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「また今度」が減っていく|ゴッホ展に行った話

美術を知らないまま、美術館に通っていた

昔から美術館や博物館、水族館が好きだった。
とはいえ、美術に詳しいわけではない。

学校で美術を学んだ記憶もほとんどないし、絵画史を勉強したこともない。

私の場合はいつも逆だった。

まず作品を見て気に入る。
その後で作者を知る。
そんな見方をしてきた。

若い頃は初期のラッセンが好きだった。
海の青さ、魚の華やかさやイルカの存在感に惹かれていたのだと思う。

ただ、いつ頃からだろうか。
作品そのものよりも、商業的な匂いが気になるようになり、
少しずつ離れていった。

それでも美術館へ行く習慣は残った。

レンブラント。
フェルメール。
そしてゴッホ。

振り返ると、私は説明よりも印象の強い作品に惹かれてきた気がする。


気づけば、ゴッホの絵が増えていた

部屋には今でも飾っている絵もある。

『アルルの寝室』
『アルルの跳ね橋』
『星月夜』

図録を見返してみると、自分が思っていた以上に
ゴッホの作品を見てきたらしい。

なぜ好きなのかと聞かれると、うまく説明できない。

色彩なのか。
構図なのか。
筆遣いなのか。

たぶん違う。
理屈ではなく、ただ目を引かれたのだと思う。

美術に詳しい人なら、もっと上手に説明できるのかもしれない。

私はただ、好きだった。
それだけだ。


絵の後から、人生を知った

後になってゴッホの人生を知った。

生前はほとんど作品が売れなかったこと。
精神を病みながら描き続けたこと。
亡くなった後に評価されたこと。
そして何より、描くことをやめなかったこと。

私はそこに少し惹かれた。

絵の評価や市場価値ではない。
うまくいかなくても続ける姿勢の方だった。

私自身、調子を崩した時期がある。
もちろん画家と会社員では何もかも違う。
それでも、思うようにいかない時に
何かを続ける難しさは少しだけ分かる気がした。

だからゴッホの作品を見る時、私は絵だけを見ているわけではない。
その向こうにいる人のことも考えてしまう。

惹かれたのは才能ではないと思う。
描くことをやめなかったことだった。

評価されなくても描く。
売れなくても描く。

その執着のようなものに、どこか憧れていたのだと思う。


夜のカフェテラスがやって来た

そんな中で、今年ゴッホ展が開催された。

その中に『夜のカフェテラス』が含まれていると知った。
好きな作品の一つだった。
しかも20年ぶりの来日らしい。

その言葉を見た時、少し考えた。
若い頃なら何も思わなかったと思う。

またそのうち来るだろう。
そう考えて終わっていたはずだ。

しかし今は違う。
次に来る時も20年後かもしれない。

その頃、自分はもう若くない。
元気に歩いているだろうか。
美術館まで足を運べるだろうか。
あるいは、そんなことに興味を持っているだろうか。
そんなことを考えた。

だから行くことにした。
ゴッホ展を見に行ったというより、
『夜のカフェテラス』に会いに行ったと言った方が近い。


変わらなかった絵と、変わった自分

会場で実物を見た時、正直うまく言葉にできなかった。

圧倒されたわけではない。
涙が出たわけでもない。
何か劇的な発見があったわけでもない。

ただ、
「ああ、来てよかったな」
と思った。

不思議だった。
絵は何も変わっていない。
変わったのは私の方だった。

仕事も変わった。
住む場所も変わった。
家族も増えた。
体力も減った。
考えることも変わった。

同じ絵を見ているのに、見えているものは昔とは違っていた。


「また今度」が減っていく

歳を重ねると、「また今度」が少しずつ減っていく。

いつか行こう。
いつか見よう。
いつか会おう。

そう思っていたものに、少しずつ期限が見え始める。
だから最近は、行ける時に行こうと思うようになった。

今回のゴッホ展は、絵を見るためだけの時間ではなかった。
「また今度」がどれだけ残っているかを、静かに確かめる時間でもあった。
そして、それは決して悪い時間ではなかった。

好きだった絵は変わらずそこにあった。
それだけで、十分だった。


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