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小説)覚醒へのプレリュード ②

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2022年1月5日

私の幸せが砕けて溶けていく。

新春を迎え、まだ店の軒先には門松がある時期にアパートのポストへ家庭裁判所から
「離婚調停は不成立」の封書が送られてきた。

雅彦は絶対に私と離婚しないと申し立てていたのが通ってしまった。

赤の他人と婚姻を結び、自分のことしか考えない。
別居しても家庭裁判所を通じ、あの家に連れ戻される。

雅彦が鉛筆を舐めて書いた私への手紙が、
暴力に強いられた実生活より審判員の心を打った。

おまけに、誰かこのアパートの住所を教えたのか、
雅彦が管理会社へ連絡し、部屋の中はもぬけの殻。

私の足元が崩れ、流しにもたれ、
床に落ちていた「今すぐ帰れ」の紙切れが涙で霞んで見えなくなっていった。


その足で、優の家へ駆け込む。
優には全て話しておかなければいけない。

「言わなくて、ごめん。
私、人妻なんだ」

夏より大きくなったマリンが私の膝へ乗り、
顎を上げて「撫でろ」のサインを送る。

いつもなら「マリンはかわいいね」
優とマリンをとことん撫でているのに、私は嗚咽が止まらずマリンを優に渡す。

「そう、じゃ、今まで不倫だったんだね」
優は冷静な眼差しでマリンの全身を撫でている。

「不倫っていう、上等なものなら素直に『はい』と言いたいけど……。
私ね、夫からDVを受けていたんだ。
だから色んな支援機関を頼り、お金を貯めて自立するのにこの街へ逃げてきたの。
でも、家庭裁判所は暴力があっても離婚は認めてくれないね。法律は強者のためにあるみたい」

話しているうちに自分が情けなくて、堪らなく不幸に思えてきた。
指先や肩が震えて、もう消えてしまいたい。

「俺でいいなら力になるよ。
俺の友達、弁護士なんだ。まあ、企業専門の弁護士だけど、幼稚舎時代からのダチだからさ。
そいつが難しいようなら、弁護士は他にも紹介できるし、俺が費用を出すから心配しなさんな」

わなわなと震える私の手を取り
「その代わり、約束して。
必ず俺のところへ帰ってきて」

なっちゃん、いい?約束して。
優は私の髪へ顔を埋め、
囁き、「安心しなさい。俺を誰だと思ってんの?
本当はなっちゃんも知ってるんでしょ」

昔からの人脈は切れたりしないからね。
物心ついた時からの友達ばかりで、たまに話をする程度だが、なっちゃんの力になれるよ。

俺はあの界隈にはもう戻るつもりはないんだ。

たとえ人から向上心がないとか、野心家がどうしたと揶揄されようが、俺は天下を取って無双時代を経験したから。

「ああ、こんなもんか」知っちゃったらさ、
執着心が湧かなかったんだよね、なんでかな。

逮捕されたのも、あんなの陰謀というか、
あの時代は戦国時代。
自分の知らないところで、虎視眈々と陥れる打算を巡らせて、駆け引きばかりは寿命が縮むよ。

東京を捨て、地方に来て、派遣社員として工場勤務して。
誰も桜井優として見てないんだよね。
一個のパーツ?
まあ気性として合ってんだろうね、楽しいから。

なっちゃんがカミングアウトしたから、俺もした。
これでおあいこだね。

「なっちゃん」「ん?」
「ずっと味方だからね」

雅彦の家に帰ってしまうと、私はあの家から出られない圧力を感じていた。
優の腕から下りて、私の膝へ来るマリンは私を見上げて「撫でて」の目をする。

優に固定されたい衝動へ駆られた。

壁紙が茶色に煤けた温かい雰囲気、マリンの無邪気な仕草、優の包み込むような眼差し。
この家こそが私の居場所なのだと、心の奥底から感じる。

でも、同時に現実の壁にも直面している。

雅彦はきっと私を二度と外に出さないだろう。
私を監視し続け、義父の所にも行かせず、家から出られないようにするに違いない。

私は自由を手に入れるなど叶わないのではないかと恐怖に怯えていた。

震える指で優の目元のホクロを撫でる。
もう、これが最後じゃないかと思うと、ホクロから頰へ少し厚い唇へ指を這わせていく。

半開きになった口へ指を入れると優が軽く噛んだ。

優の手は私の首へ伸び、指で顎を挟むと顔が近づいて、私たちは傷口を舐め合う。

全身に拡がる切り裂かれた傷や開いている穴を、
服を脱がせながら丁寧に手当してゆく。

私や優の中から異物を取り去って、そして毒が入らないように優が私を塞いで。

(タトゥーのマリア様。私と優とマリンを助けて)

救いようがない日が目前にあるのに、心地よさだけは昇りつめていき、ひとつになったものを再びふたりにするのが道理に合わないよう思えた。

初詣の絵馬には
「優と菜月とマリン 家内安全」
どうせなら絵馬は高いところに飾ろうぜ。
なっちゃんの手はあったかいな。

優とマリンと送った月日が消えていく。
私の幸せは雅彦によってえぐられ傷になる。

雅彦の家に戻るのか……。



2022年1月12日

夫の雅彦は外出を繰り返し、
リモートワークの身でありながら市中感染に罹ってしまった。

それが原因で私も外出禁止を余儀なくされ、
仕事に出られなくなってしまう。

雅彦の身勝手な行動に腹が立つ。

日頃から夕方になると外出し、深夜に帰ってくるのが日課で、この家に戻ると外から帰った雅彦の暴力は止まらなくなった。

婚姻後に知ったのだが、雅彦が結婚しなかったのは雅彦は男を食い散らすのが精神安定剤になるタイプ。家から出て行く前の雅彦の匂いと帰宅後の匂いは明らかに違う日があった。

雅彦の晩年はお風呂にも入らず、そのままベッドに寝ていたが、私の鼻につくグリーンフローラルの匂いは、どこかの風俗店かホテル帰りなのだと感じた。

「イライラする」
二言目にはこれか。
常に男を抱いていないと心が乾燥するのかもしれないし、ただ性的依存症なのかもしれない。

雅彦が同性を愛するのは浮気なのか、迷うのも疲れていき、この世の感染症が落ち着けば、幾らでも男漁りに行ってくれと思っている矢先の市中感染だった。

結婚当初はただの浮気と決めつけ、
嫉妬心で瞬きを忘れ、目が乾燥していった時間。

「浮気しないで」「浮気じゃねぇ」
私のひと言に雅彦が暴れ出し、それは手がつけられない暴力で近隣に家財の破壊音が聞こえているんじゃないか。

「お前、女のくせにふざけんなよ!」
貯金を崩して買った電化製品が雅彦の手足で倒れる様がトラウマになり、雅彦へ意見をするなど出来なくなった。

どうしてここまでされるのか、よりも、こんなヤツを見抜けなかった私へ後悔した。

水屋のガラスを拾いながら涙さえ出なかった。
身体が硬直して「恐ろしい」
指先が震えていたのを自覚した。

足の踏み場もない部屋を早く片付けてしまわないとまた雅彦から暴力を振るわれるのではないか。

掃除機をかけて、雅彦が音で不機嫌になったらどうしよう。

18年の歳の差があろうが、世界にウイルスが蔓延していても雅彦の行動に変化がないのは、こういった背景がある。

雅彦と婚前から今日まで睦合う行為は、なかった。「近寄るなよ」釘を刺され、
本当のところは雅彦の身体の特徴すら知らない。

当時私は34歳で、雅彦から見るとかなり若いのに私へ欲情しないのを私の魅力不足だと悲しみがあったが、雅彦がリモートワーク中にうたた寝をし、偶然見てしまったpcには同性愛モノの動画。

引き出しを開けると
「嘘でしょう……」

雅彦が男性と裸で絡んで笑っているポラロイド写真を見つけて悟ってしまった。

私は差別心がないつもりだが、相手が誰であってもこんな証拠は知りたくない。

しかし雅彦がゲイより、ウイルス感染してしまう方がどれほど周りから差別され、住処を追われた人がいるのをマスコミ報道で知っていたから、

「どうしてこんなに迷惑かけられるんだよ」

心が動かず泣けない。「仕事も辞めなきゃ……」
そんなことを考えていた。

とにかく雅彦は男や外が好きだということ。
私は義父の介護要員として、この家に飼われたのは間違いない。

普段の生活から雅彦の実家のことまで、私任せ。
私が嫌だと言えば、手元にある物を投げつけ、
新婚生活が始まりテレビは何台、買い替えたろう。



2022年1月13日

無神経な大きな音を立て、雅彦が二階から降りてきた。

「ちょっと!二階でおとなしくしててよ」
私は雅彦の顔を見ただけで、吐き気がしそうだ、
何故、雅彦は周りに合わせることができないのか。

「何か用事?用事があればスマホで呼んでって」
ここまで言って、雅彦は私の話を遮った。

「おい、痛み止めないか?腰痛に効くやつ」
マスクをしない雅彦は私へ向け、激しく咳をした。

(耐えられない…)
脳内では、昔、地学で習った断層のズレたスライドが、私の眼を通して燻んだ白の壁紙に映される。
壁に掛けてあるカレンダーがどこにもない。

私の乾いた眼球が奥へ引っ込んだ感触がした。

私は無言でソファから立ち上がり、
台所の右端の棚から救急箱を取り出す。
(痛み止め。液体…)

雅彦は苛立ちを隠せず「早くしろ」と怒鳴る。

量販店で買った安物のスエットから、
白い下着がだらしなく出て、腹まで突き出ている。

「ねぇ? 風邪用シロップがあるけど
こっちにしない? 咳もしているでしょ?」

私は雅彦に提案し、風邪用シロップを差し出す。
「たまには気が利くんだな」
雅彦の余計なひと言で、私は奥歯を噛み締めた。

雅彦が風邪用シロップの蓋を開ける、
口をつけ、瓶ごと天井を仰ぐ。

「あっ、ごめんなさい!」

雅彦の背中に私の肘が当たった。
雅彦は飲んでいる途中で、口と鼻からシロップを
吹き出し、ゲホゲホ咽せ始めた。

「何やってんだ!」咳込む雅彦の顔は
見る見る赤鬼になり、目が血走っていた。
雅彦の手にあるシロップの瓶を振り上げて今にも飛んできそうだ。

「ごめんなさい」

私は身体を小さく前へ折りたたむように、雅彦へ謝罪した。

でも、どうせこの男は私が謝罪すれば、
反省する素振りを見せれば自分へ屈服したと思い素直に二階へ上がっていくに違いない。



2022年1月15日

雅彦は風邪薬を飲んだ夕方から高熱が続き、
38度から40度まで上がった。

二階からは絶え間ない咳が聞こえていた。
しかし夜遅くにSNSで「お腹が空いた」と書き込み、腰痛の様子はなかった。

深夜まで雅彦の咳が響き渡り、熱は2日間41度台が続いた、しかし食事はしていた。
朝になると、作ったラーメンの残骸が流しに置かれたままだった。

雅彦とは会話がなく
「これだけ食欲があるなら回復するだろう」
私は自分の用事や片付け以外、雅彦がどのような状態であれ一階の和室から出なかった。

雅彦がコロナに感染してから3日目。
保健所からの指示で、雅彦は入院の必要に迫られ、
保健所から連絡があった2時間後に迎えが来た。

黒のワンボックスカーとカジュアルな服装の、
職員二人へ
「ご迷惑をおかけいたします、お願いします」

玄関内から雅彦を見送る。
激しい咳が止まらず、解熱の兆しもない雅彦の顔は、なお血色よく見えた。

雅彦は私の顔など見ることなく、車に乗り、
本当に私は下僕なんだと身に染みた。