小説)覚醒へのプレリュード ①
【あらすじ】
新婚当初から夫・雅彦の暴力。周囲の協力を得て、もがきながらも前に進もうとする主人公・菜月。義父との関係で葛藤しつつも、新たな出会いにも気づく。
自堕落な生活が招いた夫の予期せぬ死に、菜月は安堵の気持ちを抱きつつ、将来への不安を感じていた。葬儀の際、義父との微妙な関係性や息子への偏見で苦しむ義理の家族についても考えさせられる。
多忙と向き合いながらも、菜月の前には優や猫のマリンといった新しい人物により、価値観の違いを感じつつも、次第に信頼関係が築かれていく。
過去の傷跡は癒えず、複雑な心境に苛まれる菜月だが、優やマリンとの同居生活をしながら穏やかな日々の中に、少しずつ希望を見出していく恋愛物語。
全四話
2024年1月29日 後半→
焦げた匂いが鼻孔を刺激する。
私は慌てて台所に駆け込んだ。
フライパンの中で豚肉のソテーが真っ黒に焦げて、時計を見ると、もう18時を回っている。
今日は亡き夫、雅彦の三回忌。
窓から空へ手を合わせようとした瞬間、背後から低い声が聞こえた。
「ただいま、なっちゃん。
今日は雅彦さんの三回忌だったね」
振り返ると、そこには派遣社員として働く優が温和な笑顔で立っていた。
同棲している優は満期を過ぎても現在の工場で働きたいと望み、発泡酒でも「旨い」などと機嫌よくしている。
偶発的に物が落ちて、私の身体がビクンと反る。
優はすぐに察し
「あらら、物に足があったね」
優は笑いながら物を拾う。
私へ「何も怖くない」と言いたげな一面。
私の身の上は過去の出来事だと特別視せず
「人なんてもんは、
人生が転がるたびに何らかの傷を付けながら前に進むもんだ」
「なっちゃんがそばにいてくれたら、それでいいんだ」
頬がこそばゆくなるセリフをサラッと言いのけ、私を心地よくさせる。
この男、優もワケ有り。
「過去は過去。捨てても惜しくない過去がある」
優と出会ったとき、私へ言ってくれた言葉で、
過去をなかったことにし、先を生きて生けるのならそれでも良いと思えるときがある。
振り返る必然性がない。
週刊誌やテレビで、桜井優の名前と顔だけ知っていた。
出会ったとき、まさかあの有名人がこんな片田舎で派遣労働者をしていたとは想像さえしなかった。
「絶好調ばかりじゃないね。
人は裏切る本能を持っているのかな」
何かのとき優がテレビを観ながら呟いた。
優はあまり話題にしないが、日本屈指の有名私立大学に在学中、起業した優はインサイダー取引で逮捕されていた。でも、かつての面影はどこにもない。
私は詳細を知らない。
優がこの片田舎の高校を卒業後もずっと地元に住んでいると聞かされても信じてしまうだろう。
借家の壁はタバコのヤニで黄ばんでおり、掛かっているカレンダーに何かを書き込むんじゃなく、ただ曜日が分かればいい。
だから『今日のこと』もメモせず、昨日に並んで今日があるのみ。
現在、桜井優と猫が形では家族。
夕飯は、隣人がくれた白菜とイリコの煮付け、半額になった刺身の盛り合わせ、豚肉のソテーはただ塩コショウで炒めたもの。
これらを優と突きながら
「明日は雪が降るらしい」
「水道が凍結しないかな、水が出ないと困るわ」
「それだったら、日曜に要らない毛布を水道管へ巻いておいたよ」
などと老夫婦みたいな会話をする。
「帰りに灯油を買っておいたけど、買いに行くたびに値上がったとビクビクするよ」
過去のITバブル長者が20年経て、猫を抱っこしながら言っていると誰が考えるだろう。
優本人さえ予期せぬ40代だと思う。
「本当ね。スーパーに行ってもまだ卵が高いまま」
呼応するように私は話題に乗り、
過去の婚姻を思えば幸せだと、幸せは神経が摩耗する中にはない。
コピーしたような明日でも、安全と安心があれば充分なんだ。
2年前を思えば、それより前を遡れば。
「この白菜、甘いね」
そうね、と軽く頷き「明日も白菜料理よ」
「俺はなんでもいいし、なっちゃんの負担にならなきゃ、特に好き嫌いはないからな」
優はご飯にソテーを乗せて、一気に口へ頬張り
男子高校生の勢いを思わせるような咀嚼。
外の風が室内まで音を響かせる。前線が変化し、
明朝は静まり返った銀世界になっているかもしれないし、いずれにせよ寒い朝が来る。
こんな日は早く布団に入ろう。
猫のマリンへはアンカを入れてやり、早めに出勤しようなど頭の中で段取りを決めていた。
2021年5月1日
新婚早々、私は自由が欲しくて、
夫の雅彦と離婚したかった。
今年1月。
婚活サイトで知り合った18も歳上の雅彦は
「生涯、お前しか愛せない。
宿命があるとすれば、俺とお前が共に生きること」
当初、雅彦のファッションセンスは良く、
いわゆる"イケオジ"と呼ばれていたが、
それもうまい具合に作り出されたものだと分かった。
雅彦いわく婚活必勝法があるらしく、いかに第一印象が大事かを
「お前もそうすればもっとイイ女に見える」と
のちの私に語っていた。
3月に入籍し、雅彦の転勤に合わせて雅彦の実家がある地方へ引っ越して一緒に暮らし始めた。
いざ、結婚してみたら、
雅彦は独身時代と生活が変わらない。
新婚生活は暴言と暴力から始まり、政府はウイルス対策で不要な外出を禁止したにも関わらず、
雅彦は夜の街から帰らない日が続いた。
次第に、雅彦が夜にいれば煩わしいと感じるほどになった。
夫婦でおしゃれなランチは、夢のまた夢。
「主婦の癖に、お前、誰の扶養か分かってる?」
私がパートで稼いだ、月6万円の給料も、
雅彦はわずか2万円しか私に渡さない。
「お金の管理は男の仕事」「女は浪費する生き物」
セールで買った千円のブラウスにさえ皮肉を言う
千円でいくらの消費税が掛かったか考えろと言われた。
そんな雅彦の健康診断結果は悲惨な数値が並び、
健康に留意した食事は、
「夫、虐待」「家畜のエサ」と罵られた。
私は雅彦に恋をしたまま人生を委ね、
バケツの中から出られない窒息寸前の魚になった。
私の選択が自己責任論で裁かれるなら、
雅彦は何の自己責任を果たすのだろう。
私はこの時期から自分で手を尽くし、
やれることはやったつもりだ。
まず、地域の民生委員にアポイントメントを取り、
そこから法的支援が有効とのアドバイスを受け、
警察の生活安全課を頼り、同じDVに悩むサークルの方々と知り合うなど応援をされて頑張った。
知り合った人たちは皆、揃って優しく
「松岡さん、踏ん張り時だからね。
いつでも声をかけてね」
周りからもらったアドバイスに従い、
証拠集めに慣れない日記をつけ、整形外科へ行き診断書をもらうなど精力的な活動をした。
雅彦は仕事を終えても定時に帰宅しない。
よって私はパート時間を増やし、ネットで少額だが株までやるようになった。
雅彦から逃げたい一心で、お金を貯める。
古い家には慣れたので、古くて小さなアパートで暮らしていくのも悪くない。
賃貸情報を閲覧し、同時に正社員で働ける職場探しもやって、万全の体制ができつつあった。
2021年6月9日
平日の休みは、義父を尋ねて身の回りの世話をしていた。
義父は温厚な人柄で、婚前に挨拶へ来た私と嫁になった私ではやつれてしまったと心配してくれた。
「すまんね。雅彦は本当に優しい子なんだけど、
都会へ出て人が変わっちまったよ」
雅彦の私への暴力は都会へ出たせいじゃない。
心の中でツッコミながら聞いている。
義母は私が嫁に来る前に他界し、義父は慣れた手で
お茶を用意してくれる。
生前の義母はマイセンのカップが好きだったのか
お茶を出すたびにカップの花柄が違う。
薄くて、飲み口が滑らかなコーヒーカップ。
そして寝室に小綺麗な布団を用意して
「ここで休んで帰ればいい。雅彦もうちにいると知っているから多少遅く帰っても何も言わないだろう」
ソファに座る私の前に屈む義父は、フレアスカートを捲くして湿布や傷薬を塗ってくれ、
腕に絆創膏を貼ると私の袖を直してくれる。
義父が私の手足を治療しながら、
「遠慮せずに警察へ通報しなさい。
短い間でも菜月さんはよくしてくれた」
昼食に義父と出前のお寿司を食べる。
昼間、障子から差し込む陽はいけないことをしているような背徳感と思えなくもないが、ここは今の私には唯一の避難所。
時には義父と庭へ出て、野菜の苗を植えたりする。
雅彦にしてもらえないこと、親にも言えなかった願望を義父は知っていたかのように扱ってくれる。
雅彦が妻を蔑ろにするのだから、私が背徳感を抱くのは筋違いで、これも義父の健康法だと割り切れば自転車を使ってでもここへお邪魔したくなる。
私がやっていることは甘えなのか?
いや、介護と言い切っていいと思う。
義父の元から帰ると、雅彦は出掛けた後で、
私はゆっくりお風呂に入る。
シャワーを首筋に当てると、義父が塗った薬がヌルっと指を滑る。
「今日も遅くなっていいからね」雅彦に届かない声。
私は風呂上がり、義父が貼ってくれた湿布や絆創膏を剥がしていく。
2021年8月4日
いつものように雅彦を玄関まで見送る。
電車に乗る時間を見計らい、予め依頼していた引っ越し屋に来てもらい、軽トラ1台分にもならない荷物を運び込むと新しいアパートまで逃亡した。
アパートは築年数が少ない、南ヨーロッパ風の洒落た部屋。
ロフトやベランダが付いて私の結婚生活を帳消しにするには十分な夢が詰まっていた。
雅彦との生活はどうなってもよく、
別に妻の座は必要ない。
暴力に怯えながら、帰宅を待つのはもううんざり。
雅彦は雅彦で好きな人ができて幸せになれば、
私のことなどすぐに忘れるだろう。
短期間の婚姻生活とは言え、心にはトラウマのような後遺症が残った。
大きな声、大きな音、テレビで観る暴力的な場面に
「恐ろしい」
自分が思うよりも身体が素早く反応してしまう。
無意識に流れる涙を指で拭いながら、一時の感情や甘言に流された自分を悔いた。
小洒落たアパートには、家具や電化製品があり、ベッドまで付いていたので荷物が少なくても、それなりに立派に感じ、快適な生活が送れた。
世の中は感染症で人の移動が規制され、マスク警察などと意味不明な人々が出現する閉塞感が帯びていたが、
私だけは自由を満喫し、開放感を噛み締めていた。
桜井優と出会ったのは、新しいアパートへ引っ越したぐらいだった。
真夏の夕方。私はアイスクリームを買いにスーパーへ向かっていると歩道に茂る草むらから仔猫の声がする。
空耳かと思い、立ち止まると仔猫の声は大きくなった。「どこにいるの?」
草を掻き分けても仔猫が見当たらない。
夕方でも30度は超えているような暑さだ。
早く見つけてやらないと仔猫は死んでしまうかもしれない。
サンダルのまま、歩道から草の中へ入っていると
「どうかされましたか?」
着崩した白いTシャツにベージュのカーゴパンツ、
私よりも少し背が高く、すらりと伸びた体格をして
足元は下駄を履いた男性が声をかける。
「仔猫がいるみたいなんです」
無精髭を生やした40代位の男性は表情を変えず
「これ、持ってもらえます?」
私に黒のリュックを預けると、下駄で奥まで進んで行った。
男性の腕から聖母マリアのタトゥーが覗く。
仔猫のミィミィと鳴く声が近くなり、
「いましたよ」
男性の右、目元に並ぶ3つのホクロ。
この人、どこかで見たことがある。
そうだ、あのタトゥーもセットで、
どこで見かけたんだろう。
私は昔、駒沢に住んでいた。西友に通っていたのでその頃の常連客かもしれないし、
でも、ここは地方だ。
(誰だろう……)
白色が勝ったサバトラ猫はまだ目が青く、膜が張っていた。
爪を立てて泳ぐように男性の手のひらで暴れている。「かわいいな」
でも、私は仔猫を見つけても飼えない。
「どうしましょう、仔猫を見つけたのに、
アパートはペット不可なんです」
採れたての仔猫を眺めながら、人差し指で頭を撫でてみる。
「そうなんですね。じゃ、俺がもらっていいかな」
一瞬、私は自分の獲物が盗られた顔をしたのか
「あなたが良ければ、たまにうちへ仔猫を見に来ませんか」
『あなた』という響きが新鮮に聞こえた。
会社や社会的には松岡の苗字で呼ばれ、
家に帰れば「お前」と呼ばれてきた私は、
枯れかけた葉に水が撒かれたような気持ちがした。
「いいんですか?」
男性は笑顔を見せ「喜んで」
このままの勢いで私は男性とホームセンターへ行き
私が外で仔猫を抱いて、男性が買い物するのを待ち
そして、私が帰る同じ方向へ歩き、
男性の自宅に付いて行った。
男性の家はうちのアパートから目と鼻の先にある、
平屋の一戸建てで、駅に向かう途中にあった。
(近所だから顔見知りだったのかもしれない)
初めて上がる男性の家では、
2人が仔猫へ付き添いお風呂に入れる。
「目やにが取れない」「ヤダ、引っ掻いた」
どうしてこれだけの事が楽しいんだろう。
私、どれぐらい振りに笑ったんだろう。
仔猫をタオルで包んだものを私が抱き、
男性はドライヤーで仔猫を丁寧に乾かしていく。
「夏だから、半乾きでも平気かな」
仔猫のトイレを用意してやり、細かく潰れたウエット状のエサを皿に乗せてやる。
草むらにいた時は、毛が固まってゴミのような仔猫がふわふわの毛をした王子さま猫に変わった。
気づいて辺りを見渡すと、部屋の中はガランとしたいや、整理整頓がなされた室内で
蚊取り線香の匂いが切なく鼻をかすめる。
男性の部屋って、こんなに綺麗なんだな……など、
ぼんやり考えていると
「腹、減りませんか?」
ホームセンターで猫グッズを買ってもらった代わりに私がUberを注文させてもらった。
居座ろうという気がないのに、私はこの家にいる。
男性は帰れという素振りは見せず、
初対面なのに会話が弾む。
こうして笑っているのが当然のような、
以前からの知り合いと昔からの習慣みたいに、
男性には素の自分が見せられる。
「お姉さん、名前は?」
「松岡菜月。あなたは?」「桜井優」
「この子の名前は?」「サバネコだからサバ?」
「そのまんまじゃん。あっ、マリンかな」
マリンを包むのは見た感じ上質な生地でできた、
紺色のブランケット。昔からいたように丸くなり眠っていた。
気づくと時間は21時を回っていた。
慌ててバッグを握り
「ごめんなさい、こんな非常識な時間まで」
私が立ち上がると優は引き出しから
「いつでも来て」丸みを帯びた鍵を渡してくれた。
いつでも来て、と
言われながら私は優と朝まで過ごした。
私の首筋を優は「懐かしい匂いがする」
初めて会った気がしないんだよね、と笑った。
翌朝アパートへ帰宅した私は洗濯機を回しながら
pcで『桜井優』を検索した。
(どこかで見たことがあるのよ)
検索にヒットしたのは若き日の桜井優で、青年実業家とあった。
私より5歳年上の39才か。
画像検索には、右目の下に3つのホクロがある顔や別の画像には腕に聖母マリアのタトゥーがあり
(だからなんだ……)
インサイダー取引での逮捕で警察車両に乗る優は、昨夜の優とは別人の、誰かを煽って挑発している目つきだった。
過去とはいえ時代の寵児に私は弄ばれたのかと、失笑し、幸せと書いて幻と読むと鼻で笑った途端。
「なっちゃん
悪いけど、ここに来る前にマリンの移動用ケージを買ってきてほしい
マリンを動物病院へ健康診断に連れて行きます
お金はあとで払います」
いつのまにか『なっちゃん』呼びで、今日も優の家に行く前提のショートメール。
優の書いたことを本気にしてケージを買って家に入ると
「マリン!ママが帰ってきたよ」
