。技術を認められて仕事をもらえることが嬉しい」と。

SNSを賑わせる「綺麗」な絵、「可愛い」絵、技術を尽くした絵。僕はそこに人間性の貧弱さを感じる。自由主義経済が尊ぶ人間の扁桃体の暴走を、もしくは欲望を強化している、と僕は感じる。

話がそれた。

ああ、僕は相葉さんに聞きたかった。「この場所で、僕と話して、何を期待していたんですか?」。この問いの答えは想像できる(ただの憶測であるが)。結局、僕の言葉は相葉さんにとって価値がなかったように僕は感じている。そういう関係性は、不健全だ。(けれども、僕は相葉さんと話して、乖離している人たちがなぜ乖離しているのか、想像できた。日本のクラシックの演奏家にしても、とにかく技術のことばかり気にしている。そして名声。学歴。コンクール。見栄え。中身がない。積み重ねてきた「評価」に縋り続けるしかない。それは音楽ではない。彼らは音楽家ではない。演奏家だ。言葉を正しく僕は使おうとしている。)

相葉さんは自分をサウンドクリエイターだと言った。アーティストになりたいと言った。相葉さんの使うアーティストという言葉が何を指し示しているかわからなかったから聞いた。クライアントから依頼を受けるのではなく、自分が好きに(自由に?)作った曲を認めてほしい、というような話だった。その曲は、どんな曲なのか?どんな曲を作りたいのか?と聞いた。音楽のジャンルを跨いだフュージョン、ということだった。

音で<遊ぶ>?

中身がない。中身がない?

人間性が、曲の中にない。(これは言い過ぎだろうか。自分の技術を奮って、自分が(技術的に)強くなっていることを喜ぶ人間性があると言えるだろうか。うん、正確に言えば、人間性が、曲の中にない。中身に、人間性が感じられない。うん、この表現で大丈夫だ)

ただ音楽で気持ちよくする。クライアントが喜ぶ。「いい曲だ!」。僕はそれを人間性だとは言わない。なぜなら、ホモ・サピエンスのデフォルト出会って、それなら「人間性」という言葉を使わなくてもいいからだ。「人間性」という言葉の存在価値の話を僕はしている。

多数決の原理、自由主義経済、という大きな文脈の中で、僕は溺れていないだろうか。僕らは人間性を奪われて、生き延びるために、容易く「クリエイター」になってしまう。人間性を投げ捨てなければ生き延びられない強い文脈を、僕は想像している。(凌辱社会のことだ)。

技術。それによって人は環境を変えてきた。けどホモ・サピエンスはデフォルトのままだった。合理性、効率性。「楽」。これは「勉強」(学びではない、強られて勉めるもの)も同じだ。テストで人間性は計測されない。音楽を享受する人の多くも、作り手の多くも、人間性とは離れた尺度で音楽を聴く。乖離。人間性を評価しない。気持ちいい、楽、を求めるのは、動物性(ホモ・サピエンスのデフォルト)だ。

ホモ・サピエンスのデフォルトから抜け出すことは、苦しいことかもしれない。抜け出したとして、苦しみは続く。だとしたら、今のままでいいんじゃないか?


人は貰い物でできている。

僕は相葉さんを少しだけ<理解>できたと思う。同時に、僕の言葉は相葉さんにとって価値がないことを悲しく思う。なぜなら僕は人間性に寄与したいからだ。もし僕の言葉が記憶に残って、問いとして残って、違和感として残って、相葉さんの「もっといい」世界に貢献できればと思っている。

「もっといい」世界が、一体何なのかは、わからないけれど。

見ている世界が違う二人が、それでも言葉を交わして、少しでも何かいいことがあっただろうか。異質な他者に対する<理解>。それはこの残酷な世界をやさしく生きるために必要な知識だと、僕は思う。

「そういう意見もありますね!」

で終わって、<理解>をしようとしないなら、僕は嫌になる。怒っちゃう。(あの時、僕は怒りという言葉を口にしたけど、ちゃんと伝わったんだろうか?僕の、思考が。音楽も、言葉も、同じなのだ。言葉も、音楽も、人間性なのだ)。


「そういう意見もありますね!」

そう言われて感じる孤独を、拒絶感を、やるせなさを、感じたことはないのだろうか。

経験しなければ、知ることも、感じることも、考えることもできない。もし最初から「経験」する、「学習」する回路が壊れているとしたら?僕はそんなことは、想像したくないけれど。


あ、ついでだから言っておこう。僕の曲中にある「打楽器」の連打は、ガムランの音から僕がもらった経験を下敷きにしている。優しくもなり、悲しくもなり、包まれるようであり、そして何よりも、怒りを怒りとして表現する。怒りの楽器として、僕はガムランの音を使う。(使っている楽器は、ガムランではない)。それは凌辱社会であまりにも無力な僕自身への怒りであり、この残酷な世界に満ちた誰かの怒りであり、なんかよくわからんがそんな感じである。

僕の曲から、あなたは怒りを感じるだろうか?

こんな話をしたことがある。

「あなたは怒りをどう表現しますか。相手に怒りを感じたら、どうしますか
?」
「村を襲いに行く」

感情は動物的(ホモ・サピエンスのデフォルト)だ。
僕は前頭葉を使いたい。(音楽は前頭葉で処理しているのだろうが、判断は扁桃体でする。脳のことは、僕もまだよくわかっていないのだけれど)


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思えば、乖離に伴う「中身のなさ」というのは、服と同じで、「人に見られる」「人に認めてもらう」ためにおしゃれをすることと同じ心理が働いているのだろうか。可愛い、かっこいい、清潔、イカす。まぁ、服はそもそも、中が空洞なのだが。

改めてこの画像を乗っけよう

出典不明。tiktok

彼女たちは信号を出す。「私をひとりにしないで」。
彼女たちは言い聞かせる。「私はひとりじゃない」。
実際、こうして互いを見つける。

僕はそんなことを想像した(話したことがないからわからない)。

好きだから真似る。好きだから着る。その「好き」は一体どんな感情、欲望、思考、認識によるものなのか。これは「生徒指導」と同じだ。なぜタバコを吸うのか?僕は聞いたことがある。小学生の時、授業が訳わからなくて、教師が何を言ってるかわからなくて、言葉が通じなくて、言葉が出なくて、よくわからなくなって、友達に誘われて体育館裏でタバコを吸っていた話を。大きな子どもたちはタバコを吸ったことに罰を与える。小さな子どもたちの人間性に寄与しない。中身に寄与しない。子どもたちは居心地のいい仲間と出会う。ちなみにその子はヤクザの友達がいて、これから一緒に住もうと言っているらしい。「いや、ヤクザじゃなくて、半グレです」え?違うの?知らなかった。

中身を見ない。中身が想定されていない。

それは、人の中身を、人間性を感じられないのと同じじゃないか?

音楽性が人間性だと僕が強くいうのは、このような理由による。音楽性と人間性は乖離してはいけないし、乖離できない。相葉さんは色々なジャンルの曲を作るのだという(しかも、実際にリアルの楽器の演奏経験がないという!なんてこった!どういうことだ?)。それでも、中身がある曲は作れない。想像できない(と本人が言っている。誠実に言葉にしてくれたのだと思う。できない、と言葉にするのは、結構恥ずかしいことなのだと僕は思う)。

可愛い服を着て、カッコよく服を着て、それでいて「中身」がある。そんな人に、僕はなれるだろうか。(自分、不器用なんで。てへぺろ)。「外面」の良さと「中身」は両立できないだろうか。できるんじゃないかな。多分。(外面のために中身が削られているデコさんを僕は思い出す)。


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僕は相葉さんに、ちゃまなつさんに、一人の人間として、異質な他者として、敬意を払いながら、ちゃんと言葉を伝えられただろうか。上手に、別れられただろうか。上手に、祈れただろうか。

民族音楽研究会/hitoikiとは?

このタイミングで僕がどうして民族音楽研究会という名前を冠しているか、書いてもいいかと思った。自分でも、もう一度確認したい。

民族音楽とは、一般的には、古い、伝統的な、マイノリティーの、もしくは異文化の音楽、という理解をされていると思う。僕はそれを拡張している。僕の認識では、ハウスミュージックも、ロックも、アンビぇんすも、民族音楽だ。それぞれが別々の生き方、文化、感じ方を持っている。歴史を持っている。(クラシック、POPも民族音楽に含めている)。

僕はジャンルの違いがよくわからない。ジャンルでくくることで、何かいいことがあるんだろうか?自分たちの音楽に名前をつけることで、権威づけしたり、売り出したりもできるだろう。(僕は、アイヌ語でアイヌという言葉が人間を意味することを思い出す。アイヌ民族は、人間民族なのだ)。人を分類するように、音楽も分類できる。けれども、それが「ああ、ジャンルが違うから僕の曲がわからないんですね」などという言い訳にしたくない。いやいや、そこは、一人の人間として、違う景色を見て、違う世界の感じ方をして、違う経験を辿ってきたというだけだと思いたい。初めて出会った、感動した、記憶に乗った音楽が違えば、誰かに影響されて聞き始める音楽もある。生まれてきた場所が違う、時代が違う。

僕はその人のことを知りたいと思う。そして、僕の知らない人間性、音楽との関わり方、音のあり方を知りたいと思う。そのプロセスが僕の【乖離研究】シリーズであったり、【遊び研究】シリーズだったりする。だって、異質な他者を理解することが、理解しようとすることが、僕の人間性に寄与すると思っているから。「ああ、違うんですね」。それは事実だろう。けれど、そこで何も起こらずに終わることが、「あなたは私の仲間ではないのですね」で終わることが、人としての、他者としての敬意を払うことだとは到底思えない。僕は「ああ、違うんですね」に何度も苦しめられてきた(と思う)。「あなたは、私たちの仲間じゃないんですね」。

民族音楽。民俗音楽としなかったのは、民俗音楽という言葉には俗という言葉が入っていて、聖ではない、という意味を含めていると感じるから。音楽に正統性はないし、ただ人間の姿を映しているだけ。僕はそう思っている。

悪い音楽(人)があるとしたら、それは、僕にとって、人間性への敬意を払っていない音楽のことだろう。人のことだろう。この点、乖離系、正確に言えば「言葉が軽い」音楽(人)は、僕のこの言葉を見て、何を感じるのか、何を考えるのかを知りたいとも思う。

相葉さんの目指すものが「音楽全ジャンルのフュージョン」であるとして。僕は研究はするけれど、それは多様で異質な人間性の理解であって、「ジャンル」の統合ではない。真新しいことでもない。

大きな子ども、という言葉を僕は使った。子どもたちのおしゃべりのような音楽が溢れている。僕はそれを否定しない。誰にでも、子ども時代はあるからだ。けれども、「大人」になれるだろうか?ずっと子どものままじゃないのか?そこで<遊び>という言葉で世界を認識してみた。

<遊び>の中に、「大人」になる要素があるか?

<遊び>の中に、人間性の学びはあるか?

僕はどうしたら自分の、そして誰かの人間性に寄与できるだろう?僕は寄与したい。僕は「もっといい」世界を想像している。

誰かの人間性に寄与する。とても難しいことだと思う。だから死ぬまで、僕は転げ回っているのだろう。

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民族音楽研究会、という言葉を使う背景には、「アメリカ民謡研究会」の存在がある。

僕は初めて「アメリカ民謡研究会」を聞いた時、「え?誰?組織?」と思った。実際、動画中に人の名前が出てくる。(後々知ったが、これはFANBOXであめみんさんに寄付をしている人の名前らしい。そうだった気がする)。いいな、と思った。音楽は、一人でするものじゃないから。(結局それは誤解で、作っている人は一人だった)。

僕はずっと一人で音楽をしている。大学ではバンドサークルでenvy, heaven in her arms, toe とか銀杏BOYZなんかをコピーしていた。けど僕はその時、誰かと一緒に演奏している感覚よりも、自分が歌う、ということに集中していたと思う。僕はそれを後悔している。後悔というか、みんなで作る音楽、というものに憧れている。(あの時、自分勝手に歌っていた僕に合わせてくれていた後輩に、先輩に、同級生に、感謝している。そしてごめんなさい)。

民族音楽研究会、という言葉には、僕が個人ではなく、誰かと一緒にいて、誰かと一緒に音楽をしていると僕自身に錯覚させる機能もあるのかもしれない。実際、たくさんの「民族音楽」から僕は影響されている。ガムランにしても、民謡にしても、その文化にしても。(乖離系はまだ吸収できていない。まだ咀嚼している。吸収できないのか?いや、そんなことはない!)。僕はその人たちを勝手に「民族音楽研究会」の仲間にしている。

おままごとだ。(いやリアルにそういう関係性ができたら嬉しいのだろうけど)

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ちなみに、微分音だとか、音階とか、そういう「技術」を利用するために民族音楽を研究する人もいると思う。もしそれ<だけ>であれば、民族音楽から人間性を排除することになる。僕の民族音楽研究は、人間性の研究のつもりだ。僕の音楽性は、僕の人間性のつもりだ(だから、僕の音楽の変化は、僕の人間性の変化なのかもしれない)。



人間を理解せずに、音楽は作れない。

人間の理解なく作られた音は、ただの音だ。


「とりあえずこの音入れてたら、いい感じだろう!」

そうなのか?

岡本太郎はこんなことを言っていた。

自分が何をやりたいか、何を伝えたいかが分かっていたら、技術は後からついてくる。

https://iyashitour.com/meigen/greatman/okamototaro

「芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない。」

AIに聴いた

何を作ってもいい自由がある。ただそれが、芸術、アートなのか。それとも別の何かか。言葉を正しく使ってほしいと思う。(僕も!)もちろん、言葉をどう使っても、自由なのだろうが。自由の中に、責任を感じるか。感じてほしいな、とは思う。(それも自由なのかな!!!????)

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